2010年11月25日木曜日

今日の想い 230

み言に相対するには私はあまりにも基準が低く、み言への橋渡しは私には届けられない、そんな気分のままでみ言に対すれば訓読はしても理想像を見るに留まる宗教的憧れでしかない。み言が私の中で作用し、私を目覚めさせ変革させるためには、み言が他の誰でもない私について語られているものであることを知って実感する必要がある。人間は霊的にも無知に陥ってしまったから、私自身の存在に対してあまりにも知らな過ぎる。堕落して限られた意識の光を届けられるところまでしか存在を認めようとはしないし、極端な者は見えるものしか認めようとしない。霊と魂の区別も、違いもわからなければ、それらの存在すら否定してしまって自分という存在を何一つわかってはいない。み言、特に原理のみ言は私自身について書かれている私を知る真理だ。汝を知るという根本的表題を掲げた時、自分はどういう存在でどのように創られたのか、自分はこの肉体の中で生きているけれどどう規定されているのか、そして自分は何処からどういう経路を辿ってやってきたのかと言う、三つの根本的表題を上げることができる。一つ目の表題に対しては、創造原理は外なる宇宙に関する真理以上に、私がどのように創造されたのかについて記されているのであり、二つ目の表題に対して堕落論は私が罪を抱えて規定されているのは堕落したからであり、様々なシガラミや超えられない壁の正体を見破ることができる。そして復帰原理は歴史の結実体である私とあるように、私に至るまでの救いの摂理の経路が記され、それは私の血の中に刻印されているのであり、遠い昔の異郷の地で起こった関係のない物語の原理的解釈ではなくて、三つ目の表題を解決する今の私として積み上げられた私の経緯を紐解ける。私の血の中に堕落から始まる全ての路程の失敗も勝利もしっかり刻印されているのだ。原理に精通すればみ旨が外の出来事だけではなく、外界と私の内界宇宙が見事にリンクされていて、私という天宙の復帰であり私という天国理想の完成であることを現実として生きるだろう。

O、X の話

理解するのが難しい御父様のお話の中にO、Xの話がある。潮の満ち干きの水の移動がXの形を取りながら為されることを例に挙げられながら、それは地球の呼吸とも言える潮の干満がXの形を取っていると言うことだ。その意味で人間の呼吸もXの形を取っていると言えるのかも知れない。”平和の主人、血統の主人”を見ると、(8の字を描きながら)O とXの基準に全て合わなければならないとあって、8の字を描きながらのXと言うことであれば理解できなくもない。現代の人間は存在する為に意識と無意識の間を行ったり来たりしている。意識とは目覚めている状態を言い無意識とは眠りの状態を言う。目覚めている間は地上生活を意識しているけれど、眠りの間は無意識の状態で霊界に赴いて生きるための生力を受け取っている。地上界と霊界との境界線を接点に、丁度原理で霊人体、肉体を図式説明するように8の字を描きながら存在している。8の字の交わった一点を目覚めの出発点とするなら地上界に時間を追う毎に深く入っていって8の字の最下点が正午の位置、下水平の位置であり、夕刻を経て眠りに着く点が目覚めの出発点と重なってそれから霊界に登っていく。完全な深い睡眠に埋もれれば人間として辿る事が出来る最も高い霊界の位置、即ち上水平の位置で安らぐ。そして目覚めに向けて地上への接点に向かっていく。このように8の字を描きながら存在している。腹中時代は水を呼吸するXの存在であり、肉体人間として空気を呼吸するXの存在であり、人間存在そのものとしても地上界霊界を跨ぐXの存在であり、恐らく全ての存在様相が8の字を描きながらのX存在なのだろうと言うのが私の仮説だ。勿論仮説は仮説であり崩され得る。

