2009年4月19日日曜日

故郷

過去をどこまでもどこまでも遡って、まだルーシェルの影響すら受けていない神様の熱い熱い天地創造人間創造への想いが躍動していた頃の記憶を取り出す事は出来ないのだろうか。自分という存在を内外両面からことごとく観察しながらどれ一つ神様が係る要素がないということは在り得ない。生まれながらにして堕落の身であり自分という全存在が堕落要素から出来ているとするなら、救いであるとか復帰だとかは全く無関係な存在であろう。堕落的要素が多くを占めるとしても、創造本性から来る要素をちゃんと見出してあげることが自分を愛することであり、自分を愛する事が他を愛する出発点なのだと思う。自分は存在する意味すらない、全くもって駄目な存在だといった誤った認識に立って、そこから創造的何かが生まれることは無い。信仰として自分を否定するとは自分の誤った認識を否定するのであって、自分という全存在を否定する事ではないはずだ。その意味で今までの歩み、特に日本での歩みに於いて誤解があったのではないかと思う。少なくとも自分はそのように扱われて来た認識がある。駄目だ駄目だととことん貶められて、だから奴隷として歩んで当然だと押し出されて創造的建設的な歩みになることはないだろう。堕落要素が血統的なものとして自分の中にあるように、どれほど奥深く隠れていたとしても創造理想の本性をも血の在り様に見出されるべきだ。本性要素は堕落以前へと自分の血統を遡る時見出されるであろうし、堕落の影響を受けていない当時の懐かしさを自分の感情の中に捜し求めることができる。記憶は今生のみに限定されてはいるが、自分の内面に何処までも何処までも下って行きながら捜し求めていくと父子の因縁に起因する欠片の一つ二つは辿り着けるはずだ。であればこそ故郷という言葉が御父様から出てくるのであって、故郷の場が自分の魂に取って全く関係ないのであれば故郷とは言えないだろう。懐かしさが込み上げてこそ故郷と言える。今の今、その感情や認識は無いにしても、御父様がその感情や認識を持っておられるように、我々もその認識を得る事がいつの日か出来ると思う。であればこそ御父様の故郷は私の故郷でもあるのだ。

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