2012年8月25日土曜日

今日の想い 445

イエス様が肉体を犠牲にされて、復活したイエス様となられて使徒達に訪ねてこられたように、肉体を生死の境に留められて、内的霊的に食口ひとりひとり全てに訪ねられる御父様であられる。毎日の日課とされ、当然のように続けられた訓読会にも御父様の御姿はなく、それを伝える映像も情報も届かなくて、それでも生活は何もないかのように続いているけれども、霊的には食口は今まさしく十字架の後の落胆して散り散りになった二千年前の当時の使徒達と同じ状況にある。食口それぞれが、私に訪ねてくださる御父様を内的霊的な深みで迎えることができなければ、私は御父様との関係を祝福血統の因縁、心情の因縁として血に刻み、心情に刻んではいない、ただの外的表面的地上的なものとして受け取ったにすぎないことになる。それで本当にいいのか。それで良しとするのか。その責任はそれぞれに委ねられている。私の復活問題、霊的に生きるかどうかの問題はそれぞれの責任分担だ。御父様がどれほど訪ねてこられ、手を差し伸べようとされても、私が手を差し伸べて御手を掴むかどうかは私の責任分担だ。御父様がそこまで踏み込んで関与されることはできない。外的な御父様がいつまでも存在されることはできないので、私達は今こそ内的霊的な御父様を迎えることができなけければ、外的御父様を中心とした今の心霊に留まったままでは御父様と私の関係性を自ら切り離さざるを得なくなる。十字架に架かられるイエス様を目の前にして涙する女達を見ながら、あなた達の後孫の為に涙しなさいと言われたイエス様だ。私達は御父様に対して人間的に心配し、人間的に涙するのも勿論だけれども、御父様の願いは私達が霊的な御父様との関係に目覚めることだ。それは私達ひとりひとりが内的霊的に御父様を内在させることだ。しかし余りにも私達は幼すぎる。そうなるには心霊基準があまりにも低すぎる。幼すぎて低すぎる私達はどうしても肉体を持たれた御父様を今は必要とし、どんな犠牲を払ってでも快復をこいねがうしかない。

2012年8月24日金曜日

今日の想い 444

家族の誰かが病気で危険な状態に陥れば、どれほど心痛が大きく、寝るに寝れず食べるに食べれず生きた心地もせず、一歩を踏み出し一秒一秒に踏み入れるのにその空間の壁、時間の壁がどれほど厚く重いものかを実感する。その重みが、家族の一人に対する私の愛の重みでもある。御父様の状況を知らされて食口の誰もが心配しているだろう。精誠も供えて御快復を強く強く望んでいるだろう。しかし家族の者への想いと、御父様への想いと、比較してどうなのかを問うて見なければならない。質的に同じものだと言えるのか。或いは想いの密度がより濃いものであるのかどうか。決してこの話をして皆の想いを蔑ろにしたい訳でもないし、責めるつもりもないことは解かって戴きたい。ただそれぞれの中で、御父様に向かう情の強さを深め、父子の因縁を更に増やしたいという意志がなければ、御父様が御自身の身を文字通り削りながら差し出されているものに応えようとはしていない。家族への想いと比べてどうかという量的なものもさることながら、その質を家族感情を超えた想いに次元を上げるべきだ。身を横に伏せられて、チューブやコードに繋がれておられる御父様を直接見るのであればその感情も強まると思うかも知れないが、それは人間的な感情であり、御父様と私との父子の関係が、感情的人間的なものから心情的天的なものへと次元を上げて外的枷を外してこそ御父様の願いに応えることになる。私に取って、御父様の間近で心痛される御子女様は或る意味私の代身であられ、身を削られ痛みに侵食される御父様の心魂の、その一片を私の中に見て、それこそが私に取っての本質で、御子女様が病室で御父様に重い視線を向けられるのと等しいものであり、その内なる御父様の解放を私が担っている。様々な課題や問題が私の周りで犇めいていて、普通私はそれらに翻弄されるままになっているが、実はそれらは投射された影であって影をいくらどうこうしようとしてもどうなるものでもない。投射された影を見ながら内にある私の問題の本質を見なければならない。私の内側に御父様がおられるのがわかれば、その御父様の状況が物事として周囲に起こる投射された影に現れてくるのを見る。そうなると風を受けた草木が泣き、暗雲の空が痛みで唸る。精誠を供えようと断食でもすれば、その経過の体験の隅々に御父様の想いを見る。御父様が間近におられるどころか、私の中におられ、痛みを負われる御父様を実感してこそ統一食口だ。外的なものは内的に、内的なものはより霊的に、神秘的に受け取るべきだ。今回のことが偶発的なものでは決してなく、私達の内的霊的な本質への目覚めを促され、身をとして働きかけられる御父様であることをわかって応えるべきだ。

