2009年11月28日土曜日

今日の想い 123

私は何故人間なのだろう。どうして人間として生まれたのだろう。決して否定的な意味での問いではなく、単純な疑問として自分の中にある。私の中にその問いがあるように、天使という霊界の存在が、更なる高次の存在が、自らにそう問うことは有り得ないことだろうか。私が私であるという自我意識は人間のみが所有するものであって、霊的存在、高次の存在には自我意識というものは無いのだろうか。動物は自我意識を持たない存在であることは理解できるとしても、天使が動物と同じような存在様相であるとは思えない。み言では天使は万物のひとつという見解を取っているとは思うけれど、神様の前に反旗を翻しそして数年前に説得されて自らの非を神様の前に悔い改めた天使の存在は、反逆を企てる以上、そして悔い改める以上魂の存在であることは間違いないだろう。知的な存在であり感情存在であり意志する存在だと言うことだ。彼が自らに自分はどうして天使なのかと問うことはあるのだろうか。私の余りにも狭量な魂の知的部分では把握しきれない事柄ではあるけれど、自分の中にこの問いがあることを神様はどのように捉えておられるか。それは堕落したからそうなのだと言われるのか、人間である以上尤もなことだと言われるのか、どちらにしろこの問いの答えを得ると言う意味は神様と完全一体となった位置に立つということだろう。神様が私はあってあるもの、アルパでありオメガだと語られるその意味を知ることだろう。人間としての私という存在を生きている。紛れもないその事実こそが厳然とある。私という存在をどれ程高めようが、またどれ程貶めようが、私という存在は私から脱することはできない。今日の一日を一生懸命生きようとも、自堕落な一日に終えようとも、どちらにしろ私の一日なのだ。その宿命を預けられたからこそ神様の息子娘の位置に立てるのかもしれない。

2009年11月27日金曜日

2010年を迎える準備

今日、11月最後の安侍日を迎えた。あとひと月を終えれば、2010年が広がっている。霊界に対する理解を少しでも理解した者であれば、古い年から新しい年を迎えるという意味がわかると思うが、それぞれの年を受け持つ霊的存在は違う。摂理の緩慢な進み方をした過去の年から年への引継ぎと違い、倍加速度的に進める必要性があったここ数年間、そして更なる驚きの動きと進化を見せるはずの2013年までの三年間は、前年から次の年への霊的存在への引継ぎは極端な違いを見せるはずだ。昨日の延長が今日であり、今日の延長が明日だという論理が通じないように、今年の延長が来年であるとは決して言うことはできない。新しい2010年は新しい霊的存在が司る。新しい年に対して何の願いも要求も持たないのであれば、新しい年に入って奪われることはあっても何ら得ることはない。どうなるのだろうと言う受け皿でしかない受動的な在り様では生きると言う密度は薄い。魂の活動を強く大きくすることが生きることの密度を濃くすることであり、特に魂活動の意志する力を増し加えねばならない。だから新しい年に向けて自分の意志を差し出さなければ、2010年の霊的存在への働きかけは非情に微弱な磁気作用としかならない。新しい年を実りあるものとするかどうかの準備は既に始まっている。内外の願望を明確にしながら、それを達成する為に覚悟もし決意も供えて旧年から新年へ足をまたぐ者となる。覚悟と決意としての意志の力を差し出すことで2010年を司る高次の霊的存在は対応せざるを得ない。自分の実力や信仰如何を問う前に、そこに働きかけることが先ず大切なのだ。受動的在り様ではなく能動的在り様、即ち自分の意志を差し出すことが大切なのだ。意識を持つところに光は届けられる。意志するところに霊界も神様も働く。

