2009年6月12日金曜日
聖杯伝説
人間としての大きさは、受ける器の大きさに依るだろう。人間としての資質は、受ける器の質に依るだろう。知性の器を供えた者は与える知恵を得、感性の器を供えた者は与える情感を得る。人類が科学の発達をどれ程誇ろうとも、野の花一輪を作り出す知性すら持ち合わせない。野の花に潜む知性に対する畏敬の念を供えない限り、花という知性すら受け取る器は用意されない。あらゆる存在は知性存在でもある。万物様相をその輪郭や表面にかたどられたものとして捉えれば、その知性は隠れて姿を現すことはない。その内面に尋ね入ることを許される程に謙虚でない限り、その知性は受け取れないし受け取る器は用意されない。相対する悩む人も、何千マイルも離れた遠くに苦労する人々も、地上に住まう人間より圧倒的に多い霊界で呻吟する霊人たちも、それぞれの想いの中で呻いている。自分が味わい辛酸を舐めた以上のその人の想いを理解しその人を開放する為には、深い深い谷間に届く愛が必要になる。溢れる愛の器を用意する為には愛の主人である神様を感動させて愛の相続を受ける。宇宙創造の根底には神様の心情が動機としてある。心情衝動が絶対愛を持ち、絶対信仰絶対服従を通して、性相的高次存在を創造し、高次存在の持つ様々な性相様相が授受作用を為し実体化されながらそれらが形状化していく。根底にある基の基である神様の心情を捉えることが出来れば、全宇宙を所有できる。真の父母が真の父母である所以は、神様の心情を所有されておられることにある。神の心情が御父様という人間存在の中心である骨髄に浸透され濃縮されている。心情に通じるということは、二者が完全に溶け合うほどに一体化存在となる。そして、濃縮された心情エキスを受ける器が生命創造の役割を果たすところの、選ばれた御方である。聖杯伝説という聖なる器を捜し求めてきた歴史は、即ち聖器(聖なる生殖器)という、真のアダムが所有する神の心情種子を受け取る真のエバの聖器を捜し求める象徴的伝説を物語っている。今の段階で統一食口の器は決して大きいとは言えないだろう。資質をどうこう言える段階にも届いてはいないかも知れない。どれ程取るに足らない小さな器であっても、御父母様の心情の一欠けらでも受け取った者である、御父母様を通して新たに生まれ変わった者であると御父母様が認めて下さっていることが我々の絶対的な価値なのだ。
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1 件のコメント:
ちょっと読みにくいっすねー
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