2012年8月23日木曜日

日本は、

日本が国として生き延びることがどれほど大切か、切実なものとして理解すればするほど向かい来る試練への舵取りを誤ってはならない。強い韓国であると同時に、強い日本でなければならない。しかし強い日本という意味と傲慢な日本とは異なり、また自己中心的な日本とも異なる。日本は日本として、天が認めて誇れる精神支柱があるはずであり、その柱をしっかりと立てて事に臨むことが大切で、怒りや投げ遣りな感情に押されて判断したり選択したりすると、国土が流れて消え去る前に国家としての存在自体が危ぶまれるだろう。尖閣でどう行動に出るかを中国から迫られ、また竹島(独島)では韓国からも迫られている。今の今、どう行動に出るとしても問題は大きくなるし、もはや棚上げできる状態でもない。国家意志として、行動理由の確固としたものを準備され持ち合わせてはいないし、政府としても国家間の棚上げの期間、問題対処を為せずに逃げるだけ逃げてきて、今袋小路の局面にまで詰められている。だから何の犠牲も払わず事が治まる状態にはない。生命をもって国を護るという気概が日本全体として消え失せてしまった今、惰眠し続けた国民が目覚める為にはある程度のショックは必要だろう。それがどの程度のもので功を為すかはわからないが、大震災でも目覚めないのであれば推して知るべしだろう。周りにいる兄弟達の意見でさえも、一方で主の国韓国に平身低頭的な者もいれば、その一方では国粋主義的な者も多くはないが存在する。一方で韓国に譲り渡せと言い、他方で自国領土を守り抜けと言う。私が思うに、前者は一体化の為に日本は消え失せても仕方がないという無責任さがあり、後者は日韓一体化への日本側からの何らの犠牲も譲歩も差出さないという自己中心さしか見いだせない。日本を希薄化させて泡とするか、日本を凝り固め過ぎてもろくするか、どちらに傾いても日本は生き延びれないだろう。み言葉を知り、御父様の摂理観を知る食口なら、そんな惰眠か酔いしれた感情を基に置くのではなく、もっと本質的な視点に立つべきだ。御父様が、日本が消え失せて本当に御意だと喜ばれるだろうか。父母として立つべきなのに、父の国が残り母の国日本が消え失せて喜ばれるはずがない。しかし日本が生き延びる為には、そして日本が再生する為には、母の国としての本分に立つことが大切だ。日本が母の国としての精神支柱を立てる為には、日本の祝福中心家庭が立つべきだ。日本が母の国としての誇りを持つことができ、威厳も備えることができ、母としての発言を世界の国が耳を傾け、主の国と夫婦の関係で一つになれる、一言で言えるものではないが、そんな新しい国家観、国家像を我々統一食口でこそ見出せるはずだし進言できるはずだ。

2012年8月20日月曜日

今日の想い 443

高齢になられた御父様の御様子を見ながらも、私達は依然X-DAYに対する実感はなかったと言っていい。しかし今回の件で、食口の多くが実感として受け取ったはずだ。御父様のお身体の心配もさることながら、その日その時が必ず来ることを実感として思い知らされ、遠くないその時、私がどうなり、教会がどうなり、摂理の方向性がどうなるのか。それを今の今詮索することは戴けないが、内的な準備は今の内に為されて決して早くはない。強いて言えば、御父様を受け入れたその時から、常に準備に余念なく歩むべきだったのだろう。今回の、医者をして危険と言わしめるほどの御自身の犠牲が何を意味しているのか。世界会長が触れられたように、先回手術された折にはイラク戦争が起こったが、今回のことと関連されて外的な意味に於いては局地的とは言えない大きな戦争のにおいを感じ取れなくもない。しかしそれをも詮索すべきではないのかも知れないが、内的霊的な意味を問うことは非常に大切だ。全ての出来事に過去の結果としての事柄があると同時に、これからの新しい目標地点へ向かう教訓と準備(を備える決意、覚悟)が含まれている。希望的ではない目標地点を見るなら悪神の業であるが、希望の目標地点を見てそこに向かう意志を供えるなら神様が働いている。今回のことを通して、その日その時が間近であるので摂理を急速に推し進めるようにという声を誰もが聞いたことだろう。要するに基元節をどう迎え、その為に何を準備すべきかだ。X-DAYを踏まえるならD-DAYをどう迎えたらいいのかと言うことだ。あと半年も残ってはいない。勿論外的には指示事項をその通りに歩むことだけれども、私達ひとりひとりが立てるべき内的な課題、内的な基準があるはずだ。それを供えることができなければ基元節を本当の意味で迎えることはできないだろう。御聖婚式のその場に参席しているとしても内的霊的に参席しているのかどうか。正しく内的霊的に再祝福を受けることができるのかどうか。今、私の中にそれに向かう内的な高まり、内的な熱を感じ取れないとするなら、基元節を迎える準備が為されていないか、当ての外れたものだと気付くべきだ。私という存在が、常に揺れ動き、どのようにも揺れ動いているX存在だという認識があって、それ故に絶対信仰、絶対服従をどうしても立てるべきだと意志を差出し続けながら、その過程で御父様の御心情の一欠けら、一欠けらを受け取っている実感がなければ、私はズレていて基元節で正しく御父様にまみえることはできない。

