2010年4月29日木曜日
朝の祈り
朝には今日一日に対する希望に胸を膨らませ、与える喜びで満たされる気分を期待する。与えて為に生きる一日であれば御父様に会える。御父様の心情の一欠けらを受け取ることが出来る。受け取った心情の一つ一つを積み重ねることで親子の因縁は築かれる。この目を通し、光を媒体として映りこむ様々な存在、出会う人達の動きや表情、全ての映像の中に神様から流れてくるものが見出されるように。この耳に聞こえる風のうねりや鳥の歌声、出会う人達の言葉の響きの中に神様から流れてくるものを聞き取ることができるように。この口を通して投げかける言葉に、与える心を植付けて相手に届けることができるように。自然を賛美し相手を賛美し、訓読で受け取ったみ言の神霊が宿った言霊を投げかけて、対する人の内面に真の父母からくる愛の光が差し込むように。自然と笑みがこぼれ自然と涙が流れ、この堕落世界の中にあっても堕落様相に染まることの無い、荒れ野に咲く一輪のバラとなりゆりとなって真の父母の真の愛の香りを醸し出す私であるように。きのうの憂いを引き摺らず、明日の成り行きを心配することもなく、与えられた今日と言う一日を精誠を尽くして歩みきる。どれほど重たい過去があったとしても、与えられた今日と言う一日で過去の全ての憂いを払拭できる。たとえ明日には打ちのめされて死ぬ定めにあったとしても、とわに生きる価値を今日と言う一日に受け取れる。肉体を持たれて同じ地上に住まわれる御父母様を戴き、御父母様と共に歩む一日は、地獄の底が天国に変わる。奪われた者は奪われた以上に与えられて埋め尽くされ、奪った者はその責めの恐怖を御父様自らが身をもって受け止められる。御父様が愛の権威を取り戻され、真の愛の力を行使される意味は、裁く為ではなく犠牲の限りを尽くされて与える為なのだ。子に与え尽くしたい一心の想いが、御父様の胸のうちの根源にある。その想いを受け止める今日の一日でありますように。
今日の想い 166
光る川面だけを見れば、時間の流れと状況の変化は感じ取れない。しかし印象とは裏腹に、一瞬として同じ水が、見つめる川面の底に留まる事はない。時折風に舞う新緑を目にしながら、自然の中に季節の移ろいは感じても、留まることのない大気の流れを認識してはいない。目に映るもののみに頼って生活することに慣れているけれど、それがどれほど限られたものであるかを知るべきだ。大きな流れと変化に生きている実情を悟らずに、今の自分に固着して生きようにも、流れと変化に逆らうことは翻弄されて自滅しかねない。泳ぎを覚えてこそ水に溺れることがないように、魂が流れと変化に翻弄されて溺れないように内的霊的な泳ぎを学ばなければ、終末の大変化を泳ぎきることはできない。水に逆らって、溺れまいともがけばもがくほど沈んでいくように、如何なる試練も、否定して逃げようとすればするほど試練に打ちのめされて沈んでいく。試練は受けるべくして受けるものだと素直に受け止めることだ。水が体を浮かせるように、試練が魂を持ち上げてくれる。水位が上がれば自然と体も持ち上がるように、試練が私を成長させてくれる。試練なくして高次の世界に入っていくことはできないし、神様にまみえることはできない。大気という海の底こそ地上世界だ。一気圧の大気海の底で堕落社会を築き上げて住んでいる。人類がこの海底の苦界から抜け出して創造理想の新しい世界に向けて出発する為には、地上的物質的禊(みそぎ)が為されるだろう。一度は大気海の底を堕落的なものから一掃する為の地上界底上げの禊が為される。具体的なことを言えば海面水位が上昇するとか陸地が陥没していくとかが起こり得る。どちらにしろ人類はある程度の標高地への移動を迫られるに違いない。御父様が堕落的垣根を撤廃されて真の愛による平準化を霊界に於いて為された。霊界で為されたことは地上的にも為される。御父様の勝利された内容が、食口という特定の内なる世界に留まり、半永久的に人類救援の摂理を続けなければならないのなら、それを勝利とは誰も言えないだろう。御父様の歴史的天宙的勝利は誰の目にも明らかな形で示される時が来る。霊界が主体であり地上界はその鏡だからだ。