ワシントン ニューヨーク大会

どこまでも澄み切った空を思わせるような照明に演出された舞台は、アベルUN全ての国旗が演壇を囲むように立てられ、聴衆の気分を盛り上げている。世界会長の登壇を含む祝辞が何人か続いた後で、会場を木霊する大きな拍手に迎えられながら、御母様の手を引かれて中央に進み出られた。壇上に立たれた御父様は今一度の拍手のうねりに身を預けられた後、会場の三階席の奥までしっかりと見届けられると口を開かれた。年寄りの話を聞くようにと前置きされれば、恐らく誰もが年下だろうから自然と素直に聞く態度を持つだろう。その言葉は重くもあるけれど、祖父が孫に接するような暖かさで聴衆を包み、誰もが笑みを浮かべざるを得ない御父様ならではの魔法の言葉だ。一瞬でその場を主管され、衣擦れの音すら止んだ静寂が訪れると、講演文を高らかに読み始められた。朗々と鳴り響く御父様の声音を会場の奥の席で浴びながら、この御歳であられながら本当に元気な御様子を嬉しく思うと、霊界もそれに頷いて賛同し、霊達の喜びも合わせられ私の胸をつく。並み居るお偉方を御自分の子であり孫であると認識しておられるから、𠮟り付ける様な言葉も態度もそのままぶつけられるし、険しい顔を見せられたかと思うと急に相好を崩され、満面の笑顔でひとりひとりに入り込まれる。これが御父様流の真の愛なのだなあ、短くない年月を御父様に従って歩んで来た兄弟達も同じように接し同じように包み、どんな位置にある人々もそして人類全ても同じ親の愛で包み込まれる御父様なのだなあと、感慨深かった。配られた講演文には載っていない言葉の中に、大変重要な指示もされ、起源節までの具体的な指示事項として宣布され打ち込まれた大会であり、霊的にも地上的にも祖国韓国への大きな流れが具体的に進められることを理解した。最後にその出陣の銅鑼を力強く叩かれ、先陣の旗を掲げられた。折りしも北朝鮮からの砲撃が23日の午後二時半だから、米東部時間では23日の零時半だ。相前後して起こったことは決して偶然ではないはずだ。

2010年11月24日水曜日

今日の想い 229

月曜日の作業を急いで終え、それでも午前十一時はまわっていた。順調に行けば途中休憩を入れて4時間丁度で対岸、NEWJERSEYには着く。しかしマンハッタンに入る為には海底を抜けるリンカーントンネルを走らなければならない。その料金所に向けて車は殺到し、遅々として進まない車のごった煮の中で優に三、四十分はもみくちゃにされる。だから近くに着いてパーキングに車を預け、会場マンハッタンセンターに開演半時間の余裕をもって向かおうとすれば、五時間半から六時間を見なければならない。家を出たのが十二時近くだったが、それでも何とか焦らずに運転できる。どんよりしていた朝の空も昼間には晴れ渡り、今日の道中が護られていることを感じた。長時間の運転も全く苦にはならなかった。後の心配は妻の体調だが、今日一日ぐらいの緊張は何とか保てるだろう。後々数日間、バランスを崩すのは目に見えてはいたけれど、勿論その犠牲を払っても余りある参席であることは本人もわかりきっている。貧血で、緩やかな坂ですら手こずるような身体を少しでも休ませようとシートを倒し寝せて行かせた。最初に予定されていたのはDCからNEWYORK、それからLASVEGASをまわられてソウルで終えられるということだった。しかしDCの大会は無くなりNEWYORKから出発されることになった。それでも講演の中でワシントンニューヨーク大会と敢えて強調されておられたので、御父様の中でDCの大会が無くなった訳ではないだろう。DCからの動員も相当かけられた。案の定すり鉢の底に入り口のあるリンカーントンネルまでのとぐろを巻いた道路は身動きが取れず、トンネルに行き着くまで小一時間はかかってしまった。抜けるとマンハッタンの出口は天に届くビルに囲まれていて、何度この島を訪れても必ずと言っていい何とも言えない不思議な気分を味わう。着いた時は入り口近くだった列も、半時間もしないうちに長く太く膨れ上がった。七時近くになってやっと会場のドアが開いて、太い列を為していた人の群れがマンハッタンセンターに飲み込まれていく。その中の一人二人でしかないが、歴史の頂点の瞬間を見届ける数え切れない霊達の目となってそれぞれの席を確保した。

