2009年11月11日水曜日
今日の想い 117
悪なる所業の悲惨な結果に、波打つ自分の感情としてのみ魂に反射させても、供養にもならなければ慰めにもならないだろう。思いとして先ず最初に生じたものは、どうして故郷のその地に捨てられなければならなかったのかという憤りにも似た疑問だ。私の記憶の中の刈尾は雪霊水に流れる清らかさと、なだらかな稜線に見る包み込まれるような優しさに溢れている。人間の力を超えた自然の霊に畏れを抱きつつ暮らしてきたけれど、刈尾に視線をやればそれが自然への畏敬の念としての畏れであることを教えてくれる。この事件を耳にしたとき、一瞬は人間の命を喰らう鬼の類が刈尾の正体なのだろうかとも思った。昔からどれだけの人がこの山で命を絶ってきたか知れない。しかしながらどう問いかけてもこの山から自分が受け取ってきたものが地を這い生き血を吸うような低次元のものとは違って、何か宗教的な厳かなものに包まれている何かなのだ。命を絶つことは思いつめた末の行動だとしても、最後の場所は本人に取って安らかな場所を選ぶだろう。死を決意しながらせめてもの救いをその場に求めた、それが刈尾だったに違いない。命を絶つことは最大の罪であるとしても、抱擁するものが彼らを受け入れてきたのだ。今回の事件を深く問うとき、加害者が一度は訪れた場所であることはその通りだろうが、被害者に取っても過去に訪れたことがあるか、或いは肉体を離れた霊として加害者の選択肢の中からその場所への強い念を働かせたか、そのどちらかだろう。この事件に係わる霊的背後を問うても興味の域を出ることは無い。事件の残忍さを魂に波立たせる以上に、この地に何とか関係性を持たせ、私の故郷だということによって私に知らせたかったのであり、事実私は強烈な印象を持ってこの事件を知ったと言うことだ。その地に生まれたこの事件を知った者として、他の誰でもないこの私が供養できる何かがある。
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