2009年5月29日金曜日
母の国
摂理の要求に応える為、母として負いきれない責任を抱えながら、身も心もボロボロの状態が続いてきた。本来なら早くに長男やそれに続く子供達が母の状況を思い遣り、一身に背負うものを替わってあげるべきだった。やがては成長し、親に代わって摂理の牽引役を引き受けてくれるものとの期待を抱えながらも、現状は、母の想いは通じず出来ない理由を並べながら相変わらず母が仕方なく背負い続ける事になる。日本の状況を耳にするとき、胸が痛い。先日の会議でも日本からの兄弟が報告の場に立ち、それがビジネス報告でありながらも胸に込み上げるものを覚える。母の国の期待に応えるべく長子の国アメリカに渡りながら、現状は見るも無残な状況で、どのように日本の兄弟に申し訳を立てれば許してもらえるのか。アメリカはアメリカで様々な事情があった結果が今なのだが、では全体としてどれだけ精誠を尽くしたか、それが日本が納得出来るものなのかと問われれば何も言えない。霊界に行って最初に問われ、そして讒訴されるのは日本の食口からだという認識がある。御子女様が日本を訪ねられて、誰一人その深みに触れる事の無かった日本の内情を心配されねぎらわれ、そして新たな方向性を示して下さりながら共にその苦労を背負おうとされる。思い遣り溢れる話された言葉をページに追いながら、日本の兄弟がどれほど慰労されるだろうかと本当に有り難い思いがした。御父様は立場上何も言えない。責め立てながらそうせざるを得ない立場はどれほど胸を掻き毟るほどの想いだろうか。それでも最近になって語られた中に、御父様の感謝の心が骨髄に流れている事を思い頑張って欲しいと、日本の兄弟にその想いを示しておられる。御父母様や御子女様の心情を受け取って、身体を癒し心を明るくし、笑顔が蘇る日本の兄弟であって欲しい。誰よりも誰よりも御父母様の心情に近く、誰よりも誰よりも摂理に貢献し、天地が認める母の国であり母の民であることがどれ程見上げるほどの光り輝く存在であるか。全人類が涙を流して感謝し、天国で胸を張って歩けるその誇りを何としてでも分かって欲しい。
心情伝授式
軍隊に放り込まれたような日本での献身生活は決して楽しいものではなかった。強制的と言うには躊躇するものがあるが、収容所と言えなくはないだろう。その中で生き残ろうと思えば、余程の信仰者か私のような何処にも行き場の無い余程の役立たずかのどちらかだろう。信仰者は毎日実績を出してくる。役立たずははなから闘う事を諦めて手ぶらで帰ってくる。勿論手ぶらで帰って来れば上からの追求は厳しい。信仰者や実力者が外での闘いに勝利して生き残って来たように、役立たずが役立たずとして生き残る為には上の追求に対する自分への責めを受け続けなければならない。それはそれで実績を出し続けると同じくらい大変な事だ。どちらにしろ生き残る事の方が大切であり、華々しい実績をいくら誇らしく思っても離れてしまえば意味はないだろう。日本での歩みで感謝すべき事は、否応無く一線に立たされ、否応無く迫害され蔑視され殴られ中傷され、ありとあらゆることをされたことだ。もし収容所モドキの歩みを否定し、世間一般の人々の様に、同じように会社勤めをし同じように生活していたら、虫けらのように扱われることもなかったろうし、歯軋りするような仕打ちを受けることもなかったろう。顔を背け身体がすくむほどに恐怖でおどおどし、いつも尻をまくることを考えながら、この状況が信仰条件になるなどとはとても思えなかった。献身したての頃はそれでも使命感と誇りで走る事ができたが、年月を経るほどに一軒また一軒と尋ね続け、一歩また一歩と歩み続ける事への力は減り続けた。自分を無理にでも押し出す為に自分で自分の頬を力一杯何度も平手ではりながら、なけなしの力を振り絞った。そうして様々な仕打ちを受けながらも、通過してきた過去を振り返ると、そう言った場でこそ御父様の心情の一欠けら、一欠けらが伝授されてきたのだと思う。心情伝授式がその時その場で執り行われた。その意味では先輩食口が鬼として自分の前に立ちはだかった事は感謝こそすれ恨みに思うべきではない。愛として認識するものを受け取ることは無かったが、自分の骨肉の中から染み出す真の父母の心情を受け取る場であったのだと思い至る。頭が理解する前に、感情が受け入れる前に、真の父母が自分の父であり母であると、この骨がこの肉が、受けた仕打ちを覚えて理解している。
2009年5月27日水曜日
訓読会