今日の想い 442

私がより自由を得たと言えるのは、言葉の概念を正しく受け取り、観を新しく広げた時だ。人は自分という存在について、多くを理解して生きてはいない。わからないままで生きている。わからないまま生きていれば、私は私の人生を何かに操られていることになる。操られていれば、操られているだけ私の人生は自由圏にはない。私は言葉の概念を知って積み重ねることで私の自由領域を広げることができる。間違った言葉の理解で操られていた私は何かに拘束されていて、自由か拘束かは、私が言葉の概念を正しく受け取っているかどうかによっている。第一祝福の個性完成は愛に於ける完全自由人を指して言う言葉だろう。愛に関して自他の壁がなく、私を愛するように他も愛する。それは神様との壁もなく、神様は私を愛し私は神様を愛する。真の愛という言葉の概念を正しく受け取り、私が第二の神様の位置で愛の主管主の位置に立つ。それが愛に於ける完全自由人だ。人間は堕落して無知に陥った。内的無知であり外的無知だ。愛の何たるかを知らずに、偽りの愛が私の存在の動機であり出発点になってしまった。御父様が平和の主人、血統の主人のみ言葉で語られているように、私達は習慣性を中心として生きている。昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日だと、習慣性を中心として思っている。一秒で転換しているという事実がわからない。時間概念、空間概念が御父様のそれとは異なるということだろう。習慣性を中心として生きているように、(真の)愛から始まって全ての言葉の正しい概念を受け取れず、霊的な意味で言葉のひとつひとつを受け取れない。言葉は霊的なものだけれども地上的唯物的なものとしてしか受け取っていない。だから訓読会で御父様が語られる意味が殆どわかっていない。世間的に理解している東西南北と、御父様が口にされる東西南北とは異なる。世間的に理解している数と、御父様が口にされる数とは異なる。御父様は言葉を霊的な正しい概念で語っておられ、私達が御父様の言葉を理解する為には、言葉の地上的意味という枷を外して、霊的見地に立たないと理解できない。霊的言葉として、言葉の概念を正しく受け取り、私の自由領域を広げることが歓びだ。

2012年8月17日金曜日

今日の想い 441

たまに断食でもすると一日が随分と長い。人間は精神存在であることは確かなはずだが、食を断って長い一日を過すと、本来生きるために食べていたはずが、正直なところ自分は食べるために生きてきたのだとつくづく思わされる。食べ物が恋しいと体全体が私に訴えかけてくる。御父様が大変なこんな状況であっても、弱い自分、自己中心の自分が顔をもたげてしまう。不謹慎だと言われてもどうにも仕方がない。しかし堕落の私はそこからが出発点だ。堕落の私は戦うことを通してしか精誠を供えることはできない。傷一つない真っ白な精誠を備えたいと思うけれども、醜い私も曝け出し、心と体の戦いも曝け出して、その中から精誠を見つけてもらい拾い出してもらうしかない。それを精誠と言えるのかどうかも分からないし、御父様にとって目を背けてしまわれるものなのかも分からない。でも私は精誠の意味をそれしか知らない。だから吐き捨てられるとしても、そうであっても御捧げしたい。だから戦いから逃げるつもりはない。喰いついて、しがみついて、どこまでも掴んだ手は放さない。相手の根気負けだけが私の唯一の戦法だ。戦いの過程で涙は流れるだろうか。汗は流れるだろうか。もし涙が、汗が、私から流れるなら、精誠として受け取ってもらえるのかも知れない。一食ぬいて、二食目をぬいて、始めたばかりの断食で弱い私は既に戦いの只中にいる。思いもよらない不純な発想が、私の内側の深みから醜い面(つら)をもたげてくる。