2010年4月24日土曜日
昇華を考える
人間は堕落してしまい、産まれるのも神様と関係がなく生きるのも神様と関係がなく死ぬのも神様と関係が無くなってしまった。堕落以来、気の遠くなるような年月を費やして人間と神様との関係を繋ぐ為に復帰の道を尋ねて来たが、本然のアダムという原型を地上に迎えない限り、復帰の道の峠を越えて神様と関係を繋ぐ領域への門を開き進むことはできない。どれほどもがいてもサタンと関係して生き、サタンと関係して死に、そしてサタンと関係して産まれてくる。人類が真の父母を戴いた意味はサタンの因縁圏から解き放たれることだ。個人が解き放たれ家庭が解き放たれ、氏族が民族が全てが解き放たれる。産まれるという概念が変わり、生きると言う概念が変り、死ぬと言う概念が変わる。思い込みの罠にはまっているそれらの概念を否定して捨てない限り、御父様が持っておられる概念を受け取ることは出来ない。今までの死に対する概念からすれば死は死でなくなる。為に生きてこそ生きていると言えるように、死は消えて無くなることではなく与えることの最上級だろう。主体対象関係に於いて為に存在してこそ存在を認められるように、与えることの最上級である死を持って存在は高い次元に昇華する。存在が高次の存在になる。昇華式の祝福は御父様の死の概念を受け取り、新しい死の概念、それはもはや死とは言えない昇華という概念で生まれ変わった宇宙に高次の存在となって飛翔する。御父様の言葉で、御父様の概念で、宇宙も私も地球も人類も再創造されて生まれ変わる。信じて行動することで御父様の概念が私の概念となる。
2010年4月22日木曜日
今日の想い 165
御父様、御父様と、何千万遍口にしたとしても、御父様という本当の意味を私の中で響かせているだろうか。御父様という概念を私は本当に持っているだろうか。みんなが小さい頃、親をどう呼んでいたか知らないが、とうちゃんかあちゃんと呼んでいた時分に、口に出した時に心に触れて響いた感情を思い出したらいい。初めて親元を離れて、夕暮れ時に寂しさが内面に広がると、親に対する深い心の依存を知るようになる。そういった時に呼び求める親父やお袋への感情を思い出したらいい。御父様と口に出す時、お父様に対する感情はそれ以上だと言えるだろうか。感情が伴わないなら御父様という言葉を無駄に唱えている。まだ幾らか感情が伴う分、不遜であるとしても父ちゃんとか親父とか、昔親を呼んでいた方法で呼んだほうがまだいい。御父様と言う言い方に慣れてしまっているけれど、親父と呼んでいるのと変わりは無い。変わりは無いけれど親父と呼ぶほどの感情は伴ってはいない。私の親父なんだという感情を御父様という言葉に吹き込む。自分一人で背負って苦しい時、何度も何度も御写真を抱きながらアボジアボジと涙を流した。御写真の御父様は微笑んでおられる。微笑む御父様は今この瞬間は私の御父様だ。おやじと呼びながら私は号泣する。号泣しながらも御父様が私の重荷を取り払い背中をさすって下さるのを感じている。私がどんな状況にあろうと、どうなろうと、御父様のこの微笑だけが私に取っては全てだ。御父様の微笑みに裏打ちされた子としての私への信頼で、私は死を超えることができる。
2010年4月19日月曜日
今日の想い 164
