2013年4月28日日曜日

今日の想い 559

永生という概念は生命から来るものではない。この生命が永遠でありたいと思っても、現実人間は死ぬし、この私という生命は付き果てる。人間の永遠の生命への憧れという感情は、儚くも付き果ててしまう。多数の食口の大きな誤解は、霊界という場所に永遠の生命があるものと期待している。場所を移しての生命という観念でもって、その観念は地上生命の延長線でしかなく、はっきり言ってそんなものは霊界にはない。事実として認識すべきは永遠の生命はないのであり、生命は果てるものであり、霊界は生命の延長ではない。霊界に地上的感覚の永遠の生命はない。それでは永生という概念はどこからくるか。それは神様の対象的愛の位置に立ち、真の愛を受け取れば、永生が属性として備わる。よって限りある生命を生きているうちに、神様の対象的位置で真の愛圏内に生きることを学び、そうすることで真の愛としての属性、永生が備わる。原理で学んだ霊界という事実が、どういう訳か死という不安の払拭材料としての認識に留まり、より為に生きて真の愛圏内に生きようという意志が発動されるに及ばない。真の愛圏内に生きるとは、それを敢えて地上的感覚で表現するなら、生命細胞のひとつひとつを愛の細胞に変える、感覚器官を真の愛の器官に変える、更にこの生殖器を中心としたエロス肉欲感覚器官を真の愛の器官に変える、この肉体が真の愛の身体として透き通り光輝き、重力からの支配を脱する身体に変える、そういう地上的表現なら真の愛圏内に生きるという意味から当たらずとも遠からずの意味合いになるだろう。祝福家庭と一般家庭の違いを理屈では説明できるとしても、その違いを具現化させているかというと、昔は馬鹿がつくほど希望的であったり献身的であったりした食口達も、家庭となると一般家庭との違いを証しできるに至っていない。氏族圏の為の家庭、国の為の家庭としての家庭の希望、家庭の献身が差し出されない。個として御父様の願いに殉ずることを決意した食口は少なからずいるけれども、真の家庭として具体的に犠牲を供えてきた内容を、自分の家庭にも受け入れる決意もあり、事実犠牲を供えていると断言できる祝福家庭がどれだけいるだろうか。真の愛圏内に生きるということがどれ程大変な事か。しかし私達にはその道が残されている。教会雑誌に見る家庭団欒の挿絵は、幼い食口に向けての家庭が大切だという教育材料にはなり得ても、御父様がみ旨の為に御家庭を犠牲にされてこられた、その御家庭の生々しい傷を今も曝け出しておられるのとは不釣り合いで、その「為に生きる」家庭の在り様を自分の家庭に受け入れてでもという決意にはなり得ない。個は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は、、、というのが真の愛なら、家庭第一主義に固執するならそれはみ意ではないだろう。真の愛の道を前進し続けるなら、個が犠牲となり、家庭が犠牲となり、氏族が犠牲となり、民族が犠牲となり、国が犠牲となるのであり、家庭に留まり家庭の犠牲を拒むなら、真の愛の道を前進し続けているとは言えない。

2013年4月26日金曜日

店について

レストランという形態を取って活動しているけれども、この出発点の起源は何処か。それは御父様であることは間違いない。御父様が起源であり、御父様の願いに沿って資金と人材が投入され、それは形だけの投入ではなく精誠が投入されていることをしっかりと見なければならない。御父様の願いというけれども軽いものではなく重い御父様の祈りが投入され、そしてその祈りに動員されて皆の尊い精誠が資金と人材という形で投入されている。今日まで営業を続けてきた根底には祈りと精誠が脈々と流れ続けて来たのであり、御父様が聖和された今でも、いや、御父様が聖和されたからこそ尚一層、マグマの如くの祈りと精誠の、統一家の想いのグラグラ煮えて爆発噴火する衝動を、知って悟って感じて形に変えていくべきだ。従業員の中には食口と呼ばれる従業員も数人いる。彼らがどれ程の、そういった店としての内的霊的生命を感じ取っているかはよくわからない。おそらく教会の息のかかった店だという認識はあっても、それは雇用の入り口にしかすぎず、それ程の重いものを背負って働いてはいないだろう。教会活動とこのレストランで働くことは彼らの中で別個に捉えられていて、教会は信仰と結び付きレストランは生活と結びついて、働くことに信仰は介入されない。頭と表面的気分ではみ言葉を受け入れてはいるが、心魂の深みには依然と唯物的なものがしっかりと息衝いていて、そこにメスを入れようとはしない。ある面、教会と全く関係のない働き口を見つけて厳しい環境の中に入る方が、心魂の深みを掻きまわし自分の本質を抉り出すという意味で本当の信仰に目覚め、本当のみ言葉の価値に出会い、御父様との本質的な関係が持てるだろう。私はいつも悩んでいる。そういう動機で彼らを出すことに何のわだかまりもないし用意はできているが、おそらく彼らは理解できず、甘受できず、恨みにさえ思うだろうし、もし外で働く気概もなくなっていて家庭に波でも立てるなら尚更だろう。店としても、私を含めたそれぞれの従業員も、痛みを伴った大きな転換点に立っている。

