2011年12月29日木曜日

神とサタンが見守る本当の証しの場

私達にとって真の父母は何にも代え難い。真の父母の価値をどれだけ理解し、認識しているかと問われると答えられないが、全ての財産と真の父母とどちらを選ぶかと言われれば、真の父母を選ぶ。私の生命と真の父母のどちらを選ぶかと言われても、真の父母を選ぶ。もちろん出すだけ出してきた為に財産と言えるほど持ち合わせてはいないので、前者の問いは意味を為さないかも知れないが、、。しかし全てを投げ打ってでも代え難い真の父母だという認識は、食口であれば誰でも持っているだろう。しかし口にするだけなら誰でも言えるし何とでも言える。口にしたのなら私と言う実体をしてその証しを立てない限り、私の中のサタンはいつまでも讒訴し続けるだろう。心の中に常に、本当にそうかと疑いの目で囁き続けるサタンの存在が居座っていて、黙らせることができないでいる。証しのその場で必ず化けの皮が剥がれ、やっぱりお前はサタンの子だったと手を叩いて笑い転げる場面を想像しながら、その時を待ち焦がれている存在が私の中にいる。私の中にいるその存在を黙らせ追い出させる為には、その証しの場がどうしても私にとって必要であることは否めない。ヤコブが天使と戦い命からがら勝利した、その証しの場。イエス様が十字架につけられて死を体験され、犠牲の勝利でもって復活された、その証しの場。私を中心とした霊肉の戦いの頂上決戦という関門が、私が生きて歩む途上で必ずある。その時とその場が、証しの場になるのか審判の場になるのか。それは神とサタンが見守る中で、私自身が行動して決めることだ。御父様に大きな負債を覚えている者は、その証しの場を負債の払える場として喜びで迎えるだろう。逆にそれなりの信仰を立ててきたと自負する者は、逆に審判の場になるかも知れない。後の者が先になり、先の者が後になると本当に納得できるのは、まさに証しのその場でのことかも知れない。

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