訓読会での御父様の口を通して、流れ出るみ言を受けながら、み言の本質を受け取っている者がどれ程いるだろう。次元の違いを超えながら、霊肉を超越されて届くものを、御父様は言葉に乗せて表現せざるを得ない。我々に取って言葉以上の言葉を理解する高次の存在にはなっていない。御父様のみ言は宇宙の言葉であり天宙の言葉であるけれど、我々の思考能力には限度がある。我々は思考できる範囲内に生きている。お父様は限度を超越したところで生活してしておられるのであれば、御父様にしがみ付いて、御父様が見て聞いて生きておられる次元の場に連れて行かれないと、み言の本質を捕らえる事はできない。そう言う意味では御父様と我々はすれ違っている。肉体を纏った真の父母を地上に戴きながら、ある者はその存在を知り、ある者はその存在を知らない。真の父母の存在を知る者でも、その理解は人の数ほどに違っている。食口と人括りにするけれど、自分の中で御父母様の存在は自分の価値を超え生命を超えて最も高みにある価値存在には違いないが、それが皆一様であるとは言えない。明らかに言えることは、今はお父様は肉体を持たれておられるために、誰もが同じ御父様を見上げている。見上げる御父様の存在そのものこそ、我々に取って全てである。我々は御父母様の息子娘であると御父様が認知されたことは、宇宙が天宙が、神様が認知して下さったことと等しい。私がどれ程罪深く、地獄の底で呻くとしても、息子であり娘である私を放って置かれることはない。どんな犠牲を払ってでも救い出すのが親であろう。何万光年の果てまで離れ離れになるとしても尋ねてくるのが親なのだ。み言を語られるその心情は、次元の違う世界で彷徨う我々を、御父母様の安息圏内に入れようと必死なのだ。子としての我々はその親の心情を汲み取りながら、必死で差し出される手に必死でしがみ付く者にならなければならない。毎日の訓読会が当たり前のように行われ、当たり前のようにみ言を語られる。子としての我々の為に多くを犠牲にしておられる、その心情を受け取ることなしにみ言の本質など受け取れるはずは無い。
2009年5月24日日曜日
信仰生活
我々の祈りが神に届かない、と言うより祈ることさえしていない。魂からの叫びこそ祈りと言えるなら我々がお祈りと呼んでいるものは別物に違いない。祈祷による神体験を持たず、擬似祈祷を重ねながら幾ら主の名を連呼しても御父様は訪ねては下さらない。美辞麗句を並べ、原理用語を並べたところで祈祷らしき態度を取ってみたという自己満足のみで、内面の深みに下りながら根源に繋がる接点に達する事はない。救いの歴史は復帰の歴史であり、復帰の歴史は闘いの歴史である。神が取るかサタンかの闘いが瞬時の和解すらなく人類歴史を跨いで延々と続いてきた。メシヤの為の基台を築く為、闘いの闘士としてのアベルであり、家庭的闘士であるヤコブであり、そして民族的な闘士であるモーセだった。み言を真摯に受け取るなら意識圏無意識圏に係らず、この眼で見る事を許されない領域で、自分の魂を引き裂く闘いが繰り広げられていることがわかる。この闘いに意識的に係ることこそ信仰と呼ばれるものだ。よって信仰とは闘いである。信仰があるとは闘っていると言う事である。み言に照らしながら闘う対象を明確に認識し、内的勝利を勝ち取って行く。闘いから逃げれば安息の場で休めるのではなく、その場でサタンが己が魂を掻っ攫っていく。内面の闘いの在り様をつぶさに見届ける霊的感性を備えれば、辟易する闘いの残骸を見ざるを得ない。勝利された真の父母に繋がる自分であると言う意味は真の父母の勝利圏を相続できる自分だと言う意味だが、自分が闘いの中に翻弄されていることを自覚しない限り、勝利圏が必要だという認識もない。御父様の願いを受け取る祝福家庭であるなら、願いに応えたいという熱い想いが噴出すのを覚えて当然なのだ。いろんな理由を並べながら距離を置くこと自体、闘いから逃げ回り、わざわざサタンに魂を差し出していることになる。自分の内面を凝視し、闘いに向かう恐れと臆病な思いを乗り越え、勇気と大胆さを備えてこそ、本当の信仰生活を送ることができ、内面深く下りながら魂の叫びである祈りを届けることができる。
2009年5月23日土曜日
会議の帰りに
定刻七時に飛び立った。夏時間で太陽はまだ高い。早めに空港に着いたもののエコ対策のひとつなのか港内は温度設定が高めで、暑さに弱いアメリカンは流石に皆不機嫌そうだった。そのせいで狭い機内ではあっても涼しい分人心地がつく。私も飛び立って直ぐうつらうつらし始める。夕方東へ向いて飛ぶと日の暮れ方は早い。一時間の時差の分、時間は早回りする。狭いシートに深くかけ直して本に目を通そうとすると、既に高度を下げ始めた。何度か身体が引き下ろされる不快感を覚えた後、左翼をグッと落として大きく旋回していく。楕円の窓にワシントンのモールが映されるはずだ。この瞬間はどうしても逃せない。窓側席ではなかったが身を乗り出すようにしてこの瞬間を待っていた。旋回と同時に夜景が広がり、その中に街灯で縁取られた長方形の区域が浮かび上がってくると、手前からリンカーンメモリアル、ワシントンモニュメント、そしてキャピトルと連なる景色が目の中に飛び込んでくる。夜間照明に映えながら現代のローマの威厳を未だに誇示しているようだ。