今日の想い 122

我々が理解してもしなくても、御父様は語られる。我々の脳みそに理解できるように語られるのではなく、明らかに霊界を視野の先に置かれて語っておられる。霊界をそれなりに理解している者も、自分の霊的度合いに応じた高みまでしか捉えることができず、御父様の数理に関する事柄に対しては口が開いたままだろう。我々は宗教的な次元で御父様に接しているけれど、宗教的な事柄は堕落人間の復帰や蕩減内容に関わる事柄であって、復帰の路程を完成されたそれ以降の創造に関する領域には入ることを許されていない。この地上世界は堕落世界であって、この世の神、サタン主管の世界であり、地上世界の道理も数理も天的なものをサタン的に組み替えられている。地上世界の道理と数理に従う以上、地上界はサタン世界を脱することはできない。御父様は全てを勝利されて神様と一つになられ、組み替えられた道理と数理を天のものとして新たに創造されておられると言うことができる。本然である新たな数理と道理によって、地上界は地上天国となりサタン的進入を許すことはない。数理には全くサタン的な事柄は関与できないとの認識を持っていたが、理念界に通じれば数理の中にサタンに拠って歪められたものとして隠れているのが理解できるのだろう。御父様が語られる数理の内容をこの世の数理で、この世の脳みそで理解しようとしてもできるはずがない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つになった位置で御父様の勝利権を相続し、御父様と完全一体となった基準でこそ、歪められたサタン的論理と数理で組み込まれたシナプスを大宇宙の中心と連結されることで、高次の領域と直結される脳神経が創造される。そこに立ってこそ御父様の数理の話は腑に落ちるし、視認している肉体を持たれた御父様ではなく、神様とひとつになられた新たな時空を創造される御父様を見ることができる。

2009年11月26日木曜日

今日の想い 121

自分に取って苦悩としか捉えられないものは、苦悩の意味するところを最初から持っていて、外れくじでも引いたように自分の頭上に落とされて、引き受けなければならないものなのだろうか。或いは自分に起こる事柄はそれ自体感情的要素は含まれず、苦悩と取るのも歓喜と取るのも自分自身の捉えようなのだろうか。そのまま口に含めば毒以外何物でもないものが、使いようによっては薬になるように、苦悩以外何物でもない降りかかった事柄を、受け取り用によっては歓喜への触媒になることは十分在り得るはずだ。毒に対して口に含む以外の使いようを知らないとするなら毒は毒でしかないように、どう捉えるかということには多様な方法があって、感情魂で捉えることしかできなければ苦悩は苦悩でしかないだろう。感情魂に於いては得も言えぬ苦味そのものであっても、新たな魂の器官を苦悩と呼ばれる事柄で創造されているとは言えないだろうか。人一倍苦労を重ねてきた人間は、安楽な環境の中で過ごしてきた人間には無い感覚や力を明らかに持っている。謙虚であったり忍耐であったり慈しみであったり感謝であったり、そういった感性は苦悩が触媒になることで新たな魂の器官として芽生えたものと言える。そう言う認識の上に立つと、訪れる苦悩をどう料理して歓喜へと作り変えるかを今生で訓練されていると言うことができる。勿論、苦悩を受け取ってご馳走でも戴くように嬉々として対処することなど有り得ないし、それができる存在なら人間として生を選ぶことは無かったろう。自分の感情を説得して、この苦悩の産道を通ってこそ自分の本心が願う新しい自分に生まれ変われると、確信もし感謝もして臨むべきなのだ。降りかかる事柄を誰の魂に注ごうかとランダムに選ばれているようで、実のところ天の緻密な采配が為されて、私という人間理想を成就する為に受けるべくして受け取る事柄に違いない。そこには神様の私に対する愛が込められている。親として子の成長を願う想いが込められている。欲しがる物は何でも与える親と違い、親以上に成長して欲しいという想いを本当に込めれば、非情に構えてトラの様に千尋の谷に突き落とすこともある。

2009年11月24日火曜日

新メイフラワー号

暗い、底知れぬ海が見渡す限り広がっていた。その海の底にうごめく物のひとつでしかなかった私は、自分の在り処だったこの暗い海の正体すら知らず、生きることだけで精一杯だった。周りにうごめく者らの、睨みを利かせた視線に曝されながら、あらゆる仕打ちを携えて近寄ってくる恐怖におののきながら、打ちひしがれた魂を暗い海に沈めていた。一生をそうやって終えるのだろうと信じて疑わなかった。その自分が今、高みから暗い海を見渡す立場にいる。み言を受け取ることが、魂の船で新たな旅立ちをすることだとは知らなかった。その自分が、この魂の箱舟の中で御父母様や食口達と起臥を共にすると言う現実を体験している。広漠たる打ち沈んだ海面を、その現代の箱舟は進んでいく。船底の下にはありとあらゆる魑魅魍魎が喧騒の中で罵りあい、船のいたるところの板底を小突き上げてくる。絶対信仰、絶対愛、絶対服従こそが、この堕落世界の海を隔てる箱舟の板塀なのだ。信仰が弱まれば、隔てるものは薄くなり、堕落的な海水がいくらでも浸水してくる。ひたすら箱舟の船長である御父様に指示を仰ぎ、目指す新しい天と新しい義に舳先を合わせて進んでいく。確かに箱舟自体も老朽化して、底となり壁となる食口も組織も傷みがかなり激しくなっている。しかし目指すところは残す三年の歳月の先にある。三年の歳月を乗り越える為、最後のラストスパートの半鐘が鳴り響いている。御父様が堕落世界の深海の奥まで尋ねながら、集めてこられたひとりひとりの食口と言う乗組員は、浸水による疲れや傷みを引き摺りながらも最後の信仰を振り絞って従って行く。我々は天宙的ピューリタンとしての誇りと使命を担っている。この最後のラストスパートを泳ぎきる為に今までの歩み全てはあったのだ。肉が裂け、骨が折れたとしてもこの一戦に全てを賭ける。神が約束を果たしてメイフラワー号が新天地に到着したように、この箱舟も新しい天と新しい義に辿り着く。この世では明日にも感謝祭を迎えるけれど、我々の本当の感謝祭は摂理完遂をこえた時だ。ピューリタンの精神を統一の群れこそが担い、後天開闢の時代を切り開いていく。