2012年8月16日木曜日

今日の想い 440

私達は経験したこと以上の言葉に対する意味を持ち合わせてはいない。親に対して経験したこと、親となって経験したこと、親という意味はその自分の経験以上の親の意味を私は持ち合わせてはいない。だから人それぞれに親の意味は異なっていて、私の親に対する想いと、あなたの親に対する想いとは違う。真の父母だと説明されても、親の意味がそれぞれに異なり、本来の親としての理解から誰もが遠く離れているなら、御父様に向かう想いは未だ本物ではないだろう。私の中にも少なからず距離がある。敢えて言葉にしたくはないけれど、御父様から距離を置いて、冷めた私が事実としてここにいる。しかしそうであっても、私は御父様こそ私の本当の親であることを知っている。親以上の親であることを知っている。私の為に全てを与えられる。私の為に全てを犠牲にされる。私を想って自分以上に心配され、私の為に涙もひとしきり流される。私をどのようにでも救おうとされ、常に自分の側にいて欲しいと思われている。それがありえない幻想であり、私の思い込みへの陶酔に過ぎないと言うなら、真の父母という言葉は私には用意されていないことになる。誰よりも、敢えて言うなら御子女様に対するよりも、私を子として想っておられる御父様でこそ、真の父母という言葉が存在する。御父様は人類全てを想って誰よりも涙を流され、誰よりも苦労され、そして誰よりも悲哀を覚えられ、だから誰に対しても、自分はこんなに苦労した、こんなに悲惨だったという訴えに対する親としての言葉を用意しておられる。親は子の為に、子供以上の悲惨な立場を担おうとされる。だから御父様は人類の親として、敢えて誰よりも悲惨な道を歩まれることを意志されたとも言える。御父様は今集中治療室におられる。その御歳で精神的にも肉体的にも酷使されれば、そうなることはわかっておられたはずだ。しかしそれでも真の親は真の親としての歩みを止められる事はない。私達は御父様の生き様の一部始終を目に焼き付け、身を持って真の親の意味を教えようとされる御父様を私の魂に刻みこむ。私がどれほど御父様から距離を置いているとしても、御父様は子としての私という存在を常に間近に感じておられるはずだ。しかし私は、、、感情をどこかに置き忘れたままなのか、何をするでもなくこの位置に佇んだままでいる。報せを受けながら、何も出来ずにただ佇んでいる。

2012年8月15日水曜日

意識を考える

私達の認識の多くは自体自覚による意識から来ている。もし私が他体自覚に立つならその認識は自体自覚の認識とは異なるものだろう。意識が悟性と感性を働かせて認識に至る、即ち意識が正であり、悟性感性に分かれ、認識という合成を得る。意識が自体自覚的なものであるなら、分かれる悟性感性も自体自覚的であり、合成体としての認識も自体自覚的な認識となる。他体自覚的な意識が私の中にあるのかと問えば、絶対信仰、絶対服従の位置で意志するものは他体自覚的であり、私の中で意志されない意志、すなわち習慣的惰性的な考え、感情、行動はすべて自体自覚的だ。要するに自体自覚は私の心魂に染みついていて離れることはないし、他体自覚的意識の種はあるはずだが芽が出ていないので確認のしようがない。私が他体自覚的意識を取り戻す為には、安寧な心魂に荒波が、時化が、津波が、何度も何度も押し寄せなければならないだろう。御父様への帰依故に、み旨故に、何度も何度も辛酸を舐め、悲痛な心も苦労も味わわなければ他体自覚の意識の芽は生えてはこないだろう。確かに他体自覚は為にある存在としての自覚ではあるが、心魂に染み込んで既に私という存在そのものが自体自覚的であるので、自己中心を改めて他の為に生きればよいと言うような単純なものではない。この血の全てを抜き取り、この心魂を抹殺させて、新しい本然の血を流しこみ、新しい心魂を戴くと言えるような、私の全てが奪われ最後には生命さえも捨てられる路程を通過してこそ自体から他体へと意識改革が為せる。

2012年8月14日火曜日

今日の想い 439

絶対性と言われることに対して、私達は与えられた主体相対への貞操を誓い、浮気や離婚をすることもなく生涯、いや永遠の伴侶として添い遂げることを意味していると思っている。しかしそうであるなら御父様自身についてはどうなのかと言うことになる。御父様は今の御母様が最初ではないし、今の御母様になられてからも別の関係による御子様もおられる。御父様が再臨のメシヤではないという反対派の多くは、その言動の不一致を大きな理由として反対している。御父様を認める私達の多くも、事実を知らないか敢えて知ろうとはしない食口もおり、或いは知っていてもメシヤだから何でもアリだと自分や周りに言い聞かせている食口もおり、或いは未だ知らされない摂理的事柄があってのことで、事更に踏み込むべきではないと思っている食口もいて様々だ。以前、内情を全て知っている御家庭の内側におられた方の本が店頭に並んだことがあるが、そこに書かれている内容を事実か否か判断するのは読み手に委ねられるとしても、御父様の口から直接聞いてしまえば無視することも否定することもできない。私は直接聞いた以上、その事実をどう私は捉えるべきなのかという試練を受けることになった。勿論メシヤに対する私の悟性理解で御父様を受け入れている訳ではないので、どんな事実を突き付けられても、私の中では御父様が真の父母であることに変わりはないのだが、そうではなくて私の絶対性への認識が本当に正しいのかどうかを問わざるを得なくなったと言うことだ。タマルの行動、またマリアの行動を道徳的観点から見るなら首を傾げざるを得ないが(絶対性からも反するが)、イエス様の誕生に必要不可欠の行動であることは食口なら認めるはずで、御父様の行動に対しても道徳的観点からは否定されても摂理的に必要不可欠なものがあるはずだという見地には立てる。生殖器をして堕落したその復帰摂理上、胎を含む生殖器をしてサタンから奪い返さざるを得ない。祝福家庭を考えるときに、祝福家庭にもそれぞれいろんな事情があって、本人は絶対性を立てても夫婦として絶対性を立てることができずにいる家庭もある。そうなると絶対性が裁きとなる。真の父母である御父様御自身も問われ(裁かれ)、どうすることもできないそう言った祝福家庭も問われる(裁かれる)絶対性なのかどうか。御子女様の中には離婚しておられる方もおられるのであり、そこにも問われる絶対性なのかどうか。私達の殆どの認識は自体自覚の意識によるものであって、私達の絶対性の認識も自体自覚的な認識を超えていないのかも知れない。確かに、私自身も相対も内的霊的に堕落的なもの全てから決別している訳ではないのに、イメージとして捉えている絶対性を宛がえただけで、御父様の前で絶対性に生きていますとはとても言えないだろう。ただ絶対性について私がひとつ確信できることは、絶対性を規律として、或いは裁きとして示されたのではなくて、御父母様の勝利の上で絶対性を祝福として、恩恵として与えて下さったと言うことだ。そうであるなら復帰摂理上、メシヤとして真の父母としての宿命上、タマルやマリヤのようにサタンから奪い返す為にそういう経路も辿らざるを得なかった御父様であるけれども、勝利された今、私達はサタンに讒訴されずに絶対性に生きることができるという恩恵という意味で、絶対性を受け取れる。

