2009年11月6日金曜日
今日の想い 116
朝起きるのが辛い時がある。目覚ましの音で反射的に上体を起こすけれど、心魂が肉体をまとうのに暫く時間がかかる。この体の中に入っていって、意識を働かせ四肢に命令を下し始めるまでが一仕事なのだ。御父様が二時間の睡眠のみで乗り越えてこられた、その霊力の大きさは私の想像を超える。短い睡眠でよしとする為には高次の霊人体を備えて高次の霊界との授受作用がしっかりと為され、多くの神の生素を受け取る必要がある。知に於いて極め、情に於いて極め、意志に於いて極められた御父様の魂の在り様は、取るに足りない私の小さな魂では到底測ることはできない。生まれながらにしてそうなのだろうと、それがメシヤがメシヤであることの所以だろうと思っていた。御父様は自叙伝を出版され、それに目を通すと私の知らなかった多くの事実を平易な言葉で明かされている。私が特に驚いた発見の一つは、イエス様が十六歳の御父様に願いを託そうとされた時、それを受けて相当悩まれたという事実だ。イエス様との遣り取りが一つの儀式的なものなのだろうと捉えていたから、できませんと否定され、何とか辞退しようとイエス様の裾を掴んで泣き続けもされたその時の描写は以外だった。メシヤとしての要素は勿論持っておられたにしろメシヤがメシヤとしての魂の力を持つことができたのは、当然の様に与えられたのではなく一つ一つ勝ち取ってこられたという事実に触れて、私という堕落人間とは違ってメシヤだからと言う物言いはもはや通用しないことが解った。今までの歩みを振り返り、諦めることなく勝ち取ったものが自分の中にあるだろうかと問う時、御父様、と心に念ずるのさえ畏れ多い自分であり、恥かしい自分であり、祝福家庭の名に全くして相応しくない自分であることに改めて気付かされた。血と汗と涙を代償にされて御父様が拾われた小さな自分の魂は、御父様の目にはどう映っているのだろうか。せめてそこに、父が子を見つめる御父様の愛に気付いて一筋の涙でも流す者でありたい。
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