2013年4月23日火曜日

花々の咲く時期に

陽は既に高く上っている。外に出てみると、車のボンネットの上やフロントガラスが黄色い。運転席につくと見通しが悪く、洗浄ワイパーをかけてやっと黄色い覆いを払いのけた。花粉の季節だ。そして花の季節だ。花という花が咲き乱れて花粉が舞い上がる。光が煌きこぼれる大空に向かって、全ての花が咲き競う。植物は人間とは逆だ。頭である根を下にして地中に埋め、性器である花が上部にあって天に向かって開く。本当は植物の方が真っ当な姿で、人間が逆になっているのかも知れない。花である植物の性器は見るに美しく芳香を放っている。何の恥じらいもなく色とりどりの性器を開いて誇っている。人間のそれが美しいかどうかは敢えて論じない。秘すれば花と言うに留めておく。しかし人間の性器を蛇の頭であり蛇の口だと言われれば納得する。アダムとエバは性の器官で堕落した。御父様はエバが上に乗ったと言及されたことがある。天地無用であるべきエバが天に向かって開かず地に対して開き、蛇の頭を宛がった。自我の目覚め、霊の目覚めの頃のエバと蛇の誘惑が同時期だったように、思春期と性の発育は同時期だ。そして春の季節は閉ざしていた心魂が開いてきて霊が働きかけ、新たな発想、新たな感情を受け取る。しかし受け取る発想や感情は、地の霊に対するものもあるし天の神霊に対するものもある。神霊に対するものを受け取る開拓者はイエス様であったし、だから春の訪れと復活祭は同時期だ。エバが先ず霊的に堕落したという意味を深く尋ねるべきだ。霊的に堕落し肉的に堕落した順番はその通りだとしても、霊的無知であり霊的な認識のない私達は、霊的なものも肉的なイメージで捉えてしまう。エバが霊的堕落にどう関わったか、、。そこにエバの自由意志の関わりを見るべきだ。あらゆる情報はルーシェルから与えられているけれど、意志はエバが立てる。どう発想するか、どう感情するかは私の意志がその選択をしている。私達は未だ自分の環境を堕落圏に置いている。私達は無意識のうちにこの社会環境から誘惑されている。そして霊的に堕落している。自分は間違いを犯していないと言い張っても、しかし無意識のうちに霊的に堕落している。私が環境に対してどう意志するか、実はその選択が霊的堕落と密接で、私の結果的なみ旨に対する失敗の墓標は、意志を地に開いてしまい、天に対して開けなかった、すなわち天から来る神霊を受けて受胎できなかった霊的堕落によるものだ。私の肉体の性器は下にあるけれども、神霊、ロゴスとして受け取る内的霊的器官は常に天に向けて開くべきだ。色とりどりの花が大空に向かって花開いているように、私の色とりどりの慕う想いも、花々に負けず天に向けて花開く。

2013年4月22日月曜日

今日の想い 558

私は今、道半ばで立ち止まっている。そしてこの道の先に何を期待して選んだ道なのか、思い起こしている。私は安住の場所を求めてこの道を選んだのだろうか。確かに今、道半ばでありながら、道の先を見ずに周りに目をやり、腰掛けて安住できる場所を探している。しかし我に返って尋ねれば、それがこの道を選んだ目的ではないと内から声がする。決して安住の場所でもなければ、景色の良い風景を期待した訳でもない。安らぎや慰めはどうだろうか。信頼はどうだろうか。確かに期待したもののひとつではあるかも知れないが、それがこの道を選んだ決定的なものではない。ではそれは愛だろうか。愛を求めてこの道を選び、この道の先に愛を期待しているのだろうか。愛とは与えることだと言われ続けているのに、そうであるならどうして愛を求めてこの道を歩み続けるのだろうか。来た道を振り返ってみても、愛として受け取ったものは見当たらない。いつも阻害され、否定され、けしかけられ、追求され、そして押し出されてきた。それらが愛だと自分を言いくるめても、果たして納得できるだろうか。おそらくみ言葉には愛という言葉が最も溢れていて、この道に愛が関わるものであることは理解できても、誰も我先にとこの道を突進しないところを見ると、私が思い描いた愛とは別物の愛が関わっているはずだ。私が思い描いた愛でなければ、別物の愛、それを御父様は真の愛と置き換えられているようだけれども、その真の愛とは阻害され、否定され、けしかけられ、追求されることだろうか。私にとってはそれらは犠牲であって、その犠牲が結論なら、もはやこの道を歩み続ける意味はないだろう。軌道修正し、せめて周りに目をやって安住できる場所を見つけたほうがいい。でも今までの歩みで、犠牲を供えながら受け取るものが確かにあったはずだ。それは涙という形を取り、涙として流れ出る心情だ。確かにこれが与える愛だと愛を与えている感覚もなければ、受け取る愛も愛としての実感はないかも知れない。振り返れば愛であったと御父様が話されるように、その時点では、愛とは実感されておられないと言うことだろう。でも心情は実感だ。涙として流れ出れば実感として心情がある。私は愛に仕えて侍りながら、心情を受け取るためにこの道を選んだはずだ。そして犠牲は、心情を受け取るための犠牲だ。私はそう納得してまた歩み始める。歩みながら、犠牲として供えるものを抱えきれなくなってくると、受け取る心情が間近に用意されていることを知るようになる。涙が流れて、心情の伝授式がその場で執り行われる。