2012年8月10日金曜日

今日の想い 438

御父様は目を開けて眠る訓練をされたと話されている。人間は眠る時、心魂は肉体から離れて霊界の境界を超えて存在し、生きて心魂活動をする為の霊的要素を受け取っているが、眠る時は意識を外されているので認識されない。無意識の状態で霊界に存在している。しかし、御父様が言われる目を開けて眠る訓練とは、意識をもったまま霊肉の境界を超えて霊界に入っていく訳だ。意識的であるから霊界が認識され、霊界事情がわかる。前にも記したように、普通の人間は意識的に霊界を体験することは危険であるので、眠って無意識状態にあるのは現代人に取っては私自身を護るために大切な事だ。霊界に意識的に参入できるのはそれなりの精神的柱が立った者であり、予定もされ準備もされた者だと言える。昔の見霊者は数日間の仮死状態を経験させられて霊通人となることができたが、地上での生活に支障を来すために内外の支えを必要とし、彼らはそれなりの尊敬と位置を与えられていたから可能でもあったが、現代では気が振れているとして精神病扱いだろう。御父様の精神力、霊的主管力は並はずれていて、その素養はあったものの私達の想像を超える訓練、試練によって鍛えられたものであることは十分察知できる。御父様は人も状況も未来も見通される御方だろうかという低い次元で見霊力、霊通力を問題にして、それがないからメシヤではないとか、メシヤだけれども周りの者達に騙されているとか、そのような見方は霊も霊界についても完全に誤解しているし、御父様への偏見をさらに助長させている。外界を対象と見るような同じ対し方を霊界にもしているから、霊の本質、霊界の実態はいつまで経っても自分の中で明らかにはならない。私を中心とすれば外界は五感で感知する対象であるけれども、私の狭い内界で、狭い内的感性は幾らか備わってはいるとしても、霊界においては私は中心位置に立てない対象であって、霊的感性は中心位置にある主体とひとつになることで受け取れる感性であり、私が御父様の完全対象となれば霊的感性は既に備わってしまう。難しいが簡単な言い方にすると、地上では内なる私が外を見、霊界では外なる私を(御父様の目で)見ている。み言葉にあるように私達は霊界を背負って生きているのであり、リバーシブルの服のように内面に培ったものが霊界に行くと霊界の環境圏になる。無意識の意識化という言葉を誰かが使ったが、堕落によって愛の完成を見ずに自己自覚(意識)を備えたから、無意識圏にある真の愛の世界、膨大な霊界に踏み込めないし、自己自覚という鏡の役目を果たせない鏡でしか自分も世界も映せない。