死を想う

新たな一日一日を生き、一瞬一瞬を前進しているけれど、後ろに送った一瞬一瞬、一日一日は過去に葬っている。一瞬一瞬の死を、一日一日の死を、過去に残している。生まれてから今日までの死を背後に連ねながら今を生き、やがての大死に向かっている。連ねてきた死をやがては大死に繋げる。やがては私という意識の後ろにも前にも、死が延々と連なる。生という存在は死が存在することで存在する。もし人間に死が無かったら、生が存在することも無いだろう。死があってこその生であるなら、そして死を認識することで生を認識するなら、死への認識の度合いにより生を光り輝かせることができる。より死を正面に突きつけてこそ本質の生を生きることができる。死に正面から対峙してこそ生きることの意味を知る。生きていると言いながら実は死んでいる。毎日を惰性的に流しながら生きることを曖昧にしているのは、死への取り組みを曖昧にしているからだ。一瞬一瞬を過去に葬り続けることの死の意味を真剣に問わなければならない。生が無で無いように、死も無ではない。唯物主義の者、信仰心の無い者は死を無と捉える(死は無なりと言う唯物哲学)に帰依している。しかし本当は帰依などしていない。死に対峙するのが恐ろしくて目を背けているだけのことだ。死の領域では現世時間と現世空間に依存する事柄を持ち込むことはできない。時間と空間に左右されない事柄のみが死の領域に生を届ける。生を死の領域に送り込むことができない限りは死は得体の知れない死であり続ける。感覚世界であるこの世に生きることの意味は、生きて死を体験し、死と言うキャンパスに真の愛の筆で色彩鮮やかに愛の理想を描いていくことなのだ。死の領域への愛の理想の創造こそが生きることだ。

私の出合った神様

人間一人一人が個別であると言う意味は、創造理想から見れば神様の一つ一つの神性を戴いた神の実体対象としての個性真理体であるけれど、堕落の結果から見れば神様がばらばらに引き裂かれてちぎられ、その一個一個に忌まわしい別物が住んでいると言うことだ。神様がばらばらにされて苦悩の極みを味わっておられるのに、人間が苦悩を避けて安楽の中に生きるとすれば、それは自分の中に住んでいる忌まわしい存在を自分として生きていると言うことだ。安楽を求めるのはサタン的存在としての自分を認めることであり、苦悩を通してこそ自分は神様の分枝としての人間だと言うことができる。過去の歴史を見ればあらゆる苦難の中に呻吟する人間の姿がある。国家の興亡は苦難の中に立ち上がり、繁栄の中に沈んでいった。人類の歴史も苦難や苦悩を受け継いだ者を通して人間が神様に帰る事の可能性を繋いできた。私という人間を産み落とされて今に至るまで振り返るとき、苦難と犠牲への選択こそが私という存在を神様に近づけてきた。私の日本に於ける活動は或る意味奴隷的生活と言えないでもないけれど、有無を言わさぬ日本的アベルカインの中で、それが正しいとか何だとかは別として、否が応でも苦悩の中に追い遣られた。しかしその時の歩み程密度の濃い時期はない。神様に泣き言を言いながら、この苦悩路程から私を外して欲しいと言うその要望には何の返答も無かった。そうやって自分の神様に対する概念をことごとく崩されながら、自分の概念で作り上げた神様でありながら私に応える神様はいないと落胆しながら、しかし今でこそ、苦悩の中に歩むその時の私の中に尋ねてこられていた神様をはっきりと捉えることが出来る。その困難な時、明らかに私には神様が私と共に居られたのだ。何の語る口も持たれず、私の訴えに苦痛で相好を歪めながら、涙なのか汗なのか、しわと言うしわに纏わり着いてくしゃくしゃになり、顔として認識できない程で、そういう乞食と見まがうばかりの神様が私の中で泣いておられた。