2013年4月21日日曜日

今日の想い 557

病と言う名の蕩減が妻の踵(かかと)をかじって離さない。踵をかじられる妻の内外の痛みが次は家庭の踵をかじっていた。病から開放される希望だけを胸に、彼女の意識は健康を取り戻すことだけに集中されてきた。何年もそうしてきた。彼女にすれば健康を取り戻したい感情は当たり前のことで、しかしその感情の中に、願いや希望という言葉に摩り替えられた彼女の執着が居座っている。それは敢えて周りから進言すれば裁き以外の何物でもなく、彼女自身が悟れるように待ち続ける以外はなく、そのことを気が付かずに年を重ねていった。何年も経たここ最近になって彼女の内面の変化が感じ取れた。それは先ず諦めから始まった。その諦めは、かつての揚々とした健康状態には二度と帰ることはできないという認識だった。それから甘受だ。いつまで生を繋げるかわからないにしても、生ある限りはこの病と共存するという受容だ。そうして意志だ。それは健康を取り戻す意志ではなくて、踵にかじりついて離さないこの病を通して天の父母様の心情を受け取るという意志だ。逃れられない病に健康への執着をもって対していた彼女は、今初めて、この病に天の心情を受け取る意志でもって対した。疫病神としての病の裏の顔ではなく、病の善の顔、善神の業の働く表の顔に初めて向き合った。私は彼女のこの変化がたまらなく嬉しかった。家庭にかじりついて地獄まで引き摺り込まれると思っていた疫病神が、かじりついた踵を逆に引っ張り上げられて、頭からではなく踵から逆向きに善なる影響圏に連れて上がってくれる善神に変わった。もちろんこれで彼女や我が家がハッピーエンドとはならない。病に対する霊的峠を超えて下りになりはしたが、病がどこかに消えて失せる訳ではない。更に天から見れば多くの払うべき蕩減、全うすべき責任分担が目白押しだ。それでも、執拗に責め続けられて、後ずさりし続けていたのが、これからは前進することを覚えた。それは数年を経て妻が獲得した偉大な霊的叡智だ。

今日の想い 556

店では何人かの食口を雇っているが、中にはアベル型の食口もいればカイン型の食口もいる。勿論御父様を受け入れ良心的であればアベル型だという訳ではない。最初はレストラン教会としての摂理的な願いがあって出発し展開していったが、経営力の弱さが拠点を減らしていって、十数件だけとなった今の店は摂理への経済的な援助が主になっている。経営能力の弱さと敢えて言ったが、なかんずく教会関係のビジネスは経営能力の弱さが仇になってなかなか発展しない。ソロモン時代はアベルが祭司集団でカインが石工集団だと述べたが、経営能力は地上的叡智の部類であって、よってカイン型の人間が得てして実力はある。如何せん教会食口は特に祭司型でも石工型でもなく、キリスト教(アベル)が御父様を受け入れなかったが故の二次的摂理として集められた群れであって、アベル型だカイン型と言えるほどの天の叡智に富んだ者もいないし地の叡智、この世的実力に富んだ者もいない。アベルが聞いて落胆するだろうしカインも一緒にしてくれるなと落胆するだろう。しかしそれでもどちらかに分けられる。どちらかに分けられるとなると俄然アベル型で、それは実力が無いどころかこの世に解き放たれれば必要もされない者多数で、そうなると信仰を持たざるを得なかったと言う意味でアベル型だ。敢えて言うなら乞食アベルだ。以前100件近く店があった当時、中心の方針に合わせることができずに出て行った食口もいたが、それは実力があってそれを認められず出たと言うより、棄てられて当然の小石のひとつでありながらも御父様に拾われた恩を忘れて、自分には実力があるかのような錯覚を覚えてしまった、敢えて言うなら乞食カインのなれの果てだ。兎に角そんな私達が祝福を戴いたという事実は余りにも畏れ多く、その謙虚さを常に忘れずにいることが拾われた者の最低ラインの態度だろう。御父様が聖和されて残された私達は、外に見ていた御父様を私の内に見て立たなければならず、或る者は天の叡智を受け取る本アベルとなるべきであり、或る者は地の叡智を司る本カインとなるべきであり、そうして両者が御父様の願いを中心としてひとつとなれば初めて国も世界も我々を中心に動いていくはずだ。伝道祭司摂理を担当するのであればアベルとしての本分を果たし、政治経済摂理を担当するのであればカインとしての本分をまず果たさなければ、店の経営に本腰を入れなければならないのに教会活動を適当にかじって見たり、或いは教会の建て直しに本腰を入れなければならないのに生活事情を優先してしまって余力での歩みとなる等、今までと同じようにどっち着かずだ。