意識構造

霊界に関しては様々なみ言葉があるが、私達の意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だ、と説明されるみ言葉は、科学的論理的な思考人間に取って霊界への関心を誘い、霊界の認識を開くことができると示唆されている。しかし思考人間もどこまでも突き詰めて思考する者は少なく、簡単な例を言えば、分子は原子から、原子は素粒子からと学んだことをそのまま鵜呑みにして、鵜呑みにした事実とされる事柄を何の疑いもなく基底に置いて思考を構築していく。進化論もそうだし、宇宙の起源の説明でも同じことだ。鵜呑みにしたものは本人に取っては非常に抽象的であり曖昧なものだが、そこにメスを入れようとする本当の科学的論理的思考人間は殆どいない。ビッグバン理論を多くの者は受け入れているようだが、ではビッグバンがどうして起こったのか、その原因(起源)は解かっていない。宇宙形成の経過で、宇宙の霧が発生して霧が掻き混ぜられて今の太陽系銀河系ができたとするなら、宇宙の霧はどうして発生したのか、掻き混ぜた存在は何なのかと言った問いが出てくるが、そこまで深く掘り下げようとはしない。私達の通常意識の中に、抽象的で曖昧であって良しとされるものが既に組み込まれてしまっている。ようするに意識を問うのではなく、意識を組み立てている構造を問わなければならない。私達は神様を信じ霊界を信じているけれども、その認識をもたらした私達の意識は通常の意識構造と変わらない。しかし霊界への本当の認識を処理できる可能圏には、通常の意識構造による意識では入って行けない。私達の意識と御父様の意識とはその構造が違うことをはっきり知らなければならない。御父様と同じ意識構造で始めて正しく霊界が認識されるのであり、通常の意識で霊を見ただとか、啓示が降りただとかと言うのは、それをそのまま霊界の事実として捉えるのは間違いであり危険でもある。私達がこの、意識ではなく意識構造に手をつけようとする為には、意識を超えた神秘的領域(宗教的領域)に入っていかなければならない。意識が何かと問うなら、世界を移す鏡が意識だと私は思っている。外的世界を映す鏡であり、内的世界を映す鏡だ。外的世界に関して言えばその形状や色彩、触感や香り、音やリズムといった五感で受け取れるもののみを映しているけれども、それらの外的表象の背後にある霊的本質を映せない鏡であり、内的世界に関して言えば私の心魂の活動、思考や感情や意志衝動といったものは映すけれども、その心魂活動の背後にある霊的本質を映せない鏡だ。外的世界の背後に存在する霊的本質、内的世界の深みに働く霊的本質、そこに踏み込める意識構造とは、見えない本質の正体をつかもうとする断固とした意志を備えた意識だと私は思っている。断固とした意志は、見えない本質が存在すると信じる信仰が問われ、その信仰をもってして諦めずに求め続けると、或る時、目が開く瞬間が現れる。メシヤは意識に於いても革命をもたらす。意識革命に於いても信仰基台、実体基台が必要で、それが備わるとメシヤを迎えて意識革命がもたらされる。

2012年8月7日火曜日

子女に悩む親のひとりとして

み言葉を知りみ旨を受けた立場で、親となり子に対する時に、向かうべき方向性を子に指し示してそれから大きくずれなければ差ほど心労も少ないのだろうが、私の現実は理想家庭からはかけ離れていて、正直受け止めることが難しい。いつかは心を開いてくれる、わかってくれると信じてここまで希望を繋いできた。その兆しでも見えれば少しは安堵の吐息もつけるのだろうけれど、願いと現実の狭間でその余りにもギャップのある両方を支え持つのは息も出来ないほど苦しい。一方を捨ててどちらかにおもねることができればどれ程楽になるだろうと何度思ったことか。しかしみ言葉を否定しみ旨を捨てることができるはずもなく、勿論一方で子供を捨てることができるはずもない。私のような食口がどれほどいるかはわからないが、二世として祝福を受ける数字を見る限り、かなりの祝福家庭が同じ状況にあると思う。親の責任であることは重々承知だけれども、親がどれほど十字架を背負うとしても、現実が手のひらを返したように変わる訳でもない。一世である私はみ旨の道に向かう為にかつて親から離れ、二世である子供は今教会から離れる為に親から離れようとする。辻褄を合せるかのようなその反動的状況では新たな信仰観がどうしても必要になってくる。旧態の信仰観では行き着く先は裁きしか残らないだろう。子の親に対する裁き、責任を果たせない祝福家庭の親としてレッテルを貼られる裁き、或いはこんなに頑張ったのにという神様への裁き、更に周りの兄弟達の視線を裁きのようにも感じてしまうだろう。そこに愛はないし赦しもない。愛として差し出されたものでさえ裁きに受け取ってしまうかも知れない卑屈な状況だ。でもそこにも、愛は浸透されるはずだし赦しも訪ねてくる。そうなるだろうかと不安に思うのは私も同じだが、真の愛の必然としてそうならざるを得ない。殺人鬼をも祝福された御父様だ。最後の最後にそのカードを出して赦しを求めれば御父様も赦さざるを得ない。だからどんな状態であれ赦しは確約され最終的に親子として天国に共に入っていく。しかし問題は今の私の観念、信仰観だ。過去の信仰観と決別し、真の愛と言えるに相応しい信仰観と愛する意志としての実体的歩みを求められている。過去は、愛と言いながら条件的であり、赦しと言いながら律法的だった。教会がそうだと言うのではなく私の意識がそうだった。数字を達成すれば認められ、形だけ整えれば良しとされると思った。しかし子供に真摯に向き合えば愛の実質を問われ、赦し赦されることの痛みも覚える。私達の財産はどれだけ愛の為に涙を流したかであり、愛の切なさを味わったかだ、というみ言葉は、私は思うようにならない自分の子を前に置いた今でこそ実践していることになる。涙が絶えず、切なさで胸が痛い。或る意味、子供が思うようにならないからこそ愛が愛として成り立つ。子供は親の思うようにはならない役目を、家庭に愛を湧き出させ満たせる為に務めているとも言える。これが私の真の愛への道なのだろう。

