2009年11月26日木曜日

今日の想い 121

自分に取って苦悩としか捉えられないものは、苦悩の意味するところを最初から持っていて、外れくじでも引いたように自分の頭上に落とされて、引き受けなければならないものなのだろうか。或いは自分に起こる事柄はそれ自体感情的要素は含まれず、苦悩と取るのも歓喜と取るのも自分自身の捉えようなのだろうか。そのまま口に含めば毒以外何物でもないものが、使いようによっては薬になるように、苦悩以外何物でもない降りかかった事柄を、受け取り用によっては歓喜への触媒になることは十分在り得るはずだ。毒に対して口に含む以外の使いようを知らないとするなら毒は毒でしかないように、どう捉えるかということには多様な方法があって、感情魂で捉えることしかできなければ苦悩は苦悩でしかないだろう。感情魂に於いては得も言えぬ苦味そのものであっても、新たな魂の器官を苦悩と呼ばれる事柄で創造されているとは言えないだろうか。人一倍苦労を重ねてきた人間は、安楽な環境の中で過ごしてきた人間には無い感覚や力を明らかに持っている。謙虚であったり忍耐であったり慈しみであったり感謝であったり、そういった感性は苦悩が触媒になることで新たな魂の器官として芽生えたものと言える。そう言う認識の上に立つと、訪れる苦悩をどう料理して歓喜へと作り変えるかを今生で訓練されていると言うことができる。勿論、苦悩を受け取ってご馳走でも戴くように嬉々として対処することなど有り得ないし、それができる存在なら人間として生を選ぶことは無かったろう。自分の感情を説得して、この苦悩の産道を通ってこそ自分の本心が願う新しい自分に生まれ変われると、確信もし感謝もして臨むべきなのだ。降りかかる事柄を誰の魂に注ごうかとランダムに選ばれているようで、実のところ天の緻密な采配が為されて、私という人間理想を成就する為に受けるべくして受け取る事柄に違いない。そこには神様の私に対する愛が込められている。親として子の成長を願う想いが込められている。欲しがる物は何でも与える親と違い、親以上に成長して欲しいという想いを本当に込めれば、非情に構えてトラの様に千尋の谷に突き落とすこともある。

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