2013年4月19日金曜日

津和野

津和野は私の田舎からそう遠くないところにある。しかし山また山に遮られていて、一度益田まで出て、国道9号線でまた山間部に入って行かなければならないので、行けば結局小一時間はかかってしまう。帰郷する度に思い出され気懸かりになる不思議な所で、訪ねたい気持ちと離れていたい気持ちが交互にやってくる。その気持ちが何に起因するのかはわかっており、ひとつは供養に訪ねたい切支丹殉教の地、乙女峠であり、今一つは朱色に嫌悪感を覚えてしまう稲荷神社だ。稲荷神社に関しては随分前にも記したけれども、摂理路程のなかで何とも心痛い小さな命の犠牲が供えられてしまった記憶があって、当時のおぞましい私の状態と共に思い出されるからだ。その時の自分は、関係者でありながら何の負債感も覚えてはいなかった。何年も隔てて思い起こすと、事の重大さと御家族の深い痛みに少しは近付けるのだけれども、その当時の私は人間感情もない存在で、そんな私がみ旨だ摂理だと騒いでいた。今回帰郷した折、久しぶりに津和野を訪ねてみた。先ず手始めに森鴎外の記念館に行き、それから乙女峠に向かった。傾斜の急な小川に沿って、苔に覆われた暗い山道が上まで伸び、道が見えるところまで登り切ると尖塔が目に入る。それから右に少し折れるようにして更に登っていくと小さな広場に出る。そこには、先ほど尖塔しか見えなかった供養の為の小さな教会堂、拷問に耐えながらもマリヤ様が共にいて下さることを詠んだ石碑、切支丹迫害とここでの拷問の説明が記された記念碑、檻(おり)に押し込まれた信徒の像と彼が見上げるマリヤ様の像などがある。切支丹の信仰を理解できないと、周囲が鬱蒼と茂る木立に囲まれた乙女峠は寒気さえ感じて不気味さを覚えるだろう。想起する死と拷問への恐怖もさることながら、それをやるのも人間であり、それを甘受してまで信仰を保つのも人間で、そこに人間的なものは無視されて超えてしまうような不気味さを見てしまうからだ。小学校のバス遠足で行った時の私がそうだった。背筋の寒い恐怖感しか残らなかった。しかし今の私は切支丹の信仰と、彼らが神霊を受け取る霊的歓びが少しはわかって親しみを覚える。おそらくその違いがこの世的で表面的なものと、霊的で本質的なものとの違いだろう。津和野藩の拷問は数十人の殉教者を出したが、キリストの愛は彼らをしてサタンが主管する地上の死の概念を超え、霊的勝利を見せ付けた。彼らから輝き出るキリストの愛の光は霊的に燦然と輝き、その輝きはそこが外的に薄暗いからこそより印象付けられる。

今日の想い 555

御父様は私達に対して、それぞれの私という氏族メシヤを中心として160家庭の復帰を要求された。御父様が聖和されてもその願いは変わらない。160家庭復帰が入籍の条件でもある。地上におられる間は事ある毎に強調され、そしてその度に私はうな垂れた。長い信仰路程の殆どが経済摂理だったが、入教した当時は路傍伝道も行い、IOWCがやってきて彼らと帯動もした。しかし実は実らなかった。復興会に誘うことさえ出来なかった。その時私を介しては復帰されるはずがないとまで思った。ましてや白い目で見ている親族の復帰だ。万物復帰にはトラウマがあるけれども、伝道は伝道で全く自信が無かった。万物復帰に触れられても、伝道に触れられても、どちらでも私はうな垂れる。うな垂れているばかりの私が恥ずかしげもなく氏族メシヤだと言う。できないと早々に諦めて、着かず離れずで生き延びるしかないだろうに、しかし私の中で自分を押し出す何かがいて、どう足掻いても諦めさせはしない。為せなければ存在する意味もないとまで責められてプッシュされる。私が安住する環境圏をぶち壊してでも私をみ旨に向かわせ、カインの自分に言わせれば何とも卑怯な手を使ってくる。だから実績の無い恥を晒してでもついて行かざるを得ない。み言葉に照らし合わせれば、私達氏族メシヤはイエス様の立場であるけれども、もし勝利できなければ堕落したアダムと同位置で、三大祝福の恵みを人類にもたらすべく期待されたアダムが堕落したのと同じように、私は祝福の恵みを氏族圏にまで広げることはできない。そうなると氏族的再臨のメシヤを将来的には迎える必要性もあるのだろうか。そんな出来ないことを前提に思考を働かせるのはどうかとは思うが、うな垂れたままの道行く先は所詮行き止まりだ。ちなみに御父様が語られた私達の三大祝福は教会祝福、国家祝福(南北統一時代祝福)、そして世界祝福(世界統一時代祝福)だ。しかし祝福は戴いてキープしていれば良しとされるのではなく、祝福は種であって、育てて成長させ花咲かせ実らせるのでなければ何の為に戴いたのかと言うことになる。氏族メシヤである私がうつむいたままでは霊的現実から目を逸らし逃げていて、そうなると氏族圏は霊的に路頭に迷うだろう。さあ、、それで私はどうする、、。どうしたい、、。氏族メシヤという言葉だけが頭にこびり付いて、寝ても覚めても私の感情は解放されない。