2009年11月22日日曜日

カラス

夕暮れ時におびただしいカラスの群れが木々を渡っていく。枝と言う枝にびっしりと羽根を休め、高い位置にある枝が折れるほどにたわむのも全く意に介し無い。群れてはいるけれど統一的な行動を取っているわけではないし、お互いにつつき合いちょっかいを出しながら、己が本能の儘に行動し忍耐強さに欠けて落ち着きがまるで無い。この種族を取り仕切る霊的存在は神様に取ってどういう存在なのだろうかと問わずにはいられない。チンピラが群れるのと同じものをカラスの群れに見るようで、、喉元を締め上げたような声を響かせ、闇の迫る大空にうごめいて、更に黒く暗く天を覆いつくす光景を見ながら気持ちの良い感情を覚えている者はいないだろう。子供の頃、空の高い位置を夕日に向かって一直線に飛んでいくカラスを覚えているけれど、それとは違う存在なのだろうか。たまに早く起きて車を走らせると、闇が薄くなりかけ朝日がまだ照らさない頃合に、タイヤにつぶされたリスなどの小動物に群がるカラスを見かける。鋭い口ばしで腹を割き、内臓をついばんでいる様子で、車で直ぐ傍を通り抜けても全く物怖じせず、首をもたげた口ばしに細いハラワタが垂れたりしている。イスラム圏でのイエス様の言い伝えの中にこんなのがある。イエス様が弟子達と道を歩いていると犬の死骸に出くわし、弟子達は皆腐った死体に目を背けたが、イエス様は犬の死骸の美しい歯に感嘆されたと言う話だ。要するに自分の内面にあるが故にそれに相対してしまうと言う、相対基準の話だ。闇が迫る大空に舞うカラスや、ハラワタをついばみゴミ箱をあさるカラスを目にする時、忌み嫌う感情を覚えるけれど、それは自分の中にある堕落本性から来るものかも知れないし、イエス様の様にそこに見出すべき美や知恵に相対することができないだけかも知れない。

2009年11月19日木曜日

今日の想い 120

地上世界に足を付けて、しっかりと踏みしめて前進しようとするなら、生きることの意味を自分なりにでも悟らなければならない。しかし生きることの本当の意味は霊界を知らなければ解らないし、霊界を本当に知ろうと思えば霊界を霊界たらしめる理性界を知らなければならない。その理性界には理性界たらしめる原因の高次の世界が更にあり、そう辿っていった頂点に神様がおられる。少なくとも私はそう理解している。人間の意識状態は太古の昔と今では格段の違いがある。現代人は外的なものに光を当てることで論理的思考という能力を成熟させてきた。しかしながら太古の人間が内的霊的感情の中に生きてきた当時の雰囲気を、現代人の殆どは忘れ去り理解できない。摂理として一旦、人間を霊的事柄から引き離すことが必要だった。論理的思考を有した現代人の意識の在り様は、霊界から引き離された摂理によってこそ得ることが出来た。そして今、与えられた今の意識在り様で、新たに内的霊的な事柄を尋ねていくことを願われている。現代人の意識在り様の特徴的なことは、自分と言う存在を個として強く捉えることにある。それは一方では個人主義的な感情を育てたけれど、他の一方では自分と言う存在に対する責任や主管性を育てた。自分に対する責任や主管性を持てずに、神様と同じ位置で万物に対して責任や主管性を働かせ、理想に対して創造性を働かせることは出来ない。霊界や地上界は高次の原因界に対する結果の世界であるけれど、堕落的要素も含まれながら、或る意味妥協して創られた変える事ができない結果の世界に、人間は住まざるを得ない。或る存在を地上に迎えるまではそうだった。しかし高次の原因界である理性界や、更にその原因たる次元界に働きかけ、神様の創造理想に沿って創造されておられる存在を私達は戴いている。勝利された御父様であり真の御父母様だ。その意味で御父様は大宇宙を組み替えておられる。霊界の様相を一変しておられ、霊界の対象世界である地上界も遠からず一変する。春の訪れを知らないように、天宙的大変革の到来を感ずることのない世界に留まっているのであれば、御父様と自分との関係は遠くて細いと言わざるを得ない。

