2009年11月24日火曜日

私の出合った神様

人間一人一人が個別であると言う意味は、創造理想から見れば神様の一つ一つの神性を戴いた神の実体対象としての個性真理体であるけれど、堕落の結果から見れば神様がばらばらに引き裂かれてちぎられ、その一個一個に忌まわしい別物が住んでいると言うことだ。神様がばらばらにされて苦悩の極みを味わっておられるのに、人間が苦悩を避けて安楽の中に生きるとすれば、それは自分の中に住んでいる忌まわしい存在を自分として生きていると言うことだ。安楽を求めるのはサタン的存在としての自分を認めることであり、苦悩を通してこそ自分は神様の分枝としての人間だと言うことができる。過去の歴史を見ればあらゆる苦難の中に呻吟する人間の姿がある。国家の興亡は苦難の中に立ち上がり、繁栄の中に沈んでいった。人類の歴史も苦難や苦悩を受け継いだ者を通して人間が神様に帰る事の可能性を繋いできた。私という人間を産み落とされて今に至るまで振り返るとき、苦難と犠牲への選択こそが私という存在を神様に近づけてきた。私の日本に於ける活動は或る意味奴隷的生活と言えないでもないけれど、有無を言わさぬ日本的アベルカインの中で、それが正しいとか何だとかは別として、否が応でも苦悩の中に追い遣られた。しかしその時の歩み程密度の濃い時期はない。神様に泣き言を言いながら、この苦悩路程から私を外して欲しいと言うその要望には何の返答も無かった。そうやって自分の神様に対する概念をことごとく崩されながら、自分の概念で作り上げた神様でありながら私に応える神様はいないと落胆しながら、しかし今でこそ、苦悩の中に歩むその時の私の中に尋ねてこられていた神様をはっきりと捉えることが出来る。その困難な時、明らかに私には神様が私と共に居られたのだ。何の語る口も持たれず、私の訴えに苦痛で相好を歪めながら、涙なのか汗なのか、しわと言うしわに纏わり着いてくしゃくしゃになり、顔として認識できない程で、そういう乞食と見まがうばかりの神様が私の中で泣いておられた。

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