2010年11月21日日曜日

今日の想い 228

人間は本来あらゆる次元を跨いで生きる存在だ。堕落してしまってあまりにも物質体という次元に深入りしすぎてはいるけれど、私という存在を見たときに肉体もあれば生命体や心魂体もあり、物質界だけではなく生命界や心魂界に生きてもいる。そして堕落人間が意識できる圏外にある更に高次の世界が、幾重にも広がっている。多次元にまたがり感知できる肉体、生命体、心魂体、更に霊人体をひとつにした私という存在体は、あらゆる次元の反射体の役割をしている為に、それぞれの次元を感知できる。五感以外の、それらの未だ曖昧な感性を開いて研ぎ澄ますためには、修行によって肉的なものを除去することで五感を弱め、相対的に他の感性である霊性を意識に上らすことで別次元への開眼をなしてきた。しかしそれは同時にこの世から距離を置くということでもある。厭世的な在り様が人間の在り様としての願いではなく、あくまで神様は天宙の統一、霊界と地上界の統一を願われているのであり、地上を厭世するのではなく地上を復帰しなければならない。霊性を備えて地上を新たに再創造しなければならない。堕落の血統とは関係のない御父様を地上にいただき、地上界再創造の摂理がなされ最後の宇宙的瞬間を迎えようとしている。五感で受け取るものはまったく変わっていない様で、宇宙という入れ物がそっくり変わっているために、堕落圏とは関係のない地上世界が発生する。人間が霊性を開くことが出来れば今変化している全てを意識的に捉えることができるだろう。本質的な宇宙全体、多次元全体に於ける変化を認識せずして、肉的五感と唯物的な思考感情意志の心魂のままでは、次元の波を察することも出来なければ泳ぐことも出来ない。風呂を嫌がる子供のように、恩恵と祝福の波が押し寄せても逃げ惑うことしかできない。

2010年11月19日金曜日

自由性を考える

祝福を受けたからといって私と言う様相が変わった訳ではない。先祖解怨を受けても私と言う様相は直ぐには変わらない。その意味するところを理解できずに受けるものは受け、貰えるものは貰っておこうとするけれど、その態度は常に受身でしかない。私が変わるのであり変わらなければならないという発想はなく、周囲が変わってくるだろうし環境が天国化してくるものだと信じている。正しくは私が変わらなければ周囲は変わらないし、私が天国をつくらなければ誰もつくらない。たとえ天国が周りに出来て私がそこにいるとしても、私は相変わらず私と言う地獄の中にいる。祝福も先祖解怨も、その意味を知り価値を知るためには、そしてそれを実現し体現するためには、私が供えるものを用意し、私が恨みを解き愛さなければ何も起こらないだろう。私が受身であり続ける以上堕落圏から抜け出ることはない。神様は人間に自由性を与えられた。神様は胸をかきむしりながら、神様自身が自らを拘束して手も足も縛りつけて堕落するアダムとエバを見届けるしかなかったのも、自由性を第一に考慮されたが故だ。堕落に手を差し伸べれば人間は自由の存在ではなくなる。神様は人間が自由性をもって神様のおられる故郷に帰ってくれることを信じておられる。私に対しても、私の自由性をもってみ旨を歩み天国を内にも外にも創ってくれることを信じておられる。私の自由性とは私の能動的な態度にある。誰かから貰おうとする受身ではなく、私が与え、私が創り、私が私を救うのだ。神様でもないまして他の誰でもない私が先祖を救い私が氏族を救うのだ。み言を通して私は天国を明確に見せられている。恵みも祝福も全て備えられている。しかし私の態度は御父様に対して、私はここに座っていますからお父様どうか天国をここに持ってきていただき、恵みも祝福も御父様の手で食べさせて下さいと言っているようなものだ。それが当然なら私に自由性は必要ない。人間である必要もない。神様に対して私は歩く動物でかまわないし親なる方も必要ないと言っているにすぎない。私は能動的であってこそ、神様が子としての人間に与えられた自由性がどれほど尊いものかが理解できる。神様があごが砕けるほどに歯を食いしばって耐え、御自身を縛り付けられてでも護られようとされた人間の自由性の尊さがわかる。