アメリカ市民であれば何処にいかなくてもここだけは訪れるだろう。広いモール内の一連の建物郡のひとつひとつに足を運びながら自由主義信仰を参拝していく。しかし最近は詣でる人々の様子も変わってきた。かつての厳かさは今では見当たらない。自由主義の下の一枚岩は既に崩れかけている。天を突き刺さんばかりのワシントンモニュメントが角度を変えながら迫ってくる。並み居る聴衆の前にアメリカ救国を訴えたワシントン大会当時の興奮が目の前に蘇る。二十世紀に叫ぶ一つの声として、アメリカに対する神の願いを叫ばれ投入された魂をこの地は受け取っている。上空から見下ろしながら、その叫びを感受できる自分になっているだろうか、その叫びに呼応し新たな衝動を呼び起こす自分になっているだろうかと問うて見る。機内をでると薄暗く人気の無い静かなロビーを人々は足早に散っていく。誰よりも誰よりも御父様から多くを受け取り、多くの負債を抱える自分も、散り消え去っていく内の一人でしかない。私は真の父母に侍る者として、自分が叫ばずに誰に叫べと責任を転嫁するのだろう。
今日の想い 81-2
青春時代の輝く時を横目も振らず活動に没頭してきたが、それが何だったのかとの疑問が多くの兄弟の問いだろう。はたと気付いて立ち止まると、自分は本当は訳も解らず笛吹くままに踊らされていたことに思い至る。信仰が確立され、自分の信じるところを真っ直ぐに突き進んできたと思える兄弟がどれ程いるだろうか。立ち止まる兄弟は立ち止まる事もある意味必要で、真摯に自分の内面に問うてみながら、御父様と自分との関係性、み言がどの様に自分に働きかけ霊的骨身として組成されているか、日々の歩みがどういう意味があるのか、そう言った問いが内面に現れることこそ幼子が物心つくのと同様に、本来の人間存在としての自我の目覚めが始まったと言える。ビジネスに身を置くものなら、MBAの一つでも取得して華々しい経済界で辣腕を振るっていたかも知れない。音楽が好きであれば深い音楽感性を磨きながら、大衆に認知されて目覚しい活躍に身を躍らせていたかも知れない。デザインに関心があれば、服飾を初めジュエリーや店舗内装といった光り輝く場が用意されていたかも知れない。もし、と言う言葉で始まればそれが霧散する夢であることは分かっていながら、もしを事ある毎に並べながらそれはそのまま悔恨へと繋がっている。悔恨の思いに感情魂を漬け込みながらも、み旨と言われる歩みをとぼとぼ惰性に任せて歩む事で、天国が何かも分からない天国行きの保険として、身を祝福家庭の枠組みの中に置いている。こういう異邦人的信仰は絶対信仰とは言えないだろう。どれほど内的らしさを装っても、結局は外的なものに価値を置いていることを露呈している。真の父母の価値を分かろうとすれば自分の価値あるものと本質的価値が同等でなければならない。頭が理解しているかどうかは関係なく、本質的価値あるものにこそ自分の感情や指先が動くと言える自分になる必要がある。外的に輝かしい人生を生きている人を見ながら彼らは地獄に行き、外的犠牲を払った自分は天国に行くというような単純なものではない。華々しい人々の外的輝きを超える内的輝きを発する自分にならなければならないし、透き通った歌声を胸に迫る旋律に乗せ、感動を誘う歌として響いてくる、それ以上の感動的旋律が自分の内面様相として現れなければならないし、外的デザインとしての創造を超える、内的創造を内面に鏤めなければならない。真の父母から流れてくる真の愛で、この世の外的栄華を超える内面の栄華を築き上げている。私達が現実として周囲に現れる事柄はやがては消え行く幻なのだ。自分の周囲に幻が広がっている。幻を幻として見せている本質を捕らえながら、自分の内面と言う真実の世界を築き上げその世界に生きている。
2009年5月19日火曜日
竜神
御父様が揮毫された年頭標語を見るとき、どれ程力強さや近寄りがたい威厳が紙面の上の筆遣いに踊っている事か。字は人を表すと言われるように、筆遣いに書く人の性格や心が表れる。言葉に魂が宿っているように、文字を記す時にその言葉への内的態度が問われ、どれ程上手に記そうとしても上手くはいかない。それは指や手の技量の問題ではなく、言葉を文字と言う記号を使って表す時、言葉にある魂をどう受け入れ、どう自分の中で主管しているかに依っている。私達が文字を組み合わせながら文章を書いているのを霊的な古代人が見ると、この人間は魔術を使っているのだと理解する。それは馬鹿げた事ではなく、眠っている言霊を覚まし、その影響を及ぼそうとするその行為としての魔術が文字という記号を使って書き上げることなのだ。私達は書くことで記憶させたり整理したりするが、ある意味書くことで内的に影響を与えている。訓読というみ言を読み上げることで内的霊的影響を自分の内面に及ぼすように、書くことを通してその影響をより強める。