2009年11月17日火曜日

光を想う

吸い込まれそうな青が天を覆い、凝縮された光の層をそこに見ている。地上の希薄な光の中で喘いでいた昔の私の魂は、今密度の濃い、しかし軽やかな光に息を吹き返し、同じ光の中で活き活きと生命を溢れ出す万物たちとその喜びを分かち合う。木々に残った葉を揺らし、私の頬をなでる風が心地よく囁く。久しぶりの日差しが晩秋の景色を包み、壮年期を超えようとする私の体をも優しく包む。この一瞬の安らぎを受け取ることですら、既に生まれ出でたことの価値に匹敵する。明日に暗闇に沈もうとも、生きる苦しみにやがて翻弄されようとも、受け取っているこの一瞬の祝福がそれらに勝る。憂いの陰りを見せる心配事のひとつひとつも、必要とあって私に摂理されたことであれば、いたずらに陰りを濃くさせることはない。委ねるという学習を何度も何度も繰り返しながら今がある。七転八倒の苦しみの流転の日々が、執着という堕落要素にその原因があることを、この年になってやっと解ろうとしている。光を求めて地上に生まれ出でた自分なのだ。愛がその存在を現した一つの形が光であり、その光を光として素直に受け取れるまで、今の今まで時を要した。心の扉を全て開け放ち、居座る闇のひとつひとつを光に曝す。堕落と罪の結果としての闇が、最後の足掻きを企てようとも、遠からず光に焼かれる運命にある。闇の叫びに対して私はこう説得する。闇は光に焼かれることでその本分を全うするのだ。闇がどう演出するかで光がより光として印象付けられるけれど、最終章として闇は光に焼かれるのでなければ闇の光に対する存在価値はなくなる。多くの闇が魂の内に居座っているのを否定しない。だからと言って光を遠ざける存在にはならない。闇ゆえに魂の痛みを覚えながらでも光の方角に突進していくのだ。闇が魂の部分の殆どを占めていて、光が自分と言う存在を消し去ることになっても、それでも光の中に飛び込んでいくのだ。全てを否定して、それでこそ新生するものが自我の中にあるはずだ。その期待感が私を更なる光へと誘う。人類の光であり天宙の光である御父様に向かおうとし、より慕いたいしより侍りたいのは、父子の因縁を求める絶対信仰による期待感からだ。

今日の想い 119

聞きかじったみ言を、さも自分こそが理解したような態度を取るなら、その時点で既にアウトなのだ。確かにみ言をみ言として我々は受け入れてはいる。しかしみ言として受け入れる事と、み言として御父様が我々の知っている言葉として語られながら、その言葉の背後の本質を捉える事とは同じとは言えない。本来、天のみ言を堕落世界で用いられている言葉と概念で言い表すことには無理がある。しかしながら或る程度の無理を承知でも語らない限りは、論理で理解する現代人には届かない。論理で理解することは理解することの入り口でしかなく、論理でみ言の信頼性を魂に落とし込んでからがみ言の本質に入っていく路程なのだ。み言は頭で理解するものではなく心情で理解し、それは心情の啓発を意味するはずだ。私自身も御父様に認められるようなみ言の理解を得ているとは全く思っていない。しかしみ言を理解しようとする姿勢は間違っていないはずだ。これが正しいと旗を揚げた者達の救済論も、それに対して反論を差し出す者達も、言葉の遊びでしかないだろう。人間が百人集まれば一つの言葉の捉え方も百様に違うのであり、み言に対して兄弟全てが全く同じ概念として捉えると言う様な、有り得ない理想を掲げること自体がおかしいと思う。或る兄弟が、血統転換による救いをメシヤ家庭との血縁関係を結ぶことで為されると、自分の良心に鑑みて確信するなら、今のその人に取ってはおそらくそうなのだろう。しかしそう言った誰かの意見を受けて自分の中にみ言理解の迷いがあり、どれが本当の救いなのかと迷うなら、自分が必要とする救いの意味が解っていないのかも知れない。そういった兄弟に対して、無知に陥った人間としての拙い思考でこれに違いないと言う結論を出し、そのみ言の解釈を全体に向けて差し出すなら、反旗を立てたと言われても仕方が無いし、そのことで批判され混乱させることの覚悟と意味をも合わせて差し出さなければ、御父母様に更なる重荷を負わせることになる。み言の解釈で、これが絶対的に正しいと言える解釈など無い。もしそう断言するなら別の真理を付け加えることになる。今の時代、羅針盤としての良心に光は更に加えられている。誰かの意見に帰依し誰かに扇動されて歩む時代圏は既に過ぎ去った。祈れば良心を通して直接神様が働きかけて下さる。