2010年11月17日水曜日

今日の想い 227

許可が出て久方ぶりに帰って母と話したとき、母は私にこう言った。いい時代に生まれて楽しいこともたくさんあるだろうに、どうして一度しかない青春を犠牲にするのか。母の口からこんな言葉が出てくるとは思っていなかったが、確かに傍目から見ればそう思えるのだろう。青春を謳歌するとはサタンに身を委ねることだと、み言に触れた当初は信じて疑わないし、周りは無知であっても私は生きることの意味を知っているという誇りが私を前進させた。しかし青年期を超え人生のUターンの時期を過ぎると、誇りゆえに押え付けていた感情が頭をもたげてくる。苦労と思えるものは積み重ねてきたけれど、その投資に見合うものを見出せないでいる。そして無いものばかりを数えながら、虚無感がどんよりした空模様のように私を覆う。一生懸命勉強して入学は果たしたものの、目的観を失って五月病にかかった学生と同じだ。しかし本当の信仰路程はそこから始まることを、長く歩んでいる兄弟なら知っている。使命と誇りに突き動かされた期間は信仰の為の基台作りだったことを知っている。九数から十数に入って新たなステージに入ると、受動的信仰観から能動的なものに変化する。私の五感で受け取るものだけでなくあらゆる体験を、私を主体とする対象として捉えることができ、それらはその本質を私の霊の目に表す。今まで見えなかったものが見えてくる。対象ゆえの愛おしさ美しさで私に迫ってくる。今まで外的な事柄を現実として受け取っていたもの以上の現実性を備えて、対象の色彩溢れる感情を体験している。そういう新たな発見は、新たな信仰ステージに依るものだ。絶対信仰への道は新たな次元世界の発見であり、自分からすれば開拓だ。

2010年11月16日火曜日

今日の想い 226

全ての存在は形あるもの無いもの、内的なもの外的なものに関わらず、核を中心として回転することで存在を存在足らしめている。あらゆる存在は主体を中心として対象が球体を描くように回転し、その主体はより主体的存在に対して対象となり、そのより主体的存在を中心として回転している。ちょうど月が地球の周りを回転し、地球は太陽の周囲を、そして太陽は銀河系の中心を軸として回転しているように、大きなギアに合わせながらより小さなギアがはめられて大宇宙の中に組み込まれている。私達は堕落した故なのか、そういった存在様相を機械的イメージとしてしか捉えられないけれど、主体と対象の関係は愛でこそ成立しており、素粒子、原子に於ける存在も愛であるように、この大宇宙も愛によって存在している。宇宙の時空間はどの一点をとっても愛に満ち満ちているし愛として時空間は広がっている。宇宙を意識するとき機械的イメージを捨てて、神様の愛で充満している気分を育てるほうが宇宙の本質に合わせようとしているといえる。主体である核を中心とする対象は、主体対象一体としての球体上の円運動軌跡を取りながら存在特有のリズムを取り音色を奏でている。或いは主体と対象が円運動という存在特有の舞を舞っているとも表現できる。それぞれの存在がそうであるように、太陽系としての太陽系交響曲が鳴り響き、宇宙全体として神様を中心とする大宇宙交響曲が演奏されている。しかしながら如何せん堕落したことによる不協和音、不協和リズム、不協和ステップが堕落人間としての様相であり、不変であり永遠を否定する暗黒の死の極致に堕落人間は突き進んできた。私が堕落と関係のない完成したアダムを見出し、対象として回転することで、私は始めて存在としての光を灯す。縦横の神様がひとつになられた天地人真の父母を主体として戴いて真の血統に繋がれ、真の生命の灯が灯り、真の愛に包まれて、そして初めて宇宙の揺りかごの中で憩う。

今日の想い 225

摂理は急がれている。急がれているからこそ、しっかりと根源に繋がれた私を捕らえておくことは最も重要だ。為すべきことは山ほどあるし、差し迫った期限を提示されれば誰も焦る。しかし焦る思いに駆られてやれと言われた言葉を闇雲に胸のうちに響かせても、行動には焦る思いばかりが付着してしまって、復帰に対する御父様の想いが垣間見えるほどでも見出せるだろうか。摂理の途上で手を付けてきた事案は数え切れないほどだが、その中のひとつでも満足できるものとして御父様に報告できただろうか。やれと言われれば取り合えず手を付けるだろうし、それを願われてもいる。しかし中途で他のやるべきことも加算されていくだろうし、そうなればいくつ身体があっても足りないと思えるような外的表面的覆いでしか摂理を見届けることはできないでいる。そこに込められている願いや心情が行動の中に埋め込められ届けられねばならないのに、ギフトを入れずに包装用紙でくるんでしまって贈るような、そんな摂理に対する私達になってはいないだろうか。時を経るほどに願いは膨れ上がり、特に祝福の世界化から始まる摂理要求は把握できないほどの数値が責任として被さってくる。無理だという認識で意志はフリーズし、周りを見回しても誰もやれていそうでない状況に安堵してしまって時は流れていく。私は外的な事柄だけに翻弄されて心情の復帰、愛の復帰が私の中でなされていない。接するひとりひとりを愛する対象として認識しているか、それともくるんだ包装用紙だけを与える存在とだけ認識しているのか。愛する対象なら自分の全てを犠牲にしても与えたいと思えるはずだし、それで初めてその人に対して復帰と言う言葉が生じるはずだ。氏族復帰を今一度願われているけれど、私の中に氏族への愛が備わり高まって、彼等の為には何も厭わないと思えるほどであってこそ復帰と言う概念が私にも生じるし、祝福先祖を中心とする霊界にも植えつけられる。