御父様はいつも小さな手帳を携えながら事在る毎に取り出してページをめくり、そこに記された事柄を呼び起こされながら、み言として語って下さる。どんな風に記しておられるのか興味津々であったけれど、最近の映像にカメラが御父様の手元を大きく捕らえ、開かれた手帳の紙面をはっきりと目にすることが出来た。モーセがアロンに杖を投げるように命じると、その杖は蛇になりエジプトの魔術師が秘術をもって蛇に変えた杖を飲み込んだとあるが、御父様の手帳の中の記号としてのみ言に、幾つもの蛇を見る感覚を覚えた。こんな表現をすると気を悪くされるかも知れないが、様々なみ言としての龍を最小化して懐に持たれ、一つ一つ投げると竜神化したみ言がサタンの蛇を飲み込む、そんなイメージだろうか。自分の書いたものはしょうもないミミズが這っているように情けないが、御父様の揮毫を見れば竜神が天空を自由に舞うような、そんな近寄りがたい見上げる威厳を受け取る。小さな手帳から取り出された竜神がその場で勝利の舞を踊っている。
2009年5月17日日曜日
真の父母
創造の歴史は地上に真の父母を現すということで一つの完結を見る。神様が喜びの対象、愛の対象、そして神御自身の実体対象としての存在を得たいが為に気の遠くなるような創造の歴史と復帰の歴史を積み重ねてきた。堕落の結実としてサタンの本性を受け継いだ堕落人間は、この天宙的事件を他人事のように受け取ることしか出来ない。如何なる霊的存在よりも、如何なる万物よりも、そして神様よりもその出現を喜ばなければならない立場に立つべきこそ堕落人間でありながら、そのおぼろげな価値すら見えなくなってしまった。食する事が何よりも大切だと思っている人が、食卓の上に溢れんばかりの御馳走が並べられているのにその価値がわからず、相変わらず塵を摘みながら生き繋いでいるようなものだろう。真の父母が現れることで人類に関する全ての事柄は取り成され解決される。真の父母が全責任を取られた立場であるから、真の父母の取り成しを得ることで全ての人間が堕落依然の状態まで復帰される。勝利された真の父母を頂点とし起源として、堕落の事件から始まるありとあらゆる善悪に分けられた事柄は真の父母を迎える為の必要な出来事として真の父母が認定され、歴史に見る悪の権化の存在も善を際立たせる為の存在であったと認定され、未来への出来事に関しても真の父母故の事柄として取り成される。過去が現在が未来が、時間を超え空間を越えて真の父母が現れた事に完結される。真の父母と口に出して言う事すら恐れ多い人類であり、捨てられて当然の自分に関するあらゆる事柄が真の父母によって始めて、把握され、意味を成し、必要とされる。真の父母によって自分は始めて活きる。この身がどうなろうと、明日にでも地上界が消えて無くなろうと太陽が隠されようと、真の父母の存在が現れたことで全ては善しとされるのだ。真の父母との出会いの接点こそが最重要であり、肉体の生命を繋ぐことなどはそれに比べると影のような事柄だ。生きた真の父母と共に地上にあって息をしている、真の父母が私の中で活動される、この実感の中で受け取る熱いものを一瞬一瞬毎に魂に焼付ける。焼き付けたものこそが、自分の中から照らし出される光として、高次の世界を照らす発光体だ。魂が真の父母の色に染められ、真の父母の言葉で鳴り響き、真の父母の愛に酔いしれる。霊界神界の霊的存在が真の父母にまみえ、真の父母の愛に酔いたいと、真の父母を内在する自分の様相に誘き寄せられる。
2009年5月16日土曜日
生命の木
聖書のいろいろな箇所で人間を木として比喩され記されている。創世記に出てくる生命の木や善悪を知る木から始まって、新約にもイエス様をぶどうの木、或いはオリブの木に例えられている。わざわざ木に例えられるのには理由があって、創造過程の人間進化として植物的な姿形を取っていた時期がある。今の物質組織としての肉体様相が本来の人間の在り様だと言う意見には疑問があるが、人間の姿形に関する限りに於いては本然の人間像と変わる事はない。頭があって胴体があり、そして四肢がある。悠久の歴史を遡っていくと頭を地中に埋め胴体や四肢を天に伸ばしていた時期があった。我々が目にする植物形態は当時の人間形態を見せている。そういう時期を経て地中に埋めていた根としての頭を起こし、段階を追いながら今の人間の形状になっていった。アダムとエバは植物の木に対して生命を得た木として登場した。いや登場するはずだった。それ故に生命の木として完成受肉したアダムは例えられ、善悪知るの木としてエバは例えられる。堕落によってルーシェル的要素が魂の中に入り込み、魂の情的活動を占領された。人間は欲望の木となり万物以下に貶められた。堕落の人間界に、接木される事で生命に繋がる事ができる生命の木として迎えたのがイエス様だったが、み言にあるように完全なる救いをもたらしてはいない。中世期に入ると新たな霊的存在が人類を凌駕していった。