2009年4月16日木曜日
自我としての宇宙
明かり一つ無い山間に佇み天を仰ぐ。漆黒に覆われた帳の先を見通そうとする時、言いようの無い感情が沸き起こる。その感情はあの闇の向こうに何があるのかひたすら尋ね続けようとする。自分の理性は、問いの答えは永遠であり無であることを言い聞かせようとするけれど、そうすればするほどその感情は膨らんでいく。膨らんで膨らんで自分の魂が抱えきれなくなり、吐き気を催す恐怖感に襲われながら意識をその感情から逸らすよう逃げ惑う。その感情から解き放たれる安らぎを手当たり次第に求めるけれど、求める事は漆黒のあの闇の向こうにまた目をやることになる。絶望感と孤独感で心は病み、気が触れる後一歩のところで彷徨い続けていた。しかし、自我の宇宙的大変革は盗人のように自分すら気付かぬ内にもたらされた。投影された大宇宙が外界に広がっているように、自我宇宙が内なる世界に広がっていることの認識をいつの間にか受け入れていた。大宇宙に対する認識を何を犠牲にしても持ちたいと言う、自分でもどうしようもない衝動は、実は自分という自我宇宙に対する認識を持ちたい、自分自身が何物なのかを知りたい衝動なのだ。感覚世界に身を沈めながら感覚で受け取るもので自分の宇宙を認識し刺激し、色彩溢れる活き活きとした在り様に創造されていく。内面に熱と光が届けられ、思考と感情と意志が発動する。過去には自分の中で問い続けてはいたけれど、何がそうさせていたかも知らずに問い続けさせられていた。喜怒哀楽は覚えるけれど、それが何になるのだろうと覚めた目が意識されると一瞬にして空しさに変わった。日常生活の動きにすら自分は介入してはいなかった。しかし今は内面に熱と光が溢れんばかりに届けられる。自分の新生的在り様がみ言に感化された思考、祈りに満たされた感情、突き動かされる衝動として内なる宇宙として働く。それが御父母様に出会えたことの証なのだ。
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