私は男性であるから、御父様に対して息子が父親に向ける情は供えることができるけれど、新婦として御父様を慕う情は女性でしか供えることはできない。男性として御父様に侍ろうとするなら息子が親を思う情を中心とするのはその通りだけれど、プラスの御父様に対してマイナスの女性がより情的に引き合うのは当然のことだ。本然のアダムを戴いた地上で相対位置に立てる女性の役割は非情に大きい。今まで集められた日本の修練会を見れば女性中心の修練会の方が多いし、女性主体の活動の方が多い。勿論母の国日本が負ってきたものも大きい。原理的に言うなら本然のアダムと心情的に一つになった女性を相対者として迎え、夫婦となることで男性は女性から御父様から流れる心情を受け取ると言うことになるだろうか。だから女性が御父様を慕い、願いに応えたいという想いが強ければ強いほど、家庭に流れ込む真の愛も強いに違いない。男性は天使長の位置にあるから、聖酒式の順番に表されるように女性によって産みかえられる。産みかえられて御父様の非嫡子であるけれど息子と言う立場に立てる。御父様から祝福を受け相対者を与えられたという本質的意味は、私は産みかえられて御父様の息子となったと言う意味だ。そのように祝福結婚に於いては相対者は妻以上の内的霊的意味合いがある。仲良くするに越したことはないけれど、どれほど表面的に合わないとしてもこの相対者によって御父様の血統圏に繋がれた自分であるという認識が根底になければならない。家庭を持ち時を重ねれば重ねるほどに、女性は家庭に閉じこもり内向きになるのではなく、御父様を慕う想いを益々強くしながら、御父様を恋い慕う心情で夫を包み込み家庭を包み込むことだ。白髪になろうが皺が増えようが恋する女性であってこそ家庭に愛の花が咲くのだ。夫は自分が産み変えた御父様の息子なのだ。
2010年4月16日金曜日
今日の想い 163
もつれた数が紐解けなくて、いじればいじるほど余計に絡み合う。監査が入り記帳を整理しようとするけれど、数字と格闘するも積み上げて重ねられた塩漬けアンバランスはもはや紐解くことなど出来はしない。合わなければ合わないなりに、ミスマッチの数字を把握しておかなければならないにも係わらず、私も会計担当も塩漬け数字から逃げてきた。なるほどこんな機会でもなければ、改めて調べなおそうとは決して思うことはないだろう。更に混乱に拍車をかけるように2009年度の年度末調整で給料記帳が合わず混乱している。外的要因を言えば昨年は中途で給料の請負業者を変えたため、その引継ぎが上手くいってなかったせいだ。陰暦でも2010年を出発しながら未だに2009年の清算に追われ、新しい年の運勢圏に入れない。年末から、辞めた従業員の嫌がらせに始まり今回の抜き打ち監査や会計記録の問題等、ストレスも限界に達しているけれど、内的霊的視線は敢えてそれを超えたところに置くべきだろう。この混乱の悲観的側面に意識を釘付けにされるのではなく、この試練を超えたところにある新たなステージを確信して歩むことだ。悲観的材料が多ければ多いほど信仰は要求される。信仰をより深いものとすることでより高みに跳躍できる。試練に係わることで信仰という内的霊的筋肉が強化される。今を超えることで飛躍的発展的なステージが約束されているに違いない。見えないからと言って、見通せないからと言って現状から抜け出せないなら、解決する為の私の創造性も主管性も否定されたことになる。創造性、主管性を賦与された自分であると思えればこそ、神様の息子なのだと言える。元従業員との問題にどう対処するかで新たな霊的運勢を主管下に置く事ができる。数字の反乱を収めることで数理に対する主管性を復帰し、数理で治められている理念界に意識を浸入できれば、地上界の権勢は主管できる。数理を把握しておられるが故に、御父様が万王の王として天宙を主管されるように。
2010年4月15日木曜日
責任者