2009年11月12日木曜日

THIS IS IT

御父様も一言触れておられるし、話の種くらいにはなるだろうと思ってMJの映画を見に行った。ロンドンツアーのリハーサル風景を繋いだものだという前説は情報として知っていたし、亡くなったMJを偲ぶファンの為の映画だと言うのはその通りだけれど、映像を受け取りながらそれだけの私の態度では収まり切らない、深い内容が含まれていることに除除に気付いていった。彼の音楽に差ほど興味を示さない私は、整形だの不純行為だのというマスコミが好んで扱う事柄しか知らなかったし、彼には彼の運命があると思いながらも、決してそれが私に取って好意的に受け取れるものでは無かった。スリラーに代表されるように悪霊が表現されたものだという捉え方は、普通の食口なら当然の捉え方だろう。しかしそう言った要素があるのも事実だろうが、何事にもそして何人に対しても、悪だ善だ、神だサタンだと簡単にすみ分けできるものではないだろう。彼は生まれ備わった天分もあるのだろうが、小さい頃から叩き上げられた歌とダンスに完璧ともいえる技術とセンスが備わっている。そしてそこに歌と踊りの神が宿っている。彼に対する好き嫌いに係わらず、それを見てとることは容易だ。完璧な、しかし自然体のダンスを自分の用具として使いながら、ダンスと歌そのものを披露するのではなく、それを使って何を届けるかを彼ははっきりと認識していた。それはリハーサル風景を繋いだ映像だけでもしっかりと伝わってくる。微細なこと一つ一つに神経を配り、繊細さに繊細さを重ねながら、ステージ全体、或いはワンコーラスを通して語りたいもの、そして一瞬一瞬を断片的に受け取ったとしても届くものがあると言えるほどに繊細さを備えている。優しさであり温かみを微細な全ての音とリズムに、そしてそれを忠実に表現した身体の動きにも込められている。そうして届けられる優しさと温かみを映像を通しながら受け取って、自分は知らない間に涙を流していた。彼は全ての返事にILOVEYOUと応え、全ての指示にGODBLESSYOUと付け加える。愛を与えることがステージに立つ意味だと言うこと、その為に全てのパフォーマー、全ての関係者が愛を与える存在になるよう、MJ自身が彼らに愛を与えようとしている。リハーサルの場であるにも拘らず、愛に溢れたその場に私は同化したい程だった。み言を受けて真の愛を伝える立場の私は、謙虚に頭を下げざるを得なかった。最後にパフォーマーや関係者の字幕が流れながらMJのバラードが流れてくる。揺らぎのある細い高音がMJの喉を通して紡ぎ出される。彼は一つの使命があった。その使命に精一杯生きた結論が、その歌の中に流れている。愁いのある響きに、大切に受け取らなければ壊れそうなそのメロディーに、MJでなければ表現できない愛の形が流れている。

2009年11月11日水曜日

今日の想い 118

今の私の知り得ない多くの叡智があり、神様や霊的存在の計り知れない心情の中に自分は生かされて歩んでいる。それを理解せずに生きることは、例えるなら目を閉じ耳をふさいで生きることと同じだ。自分が自分として落ち着く気分の中から周囲を見回し判断しているけれど、それがどれ程、拙くも幼いものであるかを知らなければならないだろう。起こりえる事柄を自分の狭義な思考で捉え、自分の内面の僅かな部分にのみ感情を覚え、自己中心的なもの以上の意志を働かせることは無い。自分と言う存在は自由という言葉を持ってはいない。自由と言う本来の意味を飲み込めずに、見えない呪縛をかけたまま一生を終えるなら、生かして頂いている存在に対してどれ程申し訳ない立場かわからない。人間は睡眠というへその緒を通して大宇宙の霊の世界への限られた接触を行っているけれど、今日一日の経験を受け取りながら何ら変わらないいつもの日常としてしか受け取ることしかできないのなら、そして新しい魂の学びを期待もせず要求もしないのなら、大宇宙からの新たな活力も受け取ることは無い。願うからそれに応えようとするのが天の道理であることを思えば、期待感情を備えれば備えるほどマイナス極はより強くなり、プラス極の霊界から受け取るものは多くなる。魂の成長に対して、どのようなことがあっても諦めの姿勢を取るべきではない。一つの芸術作品を前にして、隣の人が涙を流し感動を覚えているなら、自分がどうして白々しい乾いた反応しか取ることができず、隣の人を超える魂の在り様になれないのかを寂しくも思い憤りを感じるべきなのだ。八方塞の状況に諦めの態度を取るのではなく、自分が知らない高次の状況把握があり想像的な知恵があるにも拘らず、捉えることが出来ない自分の器の小ささを知って、祈り倒してでも叡智の欠片を要求すべきなのだ。御父母様に対して息子であり娘であると言われながら父母として慕い慕われるものを実感として受け取れないなら、談判し脅してでも慕う意志を強く強く差し出すべきなのだ。真の父母の魂の在り様と言う、次元の違う知情意の世界へ向かうとき、大気圏を越える決意を差し出す必要がある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つになった者が大気圏を越えて大宇宙に飛び出し、天の叡智と天の心情を受け取ることができる。

