2009年4月10日金曜日

今日の想い 七十一

どれほど責任者が信仰として御父様の願いを受け入れたとしても、責任者にすれば自分ひとりで抱えることは出来ないので、ある意味下に要求を投げる。脅してでも無理難題を下に背負わして七転八倒の苦難路程を強いることが責任者の務めと割り切るなら、その位置に立つ事は自分の器の中には無い。願いを受け入れる事が他の心情を蔑ろにし地獄に追いやる事をも含んでいるのであれば、それをよしとしてハイと言って受け取るのも信仰であり、自分には出来ませんと断るのも信仰なのだと思う。義父が上官の命令で目をつぶり念仏をとなえながら無抵抗な者に銃剣を突き刺したように、自分の本心に聞くことすら許されず、はいと言うことが強要されるのとは違って、正直に自分の所感を述べる事くらいは許されていると思う。否定され怒鳴られる事が問題なのではなく、正直なところを述べてそれでも納得してもらえない、或いは納得できないのであれば引くことも仕方のない事だろう。自分の進退や生活に関わる事柄も巻き込むであろうし、それらをカードにしながら政治的な圧力も内外に働くだろうが、それも致し方の無い事だ。綺麗事とみ旨とは違うことはわかっている。しかしどれ程複雑で醜い感情が渦巻くとしても、その根底に真の父母の愛が流れている事だけは感じ取りたい。それを感じ取れないか信じられないのであれば、自分はその場に居るべきではないと思う。その原因が責任者にあれ或いは自分の内的無知から来るものであれ下す判断は誰でもない自分自身である。自分の内面によくよく問うてこの人事が天から来たものかどうかを見極める。人事を天に任せたと言いながら自分の中に割り切れないものがあるなら、行動や結果に対して責任を転嫁する思いがあるだろうし、そこまで真剣になるのは煩わしい事だと無視しているに過ぎない。兄弟ひとりひとりが自主性を持って受けること断ることができないと言う弱さが、全体的な体質としての弱さもろさになっていないだろうか。自分に直接働く神様であり自分の中に内在する御父母様であるとどれだけ確信しているか。

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