新たな霊的存在は魂の知的活動を占領する。霊的内容、内的内容をことごとく排除しながら五感で受け取るものだけが実質とされた。共産主義は極端な唯物思想であるけれど人類は押し並べて唯物観念に染められている。宗教や哲学でさえ唯物的な在り様に変えてしまった。魂体の感情領域、思考領域がこれらのサタンに凌駕されながらも、病や死、苦痛や困難と言った人間に負わされた負の部分を通して魂の中に意識する領域が築かれていく。この意識する領域こそ残された使命完遂のためイエス様に懇願され、神様の願いを受けて最終摂理を担われた御父様が、血と汗と涙で勝ち取られて行った領域だ。様々な儀式を行い宣誓式を発布されながら、現代の秘儀を高次の霊的存在を取り込みながら行われる。ルーシェルによって感情作用が発する胸を奪われ、別の霊的存在によって思考作用を行う頭を奪われ、人間の在り様は無意識的にそれらの存在の奴隷となっている。真の父母様がサタンの奴隷となっている人間への働きかけは、意識する魂として丹田を含む下腹部にある。祝福を通して骨髄に埋め込まれた真の血は、下腹部を死守しながら感情する魂体をサタンから開放し、思考する魂体をもサタンから開放していく。よって成約聖徒は、堕落性本性が活動する胸を生活中心に置かず、唯物思考が活動する頭を生活中心に置かず、絶対性の下腹部に感情動機、思考動機を持つ。絶対性に神様を内在し神殿としての下腹部に魂活動の動機を発する。
2009年5月14日木曜日
失楽園
天使長ルーシェルの誘惑に魂を奪われ、周りのことが目に入らなくなったエバは、誘導されるままにルーシェルと血縁関係を結んでしまった。エバはルーシェルと交わる事で遺伝原理に基づき、良心の呵責から来る恐怖心と、対すべき相手はアダムだったという事実感得の知恵を受けたと、み言には記されている。感情活動としての魂を、それ以上熱を帯びる事ができないほどに煮え滾らせ、何も怖いものなど無く、神の戒めを考慮する理性は吹き飛んでいた。熱様相の中に身を委ね、身を溺れさせ、身を焦がし、ルーシェル存在こそが何処までも何処までも自分を酔わせてくれる事を信じた。いつかは熱様相が冷まされ、冷たい理性界の中に埋没させられること等信じたくは無かった。熱様相の中に酔いしれれば酔いしれるほど、理性界から逃れられる、その認識以外のことは受け付けなかった。しかしそれでも理性は否応無く働きかけ逃れる事はできない。直接的である感情魂に火をつける前に原理原則としての理性魂を育てるべきだった。理性界を渡り歩く事ができる機能を備えた理性魂、これを育てることこそがルーシェルの務めであり存在意義であり本質的喜びであった。しかし胸に覚える愛の減少感が自分に引かれた理性のレールをずらしてしまった。天宙の創造過程に多くの高次存在が関与し犠牲を供えている。多くの天使存在、高次の存在が自らの想いをより高次の存在に委ねながら犠牲を払ってきた。にも拘らず創造過程の躓きが全てを束ねる天使長と人類始祖エバとの間に起こってしまった。抑えきれない熱が魂を凌駕していったのも理性界が司る時間の中にあったように、振り回される熱様相が冷めて、平安で穏やかな親なる神の愛に立ち返れるのもまた、時間の中にあることを教え教えられて、過ぎ去るのを待てば良かった。悠久なる創造過程への数え知れない犠牲を踏みにじった良心の呵責からくる恐怖心と本来の横的愛を交わすべき存在はアダムであることを知ったエバは藁をも掴む思いでアダムに向かいアダムと交わる。終にアダムとエバの両方をも、神に反旗を立てる結果となったルーシェルに奪われてしまった。現在のような人間在り様として物質体に受肉してはおらないアダムとエバは、地表を隔てた、神に見まうことが出来るエデンの園にいた。サタンとなったルーシェルの全ての性稟を受け継いだアダムとエバは、エデンの園を逃れるしかなく、硬化した物質的地上に下りルーシェル的受肉を果たした。地上でしか見出せないものに対する欲、本能欲、情欲、物欲、支配欲といった濃密で低級な欲望の中に沈んでいった。そう言う中で、再創造のマイナス位置からの出発が希望の全てを失った天宙的な悲観的雰囲気に覆われながら始まっていく。肉体を持った人間存在の中に死や、病や、痛みや、悩みを混入され、それらをルーシェル的結実に向かう人類に対抗させながら復帰の摂理が進められる。
2009年5月12日火曜日
今日の想い 81-1