今日の想い 117

悪なる所業の悲惨な結果に、波打つ自分の感情としてのみ魂に反射させても、供養にもならなければ慰めにもならないだろう。思いとして先ず最初に生じたものは、どうして故郷のその地に捨てられなければならなかったのかという憤りにも似た疑問だ。私の記憶の中の刈尾は雪霊水に流れる清らかさと、なだらかな稜線に見る包み込まれるような優しさに溢れている。人間の力を超えた自然の霊に畏れを抱きつつ暮らしてきたけれど、刈尾に視線をやればそれが自然への畏敬の念としての畏れであることを教えてくれる。この事件を耳にしたとき、一瞬は人間の命を喰らう鬼の類が刈尾の正体なのだろうかとも思った。昔からどれだけの人がこの山で命を絶ってきたか知れない。しかしながらどう問いかけてもこの山から自分が受け取ってきたものが地を這い生き血を吸うような低次元のものとは違って、何か宗教的な厳かなものに包まれている何かなのだ。命を絶つことは思いつめた末の行動だとしても、最後の場所は本人に取って安らかな場所を選ぶだろう。死を決意しながらせめてもの救いをその場に求めた、それが刈尾だったに違いない。命を絶つことは最大の罪であるとしても、抱擁するものが彼らを受け入れてきたのだ。今回の事件を深く問うとき、加害者が一度は訪れた場所であることはその通りだろうが、被害者に取っても過去に訪れたことがあるか、或いは肉体を離れた霊として加害者の選択肢の中からその場所への強い念を働かせたか、そのどちらかだろう。この事件に係わる霊的背後を問うても興味の域を出ることは無い。事件の残忍さを魂に波立たせる以上に、この地に何とか関係性を持たせ、私の故郷だということによって私に知らせたかったのであり、事実私は強烈な印象を持ってこの事件を知ったと言うことだ。その地に生まれたこの事件を知った者として、他の誰でもないこの私が供養できる何かがある。

2009年11月8日日曜日

今を考える

本部があって現場がある、と言う取り決めが責任者の中に生きている以上、現場サイドからどんなに意見を吸い上げても変わることは無いだろう。み旨の為の方便としてビジネスの仕組みを使っている、と言う少数の認識を横に置いて、ビジネスはビジネスでありそれを成功させることでみ旨に貢献できるという認識が圧倒的に多いだろう。それ故にこの世に追いつけ追い越せと尻を叩き、売上と利益を追求する。外的な結果のみを神が取ってくれるのだから結果を残せないならみ旨とは関係ないという感覚だ。しかしこの不況の中で結果を残すのは至難の業だ。利益として残るものでしか貢献できないと認識している者に取って今の状況では存在する意味は無いだろう。それでも今ある位置に居続けるのであればその認識を変える必要がある。結果至上主義の旗を降ろさない限り存在する基盤を失うことになる。自分や組織に実力が備わっているから今までの結果を残すことが出来たと思っているが、実は出るべくして出た結果であり、自分が実力をつけてきたが故に結果を出せた様に思えるかもしれないが、それですら目に見えない天の計らいがそうさせたのだ。そう思えれば本来はもっと内外の結果を願われていたのではないかと言う事に気付く。そこからが意識を備えた者の本当の出発だろう。今の状況を責任者も現場もそして自分自身も皆一様に憂えているけれど、本当の気付きを得る大きな祝福が今なのだと、宇宙的観点に立てば言うことができる。今まで築いてきたと思われる体制や仕組みを、この混沌期に全部否定されながら本物が芽生えてくる。それはみ旨を標榜する我々も同じだ。同じように全てを否定される。その混沌期にいち早く新しい芽生えを見ることができた者が新しい世界を制するに違いない。しかしながら芽生えを確認するまではまだまだ混沌の中に翻弄されなければならない。翻弄されながら上手く行っていた時には気付かなかった背後の導きや護りに気付きながら、悔い改めや感謝を差し出す宗教的人間性を掘り起こす歩みを歩ませて頂いている。