御父様に喜んで戴きたい、中心に良い報告をしたい、その思いが間違っているとは言わないけれど、その場その場の報告で中心の気を引いて済ませても侍ることにはならないだろう。良い報告をしたいのは人情としてわかるが、御前でいい顔をするのが侍ることではなく、決意と覚悟を持って意志を差し出すことこそ忠孝の源と讃えられた日本食口の姿だと思う。言うにおこがましく非難を覚悟で敢えて言う訳で、今までの責任者にそれだけの侍る覚悟があっての今の状況だろうかと思うことがある。み旨の現場や最前線で歩む兄弟姉妹達の歩みや想いを活かすも殺すも責任者にかかっていた。私も今、ひとつの責任ある立場にある。直接御父様に報告する訳ではないが私の采配で従業員の歩みを活かすことも出来れば殺すこともできる。先ず責任者は上に立っているという認識は捨て去ることだ。権威意識が少しでも自分の中にあるなら責任者として相応しくなく、やがては権威が自分を裁くことになる。共に歩む者達の僕として、私の位置は私が決めるのではなく共に歩む者達が決めるのであり、天がそれを認可する。霊的階級を言うならより高次の霊的存在が高みから指図するのではなく、高次の存在になればなるほど心を砕き精神を尽くして働くのが天の道理だ。イエス様にしろ仏陀にしろ霊的高みの安楽な位置で、善きに計らえと踏ん反り返っているのではなく、より心を砕きより精神を尽くして、即ち精誠の限りを尽くしてみ旨に協助しておられる。上の位置に立てば立つほど僕の位置に下るべきだという認識を備えた者こそ、天は責任者として用いられる。誰よりも心を砕き、誰よりも精誠を尽くし、誰よりも食を少なくし誰よりも睡眠を少なくする。誰よりも動いて誰よりも働き、誰よりも汗して誰よりも涙を流す。そうして初めて為に生きるという言葉を理解できるようになる。
2010年4月14日水曜日
春の雨に想う
春の雨は暖かい。傘を忘れて飛び出したけれど、大地を湿らすにはちょうど良い雨加減で身体が濡れても一向に気にはならない。木々の若葉がこの雨で鮮やかさを増して生育を増すように、私もこの雨に湿らされて新しい魂の芽を吹き出す。冬支度を誘う秋雨の冷たさと違い、春の雨は優しいぬくもりで私と万物を包み込む、言うなら地球生命の羊水だ。春と言う地球の胎の中で、息を吹き返したあらゆる生命が成長を促される。春の雨に濡れながら母の胎の記憶が蘇ってくる。母の胎の中で地上生の準備を為し、四肢を初めとするあらゆる器官を贈られながら、何の憂いも陰りも無く、地上への期待を四肢に詰め希望一色の時期を過ごした。ちょうど人間創造の出発点からアダムとエバとして実体化される過程を辿るように、母の胎内という宇宙で私の創造が為されていった。春と言う地球生命の胎内で、摂理に貢献できる内的成長と内的創造を、若葉が生い茂る外界に合わせて私の中で行われているだろうか。多くの試練を掻い潜りながら、苦難が遠ざかることのみに心が向かうなら試練の目的に沿うてはいない。火炉に放り込まれ、槌で叩かれて耐えながらもその状況下で自分の内面に芽生えるものを見るのでなければ、鉄の塊は塊のままで鋭い刀に変容できない。試練に真っ向から立ち向かいながら、苦難の全てを嘗め尽くす決意と覚悟を供えた分だけ、私が内的霊的に大きく飛翔できるものを受け取ることができる。春の雨の優しいぬくもりに包まれながら、試練の只中で傷つけられた霊的身体を癒し、試練を超えて勝ち取った翼を大きく広げて羽ばたいてみる。2013年までの期間を過去の流れのままに流されるなら、それは御父様に対する背信だ。成約聖徒の名を戴いた群れであるなら、最後のこの期間に果たすべき使命と責任を悟り、全うする為の新しい翼を用意しなければ御父様について行くことはできないだろう。
2010年4月11日日曜日
夜と昼