店長の多くは五十を過ぎて六十に近い。毎日の営業を続けることがどれ程の激務であるか、若い者ですらへとへとになるのにその年で仕事をこなそうと思えば過労死と背中合わせだ。肉体的な事もさることながら客商売であるからいつも緊張感を保ち客の反応に神経を集中させる必要がある。更に店長ともなれば全体にも目を遣り従業員ひとりひとりにも心情を注がないと店としてスムーズな動きにはならない。いろんな問題は同時的に起こるし雑用にしたって誰もやらなければ店長自らがやらざるを得ない。そのように四半世紀走ってきて店長達の中に強度の心身疲弊が見える。本来ならこの間に店も成長し、店長も従業員も成長し、全体として増えていくのが願いであったけれども、如何せん献金拠出に明け暮れ、将来への投資どころか維持費ですら儘ならない状態で今日まで来た。生かさず殺さずの状態にある者に断食を強要しているようなものだ。上から見れば、現場にある者が馬鹿に見えるらしい。馬鹿にならざるを得ない状況だったから馬鹿になった訳で、好きでそうなったのではない。資金も無い人材も無い知恵も無い立場で、兎に角毎日の営業だけは絶やさないようにと思えば希望を見据える意志を捨てざるを得ないだろう。それに異論を挟むのであれば二十数年間現場で歩んでみてから口に出して欲しい。状況を説明しようと思えば、未だに上やアベルに対して批判的だの不平不満だのと突っ張り、耳に鉄板が貼られているかの如くで文字通り聞く耳持たずだ。上と下、上司と部下、命令する人とされる人、組織に於いてこのすみ分けが機能を果たし上意下達のみの一方通行は一昔前の教会体質であり、何がみ旨か訳も分からず歩んでいた当時に於いてはモーセ的存在に引っ張られて付いて行く一時代があった。しかし後天時代に入った今、自分の名で祈る事が出来るように許され、一人一人の自我意識が明るくなった状態に於いてはかつての方法は役に立たない。役に立たないどころかイエス様当時の祭司長や律法学者と同じでみ旨を阻んでさえいる。御父様が願われていると言う言葉を錦の御旗にしてごり押しするのは御父様の願いとは明らかに違う。何が本当の御父様の願いかという感性さえ失われて従うのは、内的自由さえ失う。兄弟は今でこそ自由を取り戻して欲しい。お父様が内在できる精神の自由を取り戻して欲しい。我々の魂の中に御父様の在り様が活き活きと活動されるように自由を勝ち得て欲しい。
2009年5月10日日曜日
母の日
母の日にはプレゼントを毎年両方の母親に贈っている。ショッピングモールの中を少しは捜し歩いたがこれと言ったものが無く、結局今年はネットサービスを利用して花と御菓子を贈った。妻の家からは届く度に電話をよこし一言礼を伝えてくるが私の家からの連絡はいつもない。様子を伺う為にこちらから電話を入れた時、そう言えば、、と話が受け取った事に及ぶのだけれど敢えて向こうから電話を入れることは今まで無かった。しかし昨夜母から電話があった。電話代の負担をかけまいと、かけなおす事を告げて一旦電話を切ったが、何かあったのだろうかと、かけ直して用件を聞くまで不安だった。しかし不安を裏切り母のプレゼントに対する礼の言葉のみで安堵した。電話口を通してではあるけれど、嬉しそうな様子が声の張りから伺える。今まで事あるごとに送ってもなしのつぶてだったのでどんなものか窺い知れなかったが、母の高揚した様子を耳に受け取ると本当に良かったと思う。自分が年を取っていく以上に老いた両親は年を取っていく。有無を言わさず飛び出して三十五、六年になるけれど親には人並み以上の苦労をかけてきた。親を捨てることがみ旨であり親孝行だという献身という確信犯的決断は、ある意味子供が不良になるより親不孝だろう。出来れば恨みを解いてあげたいし親孝行らしいこともしたい。肉体がある内にと思えば今しかないだろう。今更でもないが、時間をとにかく割いて顔も見せたいし事あるごとに連絡も取りたい。地球の裏側まで逃げてきてそんな心掛けをもたげるのは親にすると可笑しな話だが、いつどうなるとも知れないしその時は必ず来ることを思わされじっとしてはいられない。仕事が忙しいからと自分に言い聞かせて何もせず、迎えたその時、負い切れない負債が重くのしかかることは間違いない。母親を早くに亡くした母は働くことが当然のように朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。弟の出産日以外、横になった母を見たことはない。高校の時下宿していた安アパートを引き払って教会生活に入る時、流しに立った母は肩を震わせて嗚咽していた。献身してからは滅多に帰ることは無かったが、家を出る度に母の情を振り切るのが何よりも辛かった。連絡を取る度に早く帰って来いと言い続けていたが、それも最近無くなった。電話口の明るい声を聞きながら心配させまいとする懸命さが伝わってくる。この母の恩に自分は何も報いることが出来ない。明日は母の日。家族に囲まれた母の笑顔で店は一杯になる。御母様にも肉の母にも、申し訳なさで一杯の自分は、店に訪れる母親達を喜ばすことで償う事を許されている。
2009年5月9日土曜日
今日の想い 80