2009年11月6日金曜日

今日の想い 116

朝起きるのが辛い時がある。目覚ましの音で反射的に上体を起こすけれど、心魂が肉体をまとうのに暫く時間がかかる。この体の中に入っていって、意識を働かせ四肢に命令を下し始めるまでが一仕事なのだ。御父様が二時間の睡眠のみで乗り越えてこられた、その霊力の大きさは私の想像を超える。短い睡眠でよしとする為には高次の霊人体を備えて高次の霊界との授受作用がしっかりと為され、多くの神の生素を受け取る必要がある。知に於いて極め、情に於いて極め、意志に於いて極められた御父様の魂の在り様は、取るに足りない私の小さな魂では到底測ることはできない。生まれながらにしてそうなのだろうと、それがメシヤがメシヤであることの所以だろうと思っていた。御父様は自叙伝を出版され、それに目を通すと私の知らなかった多くの事実を平易な言葉で明かされている。私が特に驚いた発見の一つは、イエス様が十六歳の御父様に願いを託そうとされた時、それを受けて相当悩まれたという事実だ。イエス様との遣り取りが一つの儀式的なものなのだろうと捉えていたから、できませんと否定され、何とか辞退しようとイエス様の裾を掴んで泣き続けもされたその時の描写は以外だった。メシヤとしての要素は勿論持っておられたにしろメシヤがメシヤとしての魂の力を持つことができたのは、当然の様に与えられたのではなく一つ一つ勝ち取ってこられたという事実に触れて、私という堕落人間とは違ってメシヤだからと言う物言いはもはや通用しないことが解った。今までの歩みを振り返り、諦めることなく勝ち取ったものが自分の中にあるだろうかと問う時、御父様、と心に念ずるのさえ畏れ多い自分であり、恥かしい自分であり、祝福家庭の名に全くして相応しくない自分であることに改めて気付かされた。血と汗と涙を代償にされて御父様が拾われた小さな自分の魂は、御父様の目にはどう映っているのだろうか。せめてそこに、父が子を見つめる御父様の愛に気付いて一筋の涙でも流す者でありたい。

2009年11月1日日曜日

今日の想い 115

毎年同じように春夏秋冬が繰り返されているようで、しかし昨年の季節の在り様と今年の季節の在り様とは違う。勿論年が違うわけだから違うのは当たり前だと言われそうだけれど、今年の秋の在り様は明らかに今までの秋の様相とは違っている。秋は実りの収穫の時であると言うのは外的なものに限って言われる言葉ではなく、内的霊的な事柄にも当てはまる。毎年十月、十一月あたりが個人的な事であったり家庭の事であったり、或いは店の事であったりと色々ではあるが、結果と言う果実を収穫する。善果にしろ悪果にしろ一年の決算をして実りは実りとして受け取り、清算すべき事柄は色んな悪果として表面に現れるものを嫌でも受け取らされる。どうして毎年、いつもこの時期に様々な問題が起こるのだろうと頭を傾げていたが、秋という刈入れ季節の性質上こうなるのだと言うことが解って来た。私の妻も医者が理解できないような病を何度か背負ってきたけれど、決まってこの時期に問題が発生している。個人や家庭に於いてそうであるように、国内問題、世界的問題もこの時期に起こるべくして起こる場合が多い。取り分け今、国内外で問題視されているのはスワインフルーと呼ばれるインフルエンザに違いない。すでにこの秋、爆発的な広がりを見せているけれど年末に向かい更に猛威を振るうことは確定済みだ。地上世界にのみ生きているのなら、流行り風邪に翻弄され経済危機に翻弄され、明日をも知れぬわが身を愁いながら一瞬一瞬を生きることを強要されているとしか言えないだろう。しかし地上世界は対象の世界であり、内的霊的世界を主軸に生きてこそ対象である肉身生活のあらゆる事情に意味があることを理解する。降りかかった災禍よ早く過ぎ去れと叫ぶのでなく、この経験を味わうことで自分は内的に何を取り戻し、何を培うのかを問わなければならない。