2010年11月13日土曜日

今日の想い 224

信仰が強要されたら、それは信仰ではなくなる。私は意志の自由性をもって信仰にいたる。子供の頃の私の周囲は、仏事であるとか神事であるとか育った環境が宗教的慣習に囲まれてはいたけれど、その環境によって信心の芽が吹いて信仰が育った訳ではない。宗教、哲学に対して関心はあったものの、関心だけに留まっていて帰依に至る河を越えることはないと思っていた。何回か原理講義を受けながら、やはり理解はできるけれど心魂の内側に入るまでの事は無いだろうとも思っていた。心魂への扉が開いたのは、復帰原理の同時性の講義を受けた時だった。悟性による理解で帰依に至る河まではいつも足を運ぶことはできる。いつもはそこまででそこから踵を返していたのだが、その時何の加減か河を渡る橋が突然下ろされた。私の内側でカチャッという鍵を開けるような音がして、不安や疑心の全くない感情に包まれ、信仰を持つと言う言葉を初めて理解した。それ以来、み言や御父母様に対して不信を抱いたことは全くない。しかし信仰にも段階があって、御父様が願われる絶対信仰に至っているかどうかは常に問わなければならない。1600年代、イエズス会によってもたらされたキリスト信仰も、現代のクリスチャンの在り様とは大きく異なる。個人の意志の自由性が芽生えていない当時、キリストに帰依することは自分は罪人で地獄に落とされるという恐怖観念が信仰基盤になっていた。おそらく私と言う個人の路程に於いても、意志の自由性からではなく恐怖観念からくる意志への強要が働いていた時期もあったし、それが段階として必要だったのかもしれない。そこを通過しながら自由性を獲得し、絶対信仰への足掛かりにしてきた。キリスト教が布教されながら、しかしその一方で、クリスチャン大名と言いながらもその実情は鉄砲や火薬の代価として、日本から多くの女子供の奴隷を送っていたりした。私も自由と平和の地上天国を標榜するみ旨でありながら、歩みに於いては摂理から外されてサタン圏に堕ちていく恐怖観念が私の意志を強要し、み旨だと言われれば何でもありに少なからず加担してもいた。

2010年11月10日水曜日

晩秋に想う

天を仰いで青い空を見渡せるほどに、木立の中の見通しはよくなっていた。木々の葉が頭上を被い、日差しは直接地表には届かなかったものが、今は干からびた枯葉が地表を幾重にも覆って、晩秋という祭りの後の寂しさを演出している。数日前の秋雨に打たれても、又その後の強い風に煽られても、それでも契りを固くしたまま木々に残っているものもある。鮮やかだった装いも、身を焦がすだけ焦がして色褪せてしまい、それでも枝にしがみ付いて空の青の向こうに届けるものを準備している。春に芽を出して緑の葉となり、夏に宇宙の愛の陽光を存分に受け取れば、秋には宇宙に届ける霊的果実が残される。秋の彩りこそ木々の精霊達の霊的果実の表れだ。枯葉としてナキガラは落ちて土に溶け込むけれど、光を霊的実りに昇華させた木々の精霊は、宇宙にその実りを届けに行く。私はこの眼で枯葉の舞うのを見ながらも、霊的な眼はしっかりと精霊の生命の光として、蛍が群舞するように宇宙に舞い上がっていくのを見届けなければならない。高台から見渡せる木々に覆われた大地から、精霊達の生命の優しい光がのぼっていく。詮索や疑問の欠片も抱かず、宇宙の摂理への一片丹心な献身が、精霊達の本性だ。あらゆる謀(はかりごと)を複雑に絡ませ、霊的垢をところかまわず振りまいて生きている人間は、彼らに対して顔を上げることすらできないだろう。恥ずかしくて恥ずかしくて消え入るしかないだろう。秋の自然は高次の霊界に深く関与しながら霊的実りをささげている。晩秋の自然のナキガラだけに意識の光を充てるなら、私は秋の本質を受け取ることはない。