講演に参加して 2

宗教者らしい、或いは信仰者らしいという独自的なイメージを個としても全体としても持っていて、そのイメージが壊される発言がなされると途端に感情の反発が起こり、そしてその反発心から発言に対する異議としての論理を構成する。今回の理事長の講演ツアーは宗教講演ではないだろう。現実として社会に起こっている事実を原理的裏付けをもって説明され、我々がイメージしている平和理想世界に如何に巧妙にサタンが関与しているかを指し示された。福祉政策も善の繁殖として用いられる場合、それは良しとされるだろうけれど、現実として悪の繁殖のツールとして働いている現状では現民主社会の行政府にサタンが関与していることになる。今回の講演を受けて、平和理想に関するみ言葉が反故になる訳でもないし、直ぐにも銃剣を手にする訳でもない。単細胞の集まりだと食口達を思っているから頭ごなしに反発してくる。確かに平和軍、平和警察として具体的に武器を手にする状況も将来的には有り得ることはその通りだとしても、だからと言って単細胞の集まりのように、何の思考も働かせず全体主義的に動いて行くはずはない。表題は強い韓国だけれども、そのセンセーショナルな表題で大きく関心を引きながら、奪われている自由を復帰することが命題となっている。取りようによっては部分部分を切り取ることでどのようにでも反発できるだろうが、おそらく反発心や異議も十分予想しての発言のはずだ。しかし御父母様が勝利された内的霊的な基盤があればこそ、今でこそ社会にまで下ろした位置で組織としてこう言う声を上げることができる。銃剣を溶かしてすきやくわに変える時だと言われて、その言葉通りにすきやくわを作る者はいないように、銃剣そのものが完全悪でなくすべきだと言われていると捉える者も少ないだろう。武器をなくしても人間身体として拳でも蹴りでも十分武器になる。愛を、ただ右の頬を打たれれば左の頬も差出し的な捉え方だけに留めたり、平和を、全ての武器と言う武器が地上から消え失せた世界と捉えたりと言うのは、具体的な形にすればするほど愛の幻想であり平和の幻想に近い。

2012年8月6日月曜日

今日の想い 437

こんなつもりではなかった、と思う。事ある毎に現実を直視させられ、逃げ場のない感情に溺れながら、こんなつもりではなかったと思う。神様から与えられるであろう期待が裏切られたと取るのか、あるいは逆に神様に捧げなければならない私への期待を裏切ってしまったと受け取るのか、おそらく私の寂しくも惨めな感情は、貰えるはずだと思っている前者としての受け身的な私だろう。しかし、後者の位置に立たなければ私は私の中で神様から見捨てられた者として完結させてしまう。内面において失敗の烙印を私自身がおした形になる。逃げ場のない感情に溺れそうになり、どうにも、顔を落とし視線を落として崩れ折れそうになる時、その時こそ私はサタンに試されている。感情において試されている。御父様の心情に繋がる魂の糸がしっかり絆として結ばれているのか、或いは糸の切れた凧のように個人的感情に翻弄されるのか、両者のはざ間で試されている。個人的な感情を主管し、どれほど愛の減少感、やるせない思い、泣き喚きたい衝動に駆られるとしても、私は御父様の息子であることを自らに断言して言い聞かせ、辛くてもしんどくても顔を上げ、空を仰ぎ、背筋を反らして、先ず一歩を踏み出す。そして敢えて天に向かってこう言う。御父様、どうぞ私を見ていてください。他人の目にどう映るか気にすることはない。他人の心ない言葉に左右される必要もない。こういう時こそ私は私だ。私には私の通過すべき心情地点があって、他人から見れば回り道らしい道を歩んでいる。もし過去を教訓とするのではなく過去に引き摺られて感情の海を時化(しけ)さすなら、それは悪神の業だ。善神は過去を材料に感情を弄ぶことはしない。ひたすら今の現状を明日の希望に繋げる為に働きかける。この世に生まれ落ちて、あらゆる寂しい境遇を渡り歩くとしても、寂しさを食べ続ける使命を帯びて生まれた以上、その使命に殉じることが天の願いでもあり、私の本質もそう願って生きているはずだ。こんなつもりではなかったと表面的には思えても、実はこんなつもりだった。さらにどんなに悲惨な人生でも、そうであればあるほど御父様の心情圏に近いはずだ。御父様ほど悲惨な人生を歩まれた方はいないだろう。私達はその意味で苦労が感謝であり、苦労が歓びだ。苦しい思いを甘受しながら、重いものを背負いながら、私は常に御父様と共にあるという誇りで生きている。誇りで生きれば精神が立つ。

