2009年11月28日土曜日

今日の想い 123

私は何故人間なのだろう。どうして人間として生まれたのだろう。決して否定的な意味での問いではなく、単純な疑問として自分の中にある。私の中にその問いがあるように、天使という霊界の存在が、更なる高次の存在が、自らにそう問うことは有り得ないことだろうか。私が私であるという自我意識は人間のみが所有するものであって、霊的存在、高次の存在には自我意識というものは無いのだろうか。動物は自我意識を持たない存在であることは理解できるとしても、天使が動物と同じような存在様相であるとは思えない。み言では天使は万物のひとつという見解を取っているとは思うけれど、神様の前に反旗を翻しそして数年前に説得されて自らの非を神様の前に悔い改めた天使の存在は、反逆を企てる以上、そして悔い改める以上魂の存在であることは間違いないだろう。知的な存在であり感情存在であり意志する存在だと言うことだ。彼が自らに自分はどうして天使なのかと問うことはあるのだろうか。私の余りにも狭量な魂の知的部分では把握しきれない事柄ではあるけれど、自分の中にこの問いがあることを神様はどのように捉えておられるか。それは堕落したからそうなのだと言われるのか、人間である以上尤もなことだと言われるのか、どちらにしろこの問いの答えを得ると言う意味は神様と完全一体となった位置に立つということだろう。神様が私はあってあるもの、アルパでありオメガだと語られるその意味を知ることだろう。人間としての私という存在を生きている。紛れもないその事実こそが厳然とある。私という存在をどれ程高めようが、またどれ程貶めようが、私という存在は私から脱することはできない。今日の一日を一生懸命生きようとも、自堕落な一日に終えようとも、どちらにしろ私の一日なのだ。その宿命を預けられたからこそ神様の息子娘の位置に立てるのかもしれない。

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