2009年11月24日火曜日

死を想う

新たな一日一日を生き、一瞬一瞬を前進しているけれど、後ろに送った一瞬一瞬、一日一日は過去に葬っている。一瞬一瞬の死を、一日一日の死を、過去に残している。生まれてから今日までの死を背後に連ねながら今を生き、やがての大死に向かっている。連ねてきた死をやがては大死に繋げる。やがては私という意識の後ろにも前にも、死が延々と連なる。生という存在は死が存在することで存在する。もし人間に死が無かったら、生が存在することも無いだろう。死があってこその生であるなら、そして死を認識することで生を認識するなら、死への認識の度合いにより生を光り輝かせることができる。より死を正面に突きつけてこそ本質の生を生きることができる。死に正面から対峙してこそ生きることの意味を知る。生きていると言いながら実は死んでいる。毎日を惰性的に流しながら生きることを曖昧にしているのは、死への取り組みを曖昧にしているからだ。一瞬一瞬を過去に葬り続けることの死の意味を真剣に問わなければならない。生が無で無いように、死も無ではない。唯物主義の者、信仰心の無い者は死を無と捉える(死は無なりと言う唯物哲学)に帰依している。しかし本当は帰依などしていない。死に対峙するのが恐ろしくて目を背けているだけのことだ。死の領域では現世時間と現世空間に依存する事柄を持ち込むことはできない。時間と空間に左右されない事柄のみが死の領域に生を届ける。生を死の領域に送り込むことができない限りは死は得体の知れない死であり続ける。感覚世界であるこの世に生きることの意味は、生きて死を体験し、死と言うキャンパスに真の愛の筆で色彩鮮やかに愛の理想を描いていくことなのだ。死の領域への愛の理想の創造こそが生きることだ。

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