2009年4月7日火曜日

今日の想い 70

晴れやかな朝のように心が晴れ渡り、高次にある存在への接近と接触が開かれる時がある。逆に雲が低く垂れ込め、濃い霧がかかって一寸先も見通せないほど、自分という存在意識が肉体本能のみにしか向けられない時もある。霊的に重いとか霊的に軽いとかと言うのは、唯の気分の問題として軽々しく捉えられる事ではなく、自分という宇宙の中にどういった霊が関与し働きかけているかに拠るのだが、おぼろげに何となく感じ取れるとしてもその本質を見極めるほどに分別されてはいない。自分の周囲を見渡した時、同じ情景を隣の人も見ているように思われるかもしれないが、人によって見える情景は違う。見る対象は同じものであって同じものではない。見て聞いて、或いは触れたものを意識的に捉える事で見た聞いたと言いそして触れたと言う。人によって意識の度合いは違う。周囲の世界は自分と関係を持たなければ自分に取っては全て幻であり、意識的に捉えたもので自分の周りの世界を認識している。従って意識の届かないところは認識の仕様が無く、周囲を本質的に認識しているとは言えない。御父様の在り様と自分の在り様の違いは意識できる度合いの違いであり、それによる認識の違いだと言う事もできる。認識の違いが余りにも甚だしく、ある時は落胆されある時は激怒される。堕落以降の気の遠くなるような年月を費やして今の意識在り様に至った。創造本然の本来の意識在り様とは違うとしても我々の5%の努力で御父様の在り様に近付ける段階まで来ている。我々を見て御父様は歯痒いに違いない。その5%がどうして超えられないのかと言った思いが表情や行動に表れる。裸になれと言われるように、当然の事として疑う事も無かった意識在り様と認識が、実はサタンによって装着されていた色眼鏡でありフィルターを通して受け取り認識していた事実を認め、捨て去る必要がある。それを自己否定と言う。自己否定すれば誤認で作り上げている自分の世界、自分の居所まで崩れ去る。そこには犠牲にし供え物にすべき感情が伴う。

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