夜があって昼があり、夜が先で昼が後に続く。昼夜ではなく夜昼だと何度も何度も語られるように、今日一日に地上で展開される事柄は、夜の内に整えられている。鏡を前にして私が映し出され、映し出された私を見ているように、地上に於いて光や音や触感を通じて映りこんだものは、夜に於ける本質の活動が地上的に表されたものだ。地上的昼の活動を制する為には、夜の活動を制する必要がある。夜をいかに準備するかで昼の歩みを主管できる。地上人間として生を受けた私という存在は、ある意味私が属する血統圏が霊界にもたらした実質を、実りとしての私と言う地上存在に映されて生きている。即ち夜に当たる霊界にもたらしたものが昼に当たる私と言う地上人間として地上化されて表れている。良し悪しに係わらず因縁とかカルマとか言われる蕩減的に受け取ったものが地上の私に表れている。だからひとそれぞれ、ある程度の背景はすでに決められ整えられて地上に生を受ける。血統に於いても霊界地上界という夜昼を繋いで私の代まで到ったように、個人生に於いても夜と昼を繋いで人生を生きている。夜を如何に準備するかで昼の歩みは決められる。今日一日の歩みを実り多いものとする為には、夜の準備が十分に為される必要がある。しかし夜の準備は意識圏に於いてではなく無意識圏でなされる。意識が到達できる境界の向こう側、即ち彼岸という無意識圏で準備が為される。境界を越えて影響を及ぼすものは愛の衝動であり心情だ。一日の歩みを終えて眠りに付く時が明日の出発点であり、眠りに入ったとき天使を通じながら霊界へ今日の愛と心情の実りをもたらし、それ以上の実りをもたらす為に明日への活力と方向性を受け取る。一日の歩みを振り返りながら、どんな小さなものでも体験の中に心情に繋がるものとして受け取り、愛の衝動に繋がる兆しが見つかるなら、その心情の芽、愛の芽を大きく育てたい願いを祈りで供えれば、必ず無意識圏に届いてその為の力を天使から霊界で受け取る。その力と願いの方向性が昼の歩みという意識圏に表れる。その積み重ねこそ主管的人生であって、堕落的流れに流される人生とは大きく異なる。
今日の想い 162
日中は汗ばむほどで上着はもう必要無い。Tシャツ姿や薄着で街を歩く人々も多くなり開放的な時期を迎える。冬の間に地中で熟成を為しながら蓄えられたエネルギーが、一度に芽吹いた木々の葉の緑となって地上を覆う。上着を脱いで身体を解放するように、青葉茂れる季節に心をも開きながら、今の時期の新鮮なエネルギーを私も受け取ることができるだろうか。授受作用の原則から言えば、受け取ることを期待する前に与える存在となるべきだ。己が使命に対して決意と覚悟を備えるべきだ。そうであればこそ自然とエネルギーは吸収される。低気圧の状態であればこそ高気圧の大気が自ずと流れ込む。自分の中にエネルギーが吸収されないのであれば、与える存在モードにはなっていないということだ。決意と覚悟が備わっていないということだ。御父様の御心情、天情に立てない私と言う存在が醜くもあり惨めでもあり、申し訳なくて仕方が無い。どんな試練が迫ろうとも、天命に対して背筋を伸ばし顔を上げ、目を見開いて試練の及びに揺らぐことの無い私を確立したいのに、これ程の年数を重ねながらも未だに我が身可愛さから抜けきれずに揺れ動く私がいる。御父様の御袖にしがみついてでも、生死を超えて付いていきたい私を一方で自覚しながら、一方ではこの世の道理に反することを恐れている。この世の法を恐れこの世の視線を恐れている。その矛盾性の内包で魂は引き裂かれる。我が身可愛さという名の執着が、積み上げてきたものをご破算にする。優柔不断な子が父の強烈な叱咤に目が覚めるように、分別する力としての霊を何処かで受け取れるはずだ。一歩後退の今日の歩みを、一生懸命噛み砕いて消化しようと試みながら、身動きできない霊的縛りを溶解して解放できる、化学反応的み言が何処かに在るはずだ。一瞬一瞬に於いて決意と覚悟を差し出さなければ、み言はみ言としての本当の光を私に放つことは無い。決意と覚悟を備えることで、み言は私の魂に化学反応を起こす。
2010年4月10日土曜日
今日の想い 161
