2009年11月17日火曜日
今日の想い 119
聞きかじったみ言を、さも自分こそが理解したような態度を取るなら、その時点で既にアウトなのだ。確かにみ言をみ言として我々は受け入れてはいる。しかしみ言として受け入れる事と、み言として御父様が我々の知っている言葉として語られながら、その言葉の背後の本質を捉える事とは同じとは言えない。本来、天のみ言を堕落世界で用いられている言葉と概念で言い表すことには無理がある。しかしながら或る程度の無理を承知でも語らない限りは、論理で理解する現代人には届かない。論理で理解することは理解することの入り口でしかなく、論理でみ言の信頼性を魂に落とし込んでからがみ言の本質に入っていく路程なのだ。み言は頭で理解するものではなく心情で理解し、それは心情の啓発を意味するはずだ。私自身も御父様に認められるようなみ言の理解を得ているとは全く思っていない。しかしみ言を理解しようとする姿勢は間違っていないはずだ。これが正しいと旗を揚げた者達の救済論も、それに対して反論を差し出す者達も、言葉の遊びでしかないだろう。人間が百人集まれば一つの言葉の捉え方も百様に違うのであり、み言に対して兄弟全てが全く同じ概念として捉えると言う様な、有り得ない理想を掲げること自体がおかしいと思う。或る兄弟が、血統転換による救いをメシヤ家庭との血縁関係を結ぶことで為されると、自分の良心に鑑みて確信するなら、今のその人に取ってはおそらくそうなのだろう。しかしそう言った誰かの意見を受けて自分の中にみ言理解の迷いがあり、どれが本当の救いなのかと迷うなら、自分が必要とする救いの意味が解っていないのかも知れない。そういった兄弟に対して、無知に陥った人間としての拙い思考でこれに違いないと言う結論を出し、そのみ言の解釈を全体に向けて差し出すなら、反旗を立てたと言われても仕方が無いし、そのことで批判され混乱させることの覚悟と意味をも合わせて差し出さなければ、御父母様に更なる重荷を負わせることになる。み言の解釈で、これが絶対的に正しいと言える解釈など無い。もしそう断言するなら別の真理を付け加えることになる。今の時代、羅針盤としての良心に光は更に加えられている。誰かの意見に帰依し誰かに扇動されて歩む時代圏は既に過ぎ去った。祈れば良心を通して直接神様が働きかけて下さる。
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