2009年11月17日火曜日

光を想う

吸い込まれそうな青が天を覆い、凝縮された光の層をそこに見ている。地上の希薄な光の中で喘いでいた昔の私の魂は、今密度の濃い、しかし軽やかな光に息を吹き返し、同じ光の中で活き活きと生命を溢れ出す万物たちとその喜びを分かち合う。木々に残った葉を揺らし、私の頬をなでる風が心地よく囁く。久しぶりの日差しが晩秋の景色を包み、壮年期を超えようとする私の体をも優しく包む。この一瞬の安らぎを受け取ることですら、既に生まれ出でたことの価値に匹敵する。明日に暗闇に沈もうとも、生きる苦しみにやがて翻弄されようとも、受け取っているこの一瞬の祝福がそれらに勝る。憂いの陰りを見せる心配事のひとつひとつも、必要とあって私に摂理されたことであれば、いたずらに陰りを濃くさせることはない。委ねるという学習を何度も何度も繰り返しながら今がある。七転八倒の苦しみの流転の日々が、執着という堕落要素にその原因があることを、この年になってやっと解ろうとしている。光を求めて地上に生まれ出でた自分なのだ。愛がその存在を現した一つの形が光であり、その光を光として素直に受け取れるまで、今の今まで時を要した。心の扉を全て開け放ち、居座る闇のひとつひとつを光に曝す。堕落と罪の結果としての闇が、最後の足掻きを企てようとも、遠からず光に焼かれる運命にある。闇の叫びに対して私はこう説得する。闇は光に焼かれることでその本分を全うするのだ。闇がどう演出するかで光がより光として印象付けられるけれど、最終章として闇は光に焼かれるのでなければ闇の光に対する存在価値はなくなる。多くの闇が魂の内に居座っているのを否定しない。だからと言って光を遠ざける存在にはならない。闇ゆえに魂の痛みを覚えながらでも光の方角に突進していくのだ。闇が魂の部分の殆どを占めていて、光が自分と言う存在を消し去ることになっても、それでも光の中に飛び込んでいくのだ。全てを否定して、それでこそ新生するものが自我の中にあるはずだ。その期待感が私を更なる光へと誘う。人類の光であり天宙の光である御父様に向かおうとし、より慕いたいしより侍りたいのは、父子の因縁を求める絶対信仰による期待感からだ。

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