寝起きしている校舎の隅に二人で赴き、恥じらいがお互いにあるのか幾分ハス向かいに腰を下ろした。こんな瞬間が訪れた事に対して手放しで喜ぶと言うより、自分の人生では有り得ないだろう状況に今自分がいると言うことがただただ不思議だった。マッチング会場では後ろの方にいた為、受けるとしてもずっと後の方だと思っていたが、始められて直ぐにも声をかけられ決めて戴いた。決められたカップルの会話の場である校舎までは顔も合わさず、隣に沿って歩く気配から背丈ばかりが気になった。校舎の床に腰を下ろして始めて、ゆっくりと顔を見合わせた。笑顔が輝いていた。それが第一印象として今でも褪せることなく焼きついている。その時何を着ていたかとか何を話したかとかの記憶は飛んでいる。相対者からは笑顔の印象をのみ受け取り魂に満たした。三十年に近い年月を経て寝食を共にすることで、お互いの心の隅々までも手に取るように解るようになる。私が相対者の心の中に生き、相対者が私の心の中で生きる。夫婦となりひとつになるとは、ひとりの人間として存在しているような在り様を家庭に於いてなす。内的霊的世界に於いて家庭単位の存在体として活動する。人間ひとりひとりが固有の魂を保持しているように、家庭の魂を作り上げ保持する。ひとつになる過程に於いては様々な葛藤がお互いの心の中で渦巻く。葛藤がお互いの距離を遠ざけるのでなく、ひとつになった家庭魂を作り上げる為の触媒として働く。様々な内的霊的化学反応を繰り返しながら球体の家庭魂を築き上げていく。ちょうど宇宙生成に於いて様々な神霊存在がぶつかりながらもアップグレードした調和体を築いてきたように、葛藤の末に次元を上げて創造された神霊世界の外的表示体が惑星存在や恒星存在、そして銀河系であるように、家庭という宇宙を創造形成している。第一印象として受け取った笑顔が多くの葛藤を超えていくことで深みを増していく。御母様の笑顔に見るようなより味わい深いものとなりより感情を揺り動かすものとなっていく。
今日の想い 79
無機質のシステムと数字の中に組み込まれて機械的に歩む事を我々は願われてきたのだろうか。御父様がそう言う我々の中に心情的在り様として働かれるだろうか。お父様を想うて申し訳なく思い、涙し、決意して、そういった衝動を熱いものとして魂の中に活動させながら歩んで来た、そう言った我々の在り様こそ統一食口としての魂の在り様では無かったのか。胸に熱いものをいつからか遠ざけながら、形だけの張りぼて天国を目指そうとしている。願われる事柄の形骸のみを受け取りながら、数字を追い求め見てくれを繕うけれど、内的心情的歩みを織り込みながら、精誠として受け取って頂けるものを差し出そうとしているだろうか。店は御父母様の家であり、もてなす我々は御父母様の代身として、来られるお客様は御父母様のお父さんでありお母さんであり、息子であり娘であり、遠く別れた家族を御父母様が迎える場こそこの店なのだと言う受け止め方が間違っているとは思えない。店の形は取っているけれど、懐かしい家族を迎える御父母様の家であり宮殿であると思わされる場面は幾らでもある。その思い入れとは裏腹に、一つまた一つと店が消えていく。展開しどんどん増えながら、神様の多くの家族達を御父母様に逢わせる願いがありながらも、外的事情に押されながら消えていく。外的事情をあれこれ言い訳にしながら、実のところ我々の御父母様への想いが冷めて行っただけのこと。言い訳することの知恵や能力はしっかりと着けてきたけれど、その分御父母様の心情から遠ざかってきた。店を処分しながら、御父母様の痛みを胸に覚えることが無いなら、心情をサタンにくれてやった一人の無機質存在に違いない。
2009年5月5日火曜日
今日の想い 78
自分という存在が多くの犠牲の上に立っていることへの気付きと感謝、打たれ傷つけられる仕打ちを打たれて当然で傷つけられて当然だと甘受できる謙虚さ、感謝の心と謙虚な心の中に神様が内在される。当然の事として何の感情もなく受け入れていた健康な毎日が、ある日突然身体に異常を来たす。今まで経験した事のない頭痛に数日間襲われ、それがやっと引いた頃、今度は目の異常を覚える。視力が急激に落ち込んでいる。頭痛から目の異常という流れに流石に何かあると感じたらしい。妻の病はそんな状況から始まった。目が悪いから目医者にということで眼科にアポイントが取れたのが一週間くらい先だったか、医者に接見すると直ぐにも血圧異常を指摘されそのまま救急に直行した。そこで改めて血圧を測ると優に二百四十は超えていた。これ程の血圧異常に気付かないというのもおかしな話だが事実本人はそれほどの体調異常の認識はなかったようだ。一週間の入院で幻覚症状が絶えないほどの薬の大量投与で、無理やりにでも血圧を抑えたが、影響は既に内臓にまで及んでいた。腎機能障害との長い戦い、更に事実を受け入れる事から始まる内的戦いがそこから展開されていく。個人はもとより家庭を巻き込み、時間も意識もその事に奪われて仕事は手に着かず、出口の見えない暗闇に投げ込まれ、辟易する内的作業と格闘する日々が繰り返されていった。突きつけられるひとつひとつの結果をぐさりぐさりと受け、感情に翻弄されながらも次なる行動判断を迫られる。そう言った自分の容量を超えた魂の活動を強いられれば、誰であっても根源の存在を尋ねざるを得ないだろう。否応無く捜し求める中で気付きとして受け取るものがある。それが感謝の心と謙虚な心だった。良心の大きな側面である感謝の心と謙虚な心を磨いていけばそれが人生行路の羅針盤となる。どれ程迷い込もうが出口に繋がる糸が指し示され、辿り行くほどにやがては光の兆しを確認できる。その認識と確信が真の父母の意志の在り様として自分に備えられた絶対信仰だ。良心の活動こそ真の父母がそこに内在され活動されていることの証だ。