イエス様が神様を愛し隣人を愛するという愛の概念を地上にもたらし愛が広まっていったように、真の父母は全ての愛の概念を地上にもたらし、真の愛は全ての人類の魂に押し寄せながら感化され広められていく。人類の為に準備された教本教材は、真の愛の概念を魂に植え付け、真の愛を呼吸する魂として変革される。どれほど頑なに堕落的な旧態依然の魂様相を保持しようとしても、言うなら宇宙の魂が既に真の愛によって変容している。宇宙は既に堕落的なものを受け入れる状況にはない。一人の人間が他から遮断された個体であり個の魂だと塀を高くしようにも、食するにも息をするにも外にあるものを内に供給しなければ生きていけないように、魂活動をなすにも霊界との関係性のなかで為されている。好きだ嫌いだと言える以前のこととして、真の愛はそれぞれの魂に押し寄せてくる。真の愛の概念を嫌い偽りの愛の概念に執着するなら、真の愛の波は本来祝福として押し寄せるにも係わらず、整理されるという局面としての審判の働きを為さざるを得ないだろう。宇宙の大変革が事実として今起こりながら、地上の多くの人間は未だ堕落的な思考概念、堕落的な感情生活のなかに没頭している。程度の差こそあれ兄弟姉妹達もさして変わりは無いだろう。やがて全ての堕落的なものが一掃されれば、堕落的概念で組み立てられた魂は食するものを失い息するものも失ってしまう。御父様は六十五億の人類全てを救うべく、この教本教材を広めることを切望しておられる。D-DAYとして時が間近に迫れば、その時にやおら魂の準備を始めようとしても所有する概念がそう簡単に変わるものではない。時既に遅しとなるかもしれない。出版された自叙伝がどれ程ありがたいか。堕落的な魂様相であっても平易な言葉で書かれた文章を追っていけば、十分に御父様の高潔な魂様相に触れる事ができる。触れることで掴んだ真の愛の糸を辿ることが出来れば必ず救いに到る。
言葉を考える
言ったことそのままに起こるから語る自分が恐ろしいとまで言われるように、私達が何気なく口に出している言葉もよくよく注意しなければならない。どんなに否定的な思いに駆れるとしても、暗い未来の予想を言葉にして口に出してしまうと、起こりうる事実として運命は回転し始める。御父様の言葉を御父様が恐れるように、自分の言葉を自分で恐ろしく思う認識を備えなければならない。口を制するものは世界を制すると誰かが言ったと思うが、それがそう言う意味なのかどうかは分からないけれど、そう取るべきだろう。御父様の言葉と私の言葉の重みは比ぶるべくもないが、そうは言っても自分の言葉に自分が左右されることは間違いない。だからと言って心にも無い言葉やホラで、張りぼて自分を作れと言っているのではなく、言葉を選ぶという意味は神様から来るところの神霊を宿した言葉を口にするよう心がけるということだ。その言葉で理想を描くことができ、希望を与えることができ、前に踏み出す意志を備えることができる言葉、語る相手に取っても口に出す自分に取ってみても、そうであれば神霊を宿し善霊が働いた言葉と言うことが出来る。言葉こそが霊であって、口にだす言葉にはそれに宿る霊が存在する。呼吸が霊の呼吸であるように、喉を使って空気を吐き出すことで言霊を吐き出している。霊の係わらない言葉があるはずがない。御父様が言葉をもって天宙を再創造されるように、私達は自分の言葉をもって私の小宇宙を再創造している。み言を自分の言葉としながら思考魂を変え、更に感情魂を変えて意志魂を差し出す。言葉をもって自分の感情は主管できるだろうし、言葉をもって天の願いに応える意志を大きくしていくことができる。口を制する者は世界を制する。
2010年4月8日木曜日
キリスト教国家アメリカ