2013年4月12日金曜日

今日の想い 554

私達は通り一遍の感謝を捧げるのではない。有難みと言うような曖昧な感謝ではなく、深くて重い感謝、心魂を越えて霊的な波動を帯びる感謝を捧げる必要がある。天の父母様に祈祷を捧げながら、大方は感謝の言葉をもって捧げる訳だけれども、祈祷回数を重ねるほどに感謝の言葉は世俗化して色褪せてくる。御母様の言われる初期教会の真理と神霊に満ちた時代は、感謝の意味に於いても当時と今とでは随分とその重さも内容も異なってきた。それは不満が積み重なることで感謝の意味が薄らいだのではなく、今の変わらない自分の心霊の在り様のままで存在を許され続けているからスポイルされている、甘やかされて腐ってしまったから感謝の意味が薄らいでしまったのだと言える。内的霊的な成長が求められているのに或る段階に留まったままでいると、全体的には分裂を余儀なくされ、個体的にはみ言葉が遠のいて行く。分裂した教会の状況に私達がどう関与しているかというと、私達が内的霊的成長を拒んで或る段階に安住してしまったから分裂は起こったと言える。責任者云々を一度は口にするとしても、し続けるのは原理を知る者として本質的ではないだろう。もちろん対処すべき言動や行動が押し出されるのは当たり前だけれども、しかしその言動や行動に、私の不信仰と不従順からそうなったことへの想いが込められるのでなければ、相手に対して恨みを募らせこそすれ本質的な解決には至らない。問題になっているグループへの私達の姿勢は、私達の不信仰と不従順からそうなってしまったことへの居た堪れない想いが根底にあるだろうか。闘わざるを得ないとしても、闘うことへの御父様の痛みを感じ取っているだろうか。さらに越えて残る向こうの恨みを背負い続ける覚悟があるだろうか。真の勝利者は、より深い悲しみ、より重い責任を受け取るものだ。それを受け取ることが本当の感謝だ。天の父母様の事情圏、心情圏を受け取ることが本当の感謝だ。だから通常使う感謝の概念と、み言葉としての感謝は遥かに次元が異なる。

2013年4月11日木曜日

桜を想う

80度を超す陽気が続いて、桜の蕾の全てが一気に花開いた。桃色のぼんぼりを枝という枝が枝垂れるほどたわわに実らせ、細い枝骨を晒していただけの殺風景が一変し、息を吹き返した。早い明け方外に出ると、まだ陽が昇らぬうちの青みがかった薄光の柔らかさに包まれて、無数のぼんぼりが幻想のように浮かんでいる。その輪郭が曖昧であるように、花々は大気に広がり滲み出ているようだ。花の醸し出す甘い香りが一面に漂っていて、深く呼吸すれば軽い酔いを覚え始める。こんな言葉を使っていいのかどうかわからないが、秘めた艶やかさで私を誘う。この世のあらゆる妖艶なイザナイもこの香りのさそいにはかなわないだろう。いつしか立ち尽くして、気を許してしまえば気が遠のいてしまうほどだ。花の精との接触だ。桜の花の精が、潤いの眼差しで微笑みかけ、甘い吐息を吹きかけ、しなやかな指先で頬や腕を優しく撫でる。もしも桜の花が咲き続けるなら、私はおそらく気が触れてしまうはずだ。花に酔い、花に溺れて私自身を委ね切ってしまいたい、そんな、生気を抜き取られるかのような衝動に駆られてしまう。誰もいない明け方早くに出会うことになったのがよろしくなかったのだろうか。妻も誰も知らない、花の精との逢瀬を楽しむかのような錯覚を覚えてたじろいだ。桜の花を毎年見るたびに、初恋にも似た症状になる。去年は咲き切らずに散ってしまったし、おととしは眩い陽の光の下でしか会えなかった。今までの想いのすれ違いを補うように、今年の桜は私の帰国を待って一度に咲き放ち、圧倒する程の想いを私に向けて放っている。

2013年4月9日火曜日

今日の想い 553

御父様が聖和され、寒い冬が去って暖かい春が来た。御父様が聖和されても、去年と同じように桜は咲いた。季節の移ろいや自然の摂理は、み旨や復帰摂理とは何の関係も無いように、決められたプロセスを粛々と踏んでいる。御父様が聖和されれば太陽は陰り、天の叫びは大地に轟いて、ひとしきり悲しみの涙雨が降り続くのかとも思った。イエス様が最後の息を引取ったとき、天地の帳が引き裂かれたように、御父様が聖和されれば何某かの印(しるし)でもあるのかとも思った。別に期待していたわけではないけれども、結局印は何も起こらなかった。人類始祖アダムとエバが堕落しても、ノアのときに大地を沈める大氾濫が起こっても、さらにひとり子であられるイエス様が殺害されても、星々は同じように運行し、大地はやはり季節を繰り返す。この宇宙もこの自然も、無機質で生命も感情もない機械的システムが当たり前のこととして繰り広げられているが、果たして本当にそうだろうか。唯物観の見方を当たり前のこととして生きてきて、何の感情も覚えずに光を浴び呼吸もしているけれども、しかし私達は明らかにその懐に包まれて存在している。宇宙が、自然が、その声を発しその感情を表さないのは、それらが唯物的だからではなくて、実は私達が唯物観に毒された感覚で対しているからではないだろうか。この一日もこの時間も、一瞬たりとて創造できない私達が、自分の観を当然のものとして対しているのは宇宙や自然に対する冒涜とは言えないだろうか。宇宙や自然は堕落的な私達の観に呆れ返って、言葉をかけることも、その感情を表すことも頑なに拒んでいるのかも知れない。御父様が聖和されたとき、太陽は落胆してその日一日でも翳りたかったはずだ。天は悲しみの叫びを大地に轟かせたかったはずだ。大地を震わせてむせび泣きたかったはずだ。しかしその感情を押し殺して新しい一日を創造し続け、同じように夜昼を交代させ、同じように季節の移ろいや自然の摂理は、決められたプロセスを踏んでいった。今年も暖かい春が来て、桜が咲く。同じように春が来て、同じように桜が咲く。しかし喪にふしていた深みの位置から見るなら、数倍の犠牲が同じような風景の為に投入されている。御父様がこの地上に生きて宇宙と自然に触れられた事実は否定の仕様が無い。その手に触れられ、その肌に感じ取られ、その目で愛でられた。この宇宙は自然は初めて、御父様をして神様に見(まみ)えることができた。或る意味初めて感情が宇宙と自然に刻印されたのかも知れない。