2009年5月4日月曜日
今日の想い 77
人間存在はこの土くれとしての身体のみに非ず、四段階以上の次元にまたがりそれぞれの次元に対応する体を備えている。土くれの身体は鉱物界を主管する神霊存在の原理原則に従い、身体を形作っている生命維持の体が形成力を奪われ肉体から離れることで死を迎え土に返る。この生命維持の体は植物界を主管する神霊存在の原理原則に従い、肉体の死の後、霊界への入り口でこの生命維持の体に刻まれ記憶された誕生以来の全ての記憶を反復する。一通りの反復を記憶として辿った後、生命維持の体はチリジリになりながら生命界の要素に帰っていく。後に残るのは魂の活動を維持していた魂界の体が精神存在として霊界に参入していく。霊界と一言で言ってもあらゆる階層、あらゆる次元にまたがり、地上界のように階層の異なる存在が隣り合っているような環境にはない。位階の異なるそれぞれの人間存在があたかも同じ存在であるように同じ次元で暮らす地上界のほうが異常といえば言える。地上界に於いて自分が内的に培ったもの内的に築き上げたもので霊界生活の体となす。肉体と霊人体と分けられ、あたかも肉体が自分の意志と関わり無く成長し大人になるような、そう言った同じ感覚を霊人体に当てはめ認識するけれども、霊人体は自分の行動でその成長を促す。魂の活動を通して受け取る内的霊的要素で自分の霊人体に肉付けし内的感性霊的感性を育み持たせる。赤子の肉体のままで地上生活が出来ないように、未熟な霊人体のままでの霊界生活は檻の中で暮らすしかない。未熟なだけならまだしも、異常な内的在り様による異常な霊人体様相を呈し、地獄の環境に住まわざるを得なかったりする。人間存在としての価値は精神の高みに限りなく近づこうとする自我を備えていることであり、み言的に言えば良心の願いにどこまでも追従しようとし、その行動として犠牲精神、為に生きる意志を差し出す。安楽な生活を否定しろと言う事ではなく、誰かの或いは他の存在、神霊存在の犠牲精神が私に差し出してくれた安楽な生活であり、私の為にという想いが地上生活の基にあることを忘れてはならない。そういった認識を覚えることで受けたことを他にも与えたいと思え、他の犠牲が自分を存在たらしめるように自分も他の為に犠牲になりたいと思える。
2009年5月3日日曜日
今日の想い 76
他の人の受け売りではなく、目に飛び込み否応無く受け取る無意味な世界でもなく、自我に根ざす魂の活動としての意志を働かせながら、見ようとし聞こうとする意志から本質を捕らえることができる霊的眼と霊的耳を具える。霊視と霊聴をもって取り巻く環境の本質に介入しながら、自我宇宙を創造し形成し家庭宇宙氏族宇宙、そして社会宇宙世界宇宙をも創造し形作っていく。そのような自我の理想、人間理想をおぼろげに夢見ながらも、しかしながら現実は、家庭はおろか自分さえも未だ掴みようが無く介入の仕様が無い。自分という存在に対する、神から来る宿命的使命があるはずなのに、それが何なのか人生半ばをとっくに超えながらも問い続けている。答えを得たい神の知恵を得たいという性急な願いが、まさぐっては放ち、味わってはまた別の対象に関わり答えを求めようとする。浮遊し彷徨う途上で何かにめぐり合えるはずだなどと言う微かな期待を持ち、流れる時を浪費していく。気を許せばいつの間にか自分に理解を示す霊に手を引かれ、迷宮の世界を廻っている。御父母様を見失い、自分の中に微妙なズレが生じ他の何かを求めている。神を見失いエバがいざなわれて行った様に、本質を求める誰もがいざなわれて来た深みがその先にある。求めに応じようと滑らかな口調の悪魔に魂を捕らえられ、甘い蜜を味わわされる。堕落人間の自我の幼稚さにサタンは付け入る。成長途上で神に対する絶対的な相対、即ち神の娘であり息子となるレールを外れていった。神の叡智だとして受け取ったものは擬似叡智であり、目にはよく美しく思えたものは真の愛に非ず擬似愛であった。擬似叡智から来る知識や知恵で築かれてきた社会や文化に、偽りの愛で繋がれて来た人間存在が生死を繰り返す。
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