2013年4月12日金曜日

今日の想い 554

私達は通り一遍の感謝を捧げるのではない。有難みと言うような曖昧な感謝ではなく、深くて重い感謝、心魂を越えて霊的な波動を帯びる感謝を捧げる必要がある。天の父母様に祈祷を捧げながら、大方は感謝の言葉をもって捧げる訳だけれども、祈祷回数を重ねるほどに感謝の言葉は世俗化して色褪せてくる。御母様の言われる初期教会の真理と神霊に満ちた時代は、感謝の意味に於いても当時と今とでは随分とその重さも内容も異なってきた。それは不満が積み重なることで感謝の意味が薄らいだのではなく、今の変わらない自分の心霊の在り様のままで存在を許され続けているからスポイルされている、甘やかされて腐ってしまったから感謝の意味が薄らいでしまったのだと言える。内的霊的な成長が求められているのに或る段階に留まったままでいると、全体的には分裂を余儀なくされ、個体的にはみ言葉が遠のいて行く。分裂した教会の状況に私達がどう関与しているかというと、私達が内的霊的成長を拒んで或る段階に安住してしまったから分裂は起こったと言える。責任者云々を一度は口にするとしても、し続けるのは原理を知る者として本質的ではないだろう。もちろん対処すべき言動や行動が押し出されるのは当たり前だけれども、しかしその言動や行動に、私の不信仰と不従順からそうなったことへの想いが込められるのでなければ、相手に対して恨みを募らせこそすれ本質的な解決には至らない。問題になっているグループへの私達の姿勢は、私達の不信仰と不従順からそうなってしまったことへの居た堪れない想いが根底にあるだろうか。闘わざるを得ないとしても、闘うことへの御父様の痛みを感じ取っているだろうか。さらに越えて残る向こうの恨みを背負い続ける覚悟があるだろうか。真の勝利者は、より深い悲しみ、より重い責任を受け取るものだ。それを受け取ることが本当の感謝だ。天の父母様の事情圏、心情圏を受け取ることが本当の感謝だ。だから通常使う感謝の概念と、み言葉としての感謝は遥かに次元が異なる。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。わたしは、納得します。
なぜか、共有できるものをかんじます。

hanamizuki さんのコメント...

訪問して下さり、ありがとうございます。
前はブログ村にいて寄って下さる方も多かったのですが、訳あって離れました。(ブログ村のことです。)今はほぼ自分だけが確認する日記となりましたが、滅多に来ない来客があると涙が出るほど嬉しいです。またお出で下さい。