2013年4月8日月曜日

私の中のカインとアベル、そして真の愛

真の愛には犠牲と精誠が伴う。犠牲と精誠が伴わなければそこに真の愛は関与されない。私達は愛という言葉を実に気分的に認識している。与えようとすればそこに愛は関与するのかも知れない。子供に対してこれだけしてやったのにという親の思いがあるが、それが自分の思い込みではなく、本当に真の親の愛として関与されたのかどうかは、そこに犠牲が込められてもそれを良しとするかどうかだろう。犠牲をして真の愛かどうかを試されるのだろう。親の思うようにいかなくて親として痛みを抱えるとしても、その痛みを良しとして受け止め、それこそが子を愛することだとの想いがぶれなければ、それは真の愛に昇華されると言えるだろう。誰しも痛みを快くは思わない。痛みから逃れようと躍起になっている。夫婦になって相手ゆえに痛みを負うのであれば夫婦になりたくはない、とか、子供を産み育て子供ゆえに痛みを負うのであれば家庭を持ちたくはないとの思いは、自分は痛みを排除したい、犠牲になりたくはないとのカインの叫びが込められている。痛みを快くは思わない自分と、この痛みこそ天の父母様がそれをして共にあり、共にあれば真の愛も共にあると思える自分と、この二人の自分、カインの自分とアベルの自分が存在している。もちろん自暴自棄になってカインの自分をとことん貶めることが良しとはされないが、アベルの自分がしっかり立ってカインの自分を説得すべきであり、時としてアベルの自分がカインの自分に譲歩すべきこともある。私達はカインの末裔だ。だからカインの声はよくわかるし、先ずカインが先行して自分自身だと名乗り出る。私達は御父様と共に摂理を担いながら、御父様の指示に対して先ずカインの自分が顔を出してくることはいつもその通りだった。或る者は私のようにカインの自分がいつまでも私の主体に居座り、そして或る者はアベルの自分が直ぐにもカインの自分を説得して、御父様に決意と覚悟を差出した。御父様に訓練された私達は、為に生き犠牲と精誠を供える群れではあるけれども、私の中に中心である御父様をはっきりと立て、そして闇雲に犠牲を叫ぶのではなく、アベルの自分、カインの自分を明瞭に把握して、カインの自分を説得し更に一体化しての上での犠牲でなければ、私は霊的な歓びには至らず、犠牲という怪物に振り回され、私が私自身を貶めていると誤解するようになる。多くの離れた食口はその罠にはまっている。私の中のアベルとカインが一体化して捧げた犠牲という供えものは、天の父母様が受け取り、真の愛が流れ込んでくる。私は真の愛の香りや味をそこで本当に味わうことができる。それはカインの自分をも復活させて余りあり、天国を自分に引き寄せる。

2013年4月7日日曜日

シバの女王

天の叡智を受け取る祭司集団の頂点にソロモンがおり、地の叡智(ルーシェルの光)を司る石工集団の頂点にヒラムがいる。ソロモンを頂点とする祭司集団はアベルの系統であり、ヒラムを頂点とする石工集団はカインの系統だ。聖書には書かれていない石工集団(後のフリーメイソン)に伝えられる神殿伝説は次のように物語っている。ソロモンは神殿理想のために天才的な知恵者であり石工集団の頂点に立つヒラムを呼び寄せ、神殿建設を始めた。そこに関わってくる女性の存在がいて、その女性こそシバの女王ベルキスだ。ソロモンは遠く南方の女王ベルキスを呼び寄せたとき、彼女はソロモンの知恵に感服し彼の佇まいを見て黄金と象牙でできた彫像ではないかと思うほどだった。そして彼女はソロモンの神殿の偉大さにも驚き、建築士にも会いたいと申し出てヒラムに会った。そのとき、彼女のソロモンへの想いはヒラムの眼差しによって一瞬にしてヒラムに移り奪われてしまった。たちまちソロモンはヒラムに嫉妬心を抱く。紆余曲折を経てヒラムはべルキスを妻とするが、ソロモンの嫉妬がヒラムに敵意を抱く三人の内部要員をして間接的にヒラムは殺害されてしまった。フリーメイソンに伝わるこの伝説が正しいものかどうかはわからない。他の文献にはソロモンとシバの女王が恋仲になって子まで設け、その子がアクスム王国の始祖だというのもあり、そこにはヒラムの話は出てこない。しかしカイン圏の総本山フリーメイソンの伝説には、それなりの裏真実があるはずだと思った。講論には、神殿建設でソロモンは信仰基台は立てたけれども、淫乱に溺れて実体基台を立てることはできなかったとある。その詳細には触れてはいないが、ソロモンとヒラム、即ちアベルとカインがひとつとなって神殿摂理を勝利し、メシヤを迎えなけえばならなかったのだが、シバの女王ベルキスを巡ってヒラムの存在を亡き者にした為にひとつになることはできなかった。当時一夫一婦であるはずもなく、ソロモンには妻妾合わせて千人もいたとかいないとか、、。そうなると淫乱に溺れるという言い方は接触した人数の量を言うのかとも考えるが、信仰基台は立てたが実体基台であるアベルカインの一体化が為せなかったと言うのは、ソロモンとヒラムとの関係のことであり、そこに関与したシバの女王ベルキスをして淫乱に溺れたと言う事だと思えてくる。