2010年11月9日火曜日

今日の想い 223

人間の中に満たされない器がある。それは愛の器だ。満たされない器が魂の渇きとなって、貪る愛を探しながら闇雲に触手を広げようとする。私の周りには偽りの愛がありとあらゆる誘惑の腕を伸ばし、空ろな視線で私をいざなう。耳に心地よいものがあり、目に優しいものがあり、触れるにやわらかいものがある。愛の減少感からくる慰みへの衝動は、手っ取り早いそれらに身を委ねることで満たされ、愛ならぬ愛は私の内側に滑らかに浸透してくる。愛に餓えている。誰もが愛に餓えている。それが偽りであろうが何であろうが、愛なしには生きられない。愛の呼吸なしには生きられない。大気の海の深みの底で、愛とはいえない愛を、感覚人間、感情存在として奪い合い貪りあっている。その場その場の感覚を満たすことに躍起になり、一時的な感情を満足させることだけに一日一日を費やすなら、私は魂を肉界のみに曝しているということだ。精神の存在から肉心の存在に堕ちたままでいる。イエス様の前に悪魔があらわれ、世のすべての国々とその栄華とを見せて、私を拝むならこれらのものを皆あなたにあげましょうと誘惑した。そのように、私の周りに霊が集まって取引を提案する。私は愛の枯渇した自分の魂を全ての漂う霊に曝しながら、そして霊は様々な慰めの対象を私に差し出す。私の慰みを欲望する自己愛としての執着に引き付けられて、霊達が慰めを持ち寄る。その場で取引は成立する。私は悪霊を拝み、悪霊は慰めを差し出す。毎日のありとあらゆる場面で霊との遣り取りがなされている。私の意識下に於いて、或いは目を逸らすことに慣れてしまい無意識に目を逸らして、霊との遣り取りがなされている。満たされない器を偽りの愛と偽りの霊で満たしてきた。満たすことだけに囚われて満たした内容のおぞましさには目を塞いできた。神の宮となるべき人間がおぞましい汚物の器となっている。

2010年11月7日日曜日

今日の想い 222

兄弟は世間から見れば奇異に映る。特に日本はそうだ。もっと社会に受け入れやすいスマートな外部への接触は出来なかったのだろうかと思うけれど、復帰された当時の自分を振り返ってみれば無理だとわかる。今にして思えば急な私の変わりように親は相当面食らったはずだ。親にしてみれば子の変わり様が如何にも何かに取り付かれたように思えただろう。八割がたの兄弟は親にとって素直で優しく真面目な、そのまま変わらずにいて欲しいと思える子供だったはずだ。手に負えない子が信仰をもって変わるのなら受け入れられるだろうが、変わってほしくない子が変わったことが、親に取っては受け入れられないのだ。先ず目が泳いでいたらしい。今までは同じ眼線で接触していたのが違う空を見ているようで、親の側にあった心が何処かに行ってしまって心ここにあらずという感じだったという。更に今まで生活の中で使っていない言葉が会話の中にのぞいてくるし、祈ってみたり断食までしてみたりというような行動変化も目に付き始める。親に対処する為の上からの指示事項や提案なのか、それを鵜呑みにしてしまって今までぞんざいな言葉遣いだったものを急に改めてみたり、気持ち悪いほどの親への気遣いだったり、果てには親に啓拝まで捧げて肝を冷やさせる。こちらとしては善しとしての行動が親にしてみれば余計に奇異に映っていく。原理が正しいかどうか、御父様がメシアなのかどうか、そんなことは全く関心がない。愛の拠り所だった我が子が変わっていく、肌から同じ匂いを分泌していた我が子が違う香りを放っている。それが親を初めとする家族には受け付けられなかったのだ。今私達には氏族復帰という願いが目の前にある。ここまで乖離させてしまった関係を今度は修復して繋いでいかなければならない。そんな高等な作業が今の自分にとって難しいことは解りきっている。家庭はおろか自分でさえも主管できないのに、それで出来ると思えたとしたら御父母様とみ旨に対する不遜だ。私に対する神様の御計画があり、私の家庭や子供に対する神様の御計画があるように、氏族に対しても神様の御計画があるはずだ。それを教えてもらって理解できる程の内的霊的器は私にはない。神様の御計画があることだけを信じて、私はそれから逃げ出さずにひたすら必要な精誠をそこに打ち込んでいけばいい。他に何がなせると言うものでもない。神様の御計画のなかに生きて、そのコマ送りのひとつひとつに精誠を打ち込み続けることだ。それ以外ない。少し熟慮してみれば、知恵の無かった復帰された当初の幼い行動も、それはそれで精誠条件として光を放ち、神様が取られて私の復帰に対する計画が進められたのだろう。