アメリカに移動して既に四半世紀を超えようとしている。今までの人生の半分をここアメリカで過ごしてきた。未だにおぼつかない英語ではあるけれど、アメリカで家庭を持ち、アメリカで子供は生まれ育ち、アメリカで妻は移植も受け、そしてこのアメリカで、信仰も含めた多くを学ぶことができた。外的に言っても日本に次ぐ第二の故国であり、内的に言ってもアメリカは第二の故国だ。韓国が儒教の国であるようにアメリカはキリスト教の国であり、国家的な信仰の火は弱くなったとしても民衆にキリスト教精神は宿っている。御父様に繋がる牧師達の話しを聞くなら、愛を謳う言葉の中に信仰の火が絶やされずに燃えているのを受け取ることが出来る。アメリカでより信仰的になることができたとは言えないけれど、風土にも人々の心にもキリスト精神は宿っており、それに包まれて暮らすことで自ずと日本との違いを嗅ぎ分ける。日本で暮らす内的様相とアメリカで暮らす内的様相には大きな違いがある。日本に隣人愛や平等意識は基本的に魂様相に含まれてはいないが、アメリカにはそれがある。日本人がアメリカで暮らして感じるのは、内的に締め付けられ枷をはめられていたものが取り払われ、隣人愛や平等意識の風に内的羽を広げて自由を得る。それが堕落的な羽を広げてしまって、内的生命の命取りになることも見て来たが、分別する力を備えることでイエス様が示された愛の光を魂の中に受け入れることが出来る。勿論その段階に留まるのをよしとすることはできないが、私のような弱い魂の成長には成約のみ言への足がかりとして、キリスト精神のステージに置かれたことは大きな恵みだった。摂理の要求そのままに応えているとは言えないが、キリスト教国家アメリカの良心に内的霊的にも支えてもらった私としては、アメリカが再度御父様に強く繋がる道を模索しながら差し出すことが、当面の私の使命だと思う。
2010年4月6日火曜日
今日の想い 160
今日は80度を超える初夏の陽気だった。ここ一週間の間に気温は一気に上がり、そういえば今年はまだ桜を間近で見ていないことに気付いた。しかし通りに咲いている桜は既に散っており、アパートの中庭はどうかとは思ったが、案の定そこの桜も八割がた散っていた。数日前の強い風に散り落ちて寄せ集められた花びらが縁石の辺りに積まれている。外は春爛漫の様相だったろうけれど、心配事という暗雲が私の内界を覆い、明らかに外界とは極端な違いを呈していた。波乱万丈の御父様の生涯に思いを馳せれば、六度にわたる牢獄生活は苦難の頂点であるけれども、いつもサタンのヤイバを喉元に押し付けられながら、次から次へと降りかかる多くの心配事を茨の束でも抱かれるように抱えて来られたはずだ。本然のアダムであれば堕落人間のように憂いや心配事などは全く無いと言えるだろうか。勝利された御父様であられるとしても愛されるが故の憂いや心配事は抱えておられるはずだ。この暗雲に覆われて何とも真綿で首を絞められるような内的状況が続くとしても、御父様の味わって来られた想いに比べれば屁でもないだろう。私の晴れない心は心で事実と認めるとして、それを凌駕する高次の精神を備えることで自らを主管すべきだろう。春爛漫の様相から突然の嵐が襲うとも、一度咲いた花々は風雨に曝されながらも花びらを閉じることなく燐として咲き続ける。可憐な花々であっても暗雲の向こうにある青い天を望みながら健気に咲き続ける。この小さな花ひとつの精神さえこの私が学ぶことができれば、この些細な取るに足りない心配事を凌駕できる。私は御父様の息子であり御父様を慕い侍っている。慕い侍ることで全てを相続されようとしている。その事実を何度も何度も自分に言い聞かせながら、暗雲の向こうを臨み見る力を備えていく。
2010年4月4日日曜日
今日の想い 159