み言葉を弄んではいないだろうか

み言葉をここまで捻じ曲げ、あらぬ方向に理解が向かうのを何の躊躇もなく公開して、本人は恐ろしく思わないのだろうか。私には頭だけが巨大化した怪物に思えて、いつ破裂するのか心配でならない。霊界に巨大化した頭を持っていくことはできない。頭を切断され、手足も切断され、更に鼓動する心臓も奪われて、それでも残るものを携えて霊界の中心に向かっていく。思考感情意志という心魂活動さえもそこに堕落的要素があって霊界の中心で輝く愛の太陽、心情の太陽に焼かれるものは携えて行くことはできない。焼かれたくない執着があれば光の届かない霊界の隅に留まって、愛の空気の薄い呼吸に甘んじなければ存在すら許されないだろう。普通はその場は地獄に括られる。私達はみ言葉から理屈を取り出すのではない。み言葉から天の心情を取り出し受け取る。論理攻め、理屈攻めの文体には何の心情の香りも漂ってはこない。彼はどんな祈りをするのだろう。立て板に水のように言葉はその口からほとばしっても、御父様と尋ねる一言に万感の想いが込められ、嗚咽に遮られて言葉が出ないほど、御父様の心情の深みに沈んでいった体験があるのだろうか。み言葉を知識としてどう理解するかも確かに大切だが、それは悟性人間が天の心情へと導かれるための橋に過ぎず、たとえ誰からの反論も喝破できる強固な橋を用意したとしても、その理解を通して天の心情に導かれるのでなければ、そして理解することだけに相当の精神を費やすようなら、そんな橋は私には全く必要が無い。論理的に理解することで完成し、み旨が為せるならそんなに容易いことは無いが、そうでないことは火を見るより明らかだ。これこれの理由でこの理解が正しいと相手を喝破するとして、そこには自己満足と生命のない乾いた理屈の白骨が横たわるだけだ。

2013年4月6日土曜日

今日の想い 552

地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく剣を投げ込む為にきたのである。(マタイ伝10:34)
全てに於いてアベルとカインがはっきりと分けられて拮抗するようになる。アベルの道とカインの道に分けられ、アベルの位置とカインの位置に分けられ、アベルの血統とカインの血統にも分けられ、アベルの世界とカインの世界に分けられる。明確にアベルとカインに分けられる為に真の父母宣布がなされ、ありとあらゆるアベルとカインが一体となることができる中心点を用意されたことが御父様の勝利であるとも言え、御父様の勝利圏を相続した私達は勝利の法則、御父様の願いを中心としたアベルカイン一体化の原則こそ統一信仰の秘儀中の秘儀だと言えるだろう。勝利できない課題があるとすればアベルカイン一体化の原則を否定したままで解決しようとしていることにある。先ず言えることは私の中での中心宣布がなされ、カインアベルに分けられ、カインアベルの一体化に私自身が向かっているかどうかが最も問われるところであり、私の外でどれほど一体化を願ったとしても、私の中での一体化を事実上無視しているのであれば、世界がひとつになって地上天国が訪れたとしてもそれは私と何ら関わりのない世界だということだ。地上天国が為されても私は相変わらず私の中のアベルカイン、心と体の闘いに終始しているか、または中心が定まらずアベルカインにすら分けられてもいない。私の中で相反するものが同居したり闘ったりという矛盾性の内包を野放しにしたままで、その矛盾性を認識することもできずに、み旨だ天の願いだと大騒ぎしてもサタンが付け入る隙をいくらでも見出すことができるだろう。み旨を外的な事柄のみとするなら地上のユートピアという幻想を描いているに過ぎない。カインはルーシェルとエバとの霊的堕落の産物、悪の表示体であり、アベルは本来的な相対関係であるアダムとエバから出た善の表示体だ。人間の受胎には本来二通りあって、一つは文字通りの肉の受胎であるけれども、今一つは霊の受胎、ロゴスが降臨して受け取る受胎がある。この二通りの受胎能力の芽をアダムは備えていたけれども、アダムの肋骨を取ってエバを創造した時、肉の受胎機能はエバに渡され霊の受胎機能はアダムに残された。しかしここで忌まわしい事件が起こる。神々の一柱と言ってもいい天使長ルーシェルがエバを誘惑して一体となり堕落させたために、エバは部分的叡智であるルーシェルの叡智を引き継ぎ、アダムも未完成のままエバと交わってしまって、結局霊の受胎機能を受け取るには至らなかった。人間の言葉を発する喉は霊の受胎機能の化石に過ぎないが、喉の本来の機能は神霊(ロゴス)が降臨して言葉を産し、それによって人間をして地上創造、地上進化がなされていく。アベルの系統は神霊によって叡智を受け取る可能性を備えた系統だと言え、カインの系統は人間の知恵(ルーシェルの叡智)によって神界を変える可能性を追求する系統だと言えるかも知れない。アベルとカインがひとつになってメシヤを迎えるように、私の中の心と体が一体となって霊の受胎機能を用意し神霊が降臨する私になる。み旨の勝利は復帰原理で学んだ如くに、極めて原則的に私の中で為される。すなわち信仰基台でありそして実体基台(アベルカインの一体化)だ。勝利する為には神霊を受け取って受胎し叡智を産みださなければならない。その為には実体基台であり、実体基台の前に信仰基台だ。私達の氏族復帰に於ける信仰基台は氏族メシヤ宣言であり、氏族メシヤ宣言をして初めて、氏族のアベルカインが分けられていくようになる。アベルカインの一体化はそこからの話しになる。