2010年11月5日金曜日

預言書

マヤ暦は2012年12月21日で長期暦の区切りを迎える。この時期は人類滅亡を初めとする数多くの予言が目白押しだ。御父様も天暦2013.1.13をD-DAYと定められて、マヤ暦と二ヶ月位の差はあるもののこの辺りに何かが起こるであろうことは容易に予測が付く。シベリアの凍土からマンモスが原型に近い形で発見されたことがあったが、胃の内容物には殆ど消化されていないものも認められたように、地球の突然異変によりその地で急速冷凍がなされた事実が証明されている。長い年月のスパンをもって海面上昇や地盤沈下が起こるのではなく、ある日突然人類が虚を突かれる形で大変動が起こる可能性は否定できない。新しい天と地という言葉を口にしておられるように、言葉として受け取られるそのまま、新しい地が誕生するかも知れない。EASTGARDENで語られた”平和の主人、血統の主人”は御父様の預言として語られたみ言だが、平易な言葉で語られているにも拘わらず、何十回と頁をめくっていっても読み解くことが難しい。それでも頼りない霊的感性を働かせ、言葉言葉の中から外的な起こりうる事柄に光を当てていけば、微かに浮かび上がるイメージがある。それは地軸の移動だ。それは話し言葉の中に内的霊的比喩として捉えられるような仕方で見事に織り込まれながら示されている。鍵になる箇所のひとつは地球は本来の自転とは逆周りになっており八の字を描いて本来の自転に戻されるという指摘だ。地球を覆う大洋は遠心力の影響で赤道が一番潮が高くなっている。地球を経線上に断面すれば中心点から緯度零度への半径が最長の楕円形を描いている。時計回りに戻す為に今の地軸が大揺れすれば自転と太陽、他の惑星との引力との関係で大洋は牙を剥く。2012の映画の場景が現実となっても決して不思議ではないだろう。そして次に気になる箇所はハワイに関して話された所だ。ハワイが摂理上の重要な拠点であることは兄弟誰もが知っているが、ではどうしてハワイを事の他重要視されるのだろうか。更に環太平洋時代、そして逃避城時代と言及されたこと。この意味することは何だろうか。海には資源が無尽蔵にあって海を制する者が全てを制するのはその通りだけれど、それだけだろうか。”ハワイ島が海底からは一番高く、太平洋が満水になったら残れる島はハワイしかない。” その言われ方にも含みがあるし、海底からの高さが問題になるのは大洋が揺さぶられたり赤道地域の海水が他の地域に移った時だ。”日韓トンネルを掘れば中国からハワイまで自由に陸地のように往来できる。ハワイは海洋圏北緯二十三度、南方を中心として境界線になっており、南北までも私が全て連結させハワイさえも通せばどこにもすべて行けるので、天下万国が通ることのできる道がすべて開かれる。そうなればベーリング海峡とハワイ島を中心として旅行することができる。” 陸地のように、、、とされているけれどハワイから通じる陸地にならない限り、太平洋の真ん中にある限りはこの言い方は不自然に思える。GOOGLEEARTHを見ればハワイ島からカムチャッカ半島に向けて海面には出ていないが丘陵が走っているのがわかる。この辺りが地軸移動で赤道から遠ざかれば地球の天橋立になるかも知れない。その他にも海のないネバダに触れられて、”あなたの腕(ネーパル)と私の腕(ネパル)、あなたの海(ネーバダ)と私の海(ネバダ)が一つになるので青い所が動くのです。” と話された箇所など暗示的な言い回しをされた箇所が幾つか浮かんでくる。神道系の予言にあるような地球規模のお清め、箱洗いがD-DAYを前後して起こりうるかも知れない。