2012年8月3日金曜日

講演に参加して

私達がイメージする理想世界から本来願われる理想世界のイメージに向かうように、認識の方向性を示されたのが今回のSTRONG KOREA、STRONG ABELの講演ツアーだと私は思った。蒸し暑かった一日を終えて開演時間に合わせて家を出たが、会場に着いた頃は、夕方からの風が湿った大気を追いやったようで、気温は下がって過し易くなっていた。正直に言うと、長い間ワシントンに居ながら、TIMESの建物の中に入ったのは初めてだった。ボールルームは600~700人くらいの容量だと目算したが、用意された席は全て満たされ講演者を迎えた。アメリカ人受けのいい、理事長独特の落ち着きと説得力で会場は主管された。無理に粉飾された演出もなく、質素ではあるが知的な雰囲気に包まれ、一時間に凝縮された深い内容を力説された。お話の中でもっともユニークだと思われたのは、御父様が神様の位置であり、人類の半分がアダムの位置そして残り半分がエバの位置であるから、歴史の必然として天使長がいなければならないが、それが民主主義政府だと話される。確かに行政に与る者をPUBRIC SERVANTとは言う。天使長は僕の位置であるから確かに言い得ていて、そうであるなら国に扶養援助を受けている多くの食口達は知らないうちに天使長の助けを得ていると言うことになるだろう。自由であるべき私達は、生活扶助や年金、社会福祉サービスそして法と警察権力による保護を行政府から受けながら、無意識のうちに飼い殺し状態に慣らされてしまって、自由であると信じ込まされているだけであって本来の自由を受け取れずにいる。与えられるままを受けて喜び、飼い殺し状態にある民主社会に比べて、理想的社会、理想的国家とは、受身的立場ではなく能動的立場で自由に立つ社会、国家だろう。自由に立つとは競争できる社会環境でもあるはずで、自由社会で善の競争を為していくべきだ。それでこそ自由意志を発揮した能動的人生に違いない。それを思うと、私は祝福を受けた、私は祝福家庭だと思っているだけで安心している受身的意識も、民主社会で受身的に与えられるものを受け取って喜んでいる意識と同じだろう。個性完成への競争、(子女)伝道や善の繁殖への競争、質的にも量的にもより万物を主管していく競争、それでこそ、祝福を受けたことだけで満足するのではなく、見せる実績や私という実体を通して祝福を証し出来るはずだ。祝福を受けた時点で満足したままでは、三大祝福は受け取れない。

2012年8月2日木曜日

再創世

始めに神は天と地とを創造された。地はかたちなく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神様の霊肉のからだと言う天と地の創造の起点が創世記の1章1節2節にある。2節の部分を原文でみると、エロヒム(神々)の霊が水の上で抱卵していたというイメージになっている。鶏が卵を抱えて孵化させるように、神霊存在達が霊の熱で暖めながら水の要素が土の要素になるのを待っている。私達人間の中に欲望があってそれを私自身の熱と感じられるように、神様の創造欲望という熱が創造の根源にある。その神様が欲する想い描く表象の実体化のゴールが人間だ。私達がある欲望を抱えてそれを現実化させるとき、そのプロセスをよくよく観察してみるとわかるように、願いが大きければ大きいほど、欲望を強くする為に熱を混入し続けなければならない。熱を混入させて想いを募らせ、煮え滾ってくるとそこに願いの実現へのアイデアや突破口が閃きとして起こる。そしてその閃きは電光が放たれるように天から与えられる。それと同じように、闇の中で霊の熱で煮え滾り、霊的沸点を超えるようになると天から光が放たれる。神は光あれと言われた。ここで理解すべきなのは熱状態の夜が天地創造の前段階にあって、夜の中から進化したものが既に前段階で光になっている。光に進化できなかったものは闇となっている。夜と闇とをはっきり分けて理解しないといけない。さらに地上的感覚的な光ではなく心魂的な光であり、夜も闇も心魂的なものとして霊的感覚で理解できるものであって、それを理解できないと天地創造のイメージには辿り着けない。闇に光が放たれて、ロゴス(精神)が、形態が、リズム(生命)が、受肉できる熱元素の気体化、液体化、固体化と共に実体となって表象されていく。その全ての存在様相に性相と形状、陽性と陰性の二性性相の原理原則が働いているのは言うまでもない。私達食口が理解すべきなのは、神様が天地創造を為されたように、真の御父様は天地の再創造、人類の再創造を摂理をして為されていると言うことだ。真の父母による再創世が為され、真の父母の再創世記が後に記述されるだろう。天地人真の御父母様は神様の位置で真の愛の光を放たれ、真の愛が、真の血統が、真の生命が、私達の霊的なものを中心として気体的なものから液体的なものへ、液体的なものから個体的なものへと孵化するように受肉していく。私の人格完成への想いの中に、家庭を一つにしたい想いの中に、国を求める想いの中に、溢れる熱として神様が息衝いている。