最後の正念場では、戦う相手は自分しかいない。結局は自分との戦いだ。目の前に現れて戦う相手の正体は実のところ虚像に過ぎない。自分の中で絶対信仰の基準とひとつになっていれば、霊的自己は揺ぎ無い泰山と化して、対する存在はありつぶでしかない。しかし不安と恐れに内的様相を合わせてしまえば、荒波の中の小船の様に激しく揺れ動き、対する存在は巨大な津波と化して襲い掛かる。要するに内と外とは逆説的にその様相に現れる。祝福を通して御父様の分霊を戴いた自分であることの証明を立てる時が必ず来る。一生の間に何度か来るその節目節目に於いて、しっかりと証しを立てる自分になることが大切なのだ。結果への執着を捨ててひたすら自分に向き合いながら、自分の今の内的様相を把握し、主管し、強化する。弱さは硬さでありもろさとなる。強さは柔軟であり変化に対応できる。この世で強きものとして見られている全ては弱さの裏返しとして表れている。権力や財力への執着も恐れと不安がその根底にある。恐れと不安という弱さをどうやって乗り越えることができるか。実は堕落したその時に、ルーシェルによって魂に書き込まれたものが堕落の血統を受け継ぎながら受け継がれている。恐れと不安という弱さが魂に閉める割合が堕落本性の割合を表している。時として魂が堕落的在り様であることを思い知らされる。しかし祝福を受け御父様の分霊を戴いたものは堕落的魂の部分に対抗する本然の魂の種火を見出すこともできる。内なる御父様の存在である本然の魂に光を当て続けることで堕落的魂を凌駕できる。人生の節目節目に於いて訪れる試練は堕落的立場からすれば災難ではあるけれど、本然の立場から見れば大いなる祝福だ。その試練に立ち向かうことで堕落的魂を大きく退け本然の魂が大きく成長する。回りくどいプロセスを言うまでも無く、試練は恵みだとその言葉通りに受け取れればそれでいいのだけれど、許容範囲を超えるような試練は必ず訪れるし、その試練を超えるためにはみ言でこそ照らし出される深い知恵が必要となる。
2010年4月2日金曜日
今日の想い 158
手を広げられ、数理の説明からみ言葉を始められた御父様は、幾分か疲れておられるように思えた。久々にDCに来られた御父母様は、五時丁度ホテル十五階の部屋に入ってこられ皆の啓拝を受けられると直ぐ、マルスムを始められる。九十の齢であちこち飛び回られながら、それでも朝五時からの訓読会を欠かされることはない。日によってはお昼近くまで話されることもよくあるし、いつ休まれるのだろうと思えるほどのハードスケジュールだ。語られ始めると直ぐにもエネルギッシュないつもの様子を取り戻された。話される内容もさることながら、とにかく毎日話され続けてこられ、話す相手を選ばずに今日も話される。御父様の生涯は語って語って語り続けることだ。語ることが与え続けることであり、与えたい想いが言葉の中に凝縮される。貴いそのみ言葉を受ける器も持ち合わせずに、来いと言われたから来たとしかいえない者達を前にされながら、それでも与える言葉を出し惜しみされることはない。そうであればこそ余計に語られようとされる。み言葉のシャワーを浴びせながら、春雨によって生命の目覚めが喚起されるようにいつかこの者達が必ず本然の自我に火がともされる時が来ることを信じて語られる。御父様に取って語られることの背景に我々に対する絶対的な信頼がある。御父様が我々に絶対信仰を願われるように、我々に対して御父様は絶対的信頼を寄せておられる。御父様は好きで語られるのでもなく、条件や修行として語られるのでもない。信じる我々に対して親としての精誠を捧げておられる。御父様の話されるのを、何の情的喚起も起こさずに受け続けるのであればどれ程申し訳ないことだろうか。私に対する御父様の想いを地に捨て続けていることになる。そんな者達にさえ語って語って語られる。与えて与えて与えつくされる。肉を削り、骨を削り、魂を削られながら与え続けられる。
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