2010年11月4日木曜日

冷たい過去がよぎる 2

昨日までの晴れ模様が夢の世界だったと思わせるほど、朝暗いうちに目覚めれば窓を打つ雨音の冷たい印象が内面の暖かさを奪っていく。パステルブルーの空が広がっていた世界から、冷たく重く暗いあの当時の印象に沈む私が今日という日の現実世界だ。日本での苦労と言うのは、愛を受け取ることができずに戦う苦労だ。愛されていると言われ続け、自分にもそう言い聞かせながら、それでも愛を受け取ることが出来ずに戦う苦労だ。こんなことを口にすれば信仰を疑われかねないだろう。公的な位置では決して口にしてはならない言葉のはずだ。それでも個人としての嘘偽りない気持ちとして、吐露すべきことがある。この思いを綴ることで、離れていった兄弟達の心の闇に届くものがあり、やむなく切ってしまった御父母様へ繋がる糸を再び繋ぎ合せることができると願っている。親を知らない子供を遥か遠くに持つ親がいて、それ故に親の周りに集っている子供達をそこにやりながら彼らを救おうとされる。それがどれほど困難を強い苦労をさせたとしても、それでも親は全ての子供を救う為に、周りを思い遣る余裕もなく子供を命令し押し出すしかない。近くにいる子供を存分に思い遣るためには全ての子供を救わざるを得ない。十分な愛を受け取れないまま子供が自分の感情すら封じ込めてしまっても、それでも命令しなければならない親がいる。親の想いもわからず命令するがままに動く子供を見るとき、親は何を胸に抱えるのだろうか。日本の食口であれば愛の何たるかが解らなくても、死ねと命令されれば死ぬだろう。冷たく重く暗いものを抱えながらも、それでも使命に殉ずるだろう。それを見る親は居た堪れないはずだ。御父様の日本の食口に対する想いはそうであると思う。日本の食口を想う御父様は、胸の内に痛みのくさびを深く深く喰い込ませておられる。

冷たい過去がよぎる

単純な物言いを覚えて、家々を回りながら復帰していく。少し立ち止まって考えようとすれば忽ち体は動かなくなるので、馬鹿な風も装いながら歩んだ。しかしただ装っていたつもりがいつの間にかそうなってしまったという笑えない話だ。その当時の生き残りの兄弟にたまに出会ったりするが、戦友のように肩を抱き、目頭を熱くして再会を喜ぶというより、何か顔を見合わせるのが気まずい風で、お互い目を伏せ知らなかった会わなかったことにしておこうとする空気が流れる。前線での歩みは完全な個人個人の戦いで、内的にも外的にも横の繋がりはなかった。それは私と私の班だけが特別そうだったのかも知れない。私が心を閉じたままでいたから周りが冷たく感じたのかも知れない。縦にも横にも愛で繋がれていると教わりながら、前線では愛したことも愛されたこともなかった。そこで学び訓練されたことは、愛されることで行動を起こすのではなく、愛されない位置で、そして無視された位置で意志を働かせ行動することだ。押し出されて今日の自分に強いるノルマや果たすべきことが、どうみ旨に役立ち、どう自分の成長に繋がるのか、思考する予断も許されず尻を叩かれその日の少ない結果を裁かれた。最もわかりやすい単純明快な数字結果を全てとされることで、様々に入り組んだ複雑な内的背景を問うことを否定させる。主君の影で仕える忍びのように、当時の日本食口には自分の中にも外にも冷たいものが流れていた。冷たい血が流れ冷たい空気が流れていた。堕落人間が愛と言う言葉を受けて表象するものが、偽りの愛に起因するものであるなら、愛のない位置、愛を無視された位置というマイナス位置が、私という堕落人間が復帰されるための最初に立つべき原点だったのだろう。夢見が悪いときは決まって車から降ろされる前後の、死にたいほど苦しい場面が再現され、目覚めても暫くトラウマのような鬱状態が続く。