2013年4月5日金曜日

今日の想い 551

御父様が歩まれた道は天宙の再創造の歩みだ。蕩減復帰の歩みを超えられて再創造の歩みを為された。よって、今天宙は再創造された新天宙だ。新天宙には新アダムとしての御父様が立たれ、新エバとしての御母様が立っておられる。御父様と御母様が一体となられ、神様の結婚式が為され、神様は天の父母様となられた。神様が御父様とひとつになられ、御父様が御母様と一つになられたのであれば、御父母様は神様が結婚された実体であり、その神様が結婚された実体を私は見ている。しかし基元節の結婚式で私が見たのは御母様おひとりだけだった。隣におられる御父様が見えなかった。勿論、肉体はもはや持たれてはおられないが霊的実体として立たれておられるのはその通りだとしても、私の目には御母様おひとりだった。私の目に見えようが見えまいが為されたのは確かだけれども、それでも基元節には御父母様が両隣で体を持った実体として立たれておられるのを見たかった。第一のアダムは堕落し、第二のアダムはアベルの如くに殺害された。そして第三のアダムである御父様は勝利したアダムとして立たれた。立たれたけれども私の目に体を持たれた実体として神様の結婚式の場で見ることはなかった。その意味を食口の誰もが尋ねている。しかしその答えを生きた御父様の口から受け取ることはもうない。御父様の口は霊的なものとなってしまい、霊的に尋ねること、即ち私達がみ言葉で造り変えられた私を見て、そのみ言葉で再創造された私の口からしか受け取ることはできない。その答えは私に委ねられ、私次第で受け取ることができるかどうかが決められる。その意味でも私は第四のアダムなのかも知れない。私の中に堕落した第一のアダムがいて、殺害された第二のアダムがいて、勝利された第三のアダムが息衝き、実体を持った私は第四のアダムとして全ての答えを得ようとしている。全ての答えを得て、全てを花咲かせ、全てを実らせる。教会内の政治的なものも、み言葉の論理的理解や解釈も、生活向上の為の万物金銭の取り込みも、それらは二の次、三の次の事柄であって、主要的事柄は私の完成形を見ようとすることだ。み言葉を霊的なもの、私を再創造する叡智ロゴスとして受け取れないのであれば、御父様は私をして花咲かせ実を実らせることはない。

2013年4月4日木曜日

私という霊の存在

人間は肉の存在でもあり、心魂の存在でもあり、そして霊の存在でもある。肉の存在であるという認識はある。心魂の存在であるという認識もはっきりとある。しかし霊の存在だという認識を説明できる以上のものとして把握しているかと言うと非常に疑問が残る。悟性の理解がそのままはっきりとした認識の把握とはならないと言うところが、実に曖昧で心魂的であり更に受動的だ。それは主体的で能動的位置にある霊的存在だとは言えない。霊の存在であるという認識は、主体的能動的に創造に加担している私となって始めて、私が霊の存在であると認識し始める。この地上にある有形無形の存在をして組み合わせるのは全てルーシェルの知恵であり、地上の叡智はルーシェルの光に拠っている。しかし創造は天の叡智、ロゴスによって為される。私達がみ言葉を、創造できる天の叡智として受け取るかどうかが私が霊の存在、精神の存在と言えるかどうかであり、霊の存在としての認識もそこにある。人間は本来、神様と同様に創造できる存在として創造された。エバを分化させる前のアダムは言葉を持っており、即ち創造できるロゴスを持っており、更に肉体を持った人間存在の授精受胎機能も持っていたはずだ。しかしエバを分化して間違いが起こった。授精機能をアダムに残し受胎機能をエバに備えたけれども、エバはアダムと一つになるべきものを創造に加担したルーシェルと一つになってしまった。エバは受胎機能を持ちながらも創造できる叡智、ロゴスを失った。地上の人類は肉と心魂に関する限りは全てカインの末裔だ。創造の叡智ロゴスを失った存在だ。私達が霊の存在である為には御父様に繋がり、み言葉で造り変えられ、創造の叡智ロゴスを取り戻さなければ霊の存在だという認識は永遠にやってこない。堕落圏に留まってカインの末裔である以上、実は霊の存在とは言えないからだ。私がみ言葉で造り変えられなければ御父様が語られた霊的事実も理解できないし、どんなに頭をひねろうが論議しようがみ言葉のうわべだけをなぞって分かろうはずもない。