2013年5月5日日曜日
今日の想い 560
身体が車の揺れに抗えないように、私の内面も揺れ続けて着地できない。決意して踏みとどまる着地点を見いだせないまま車は止まり、キャプテンの、私を指名する声が運転席から届く。履き古された靴を履き、ブツを抱え、扉を開けると震える足取りで下車する。歩む決意の固まらないまま現地に足を下ろしても、当然飛び込めなくて、逃げて休む場所を先ず探し始める。そうこうするうちに時間は立ち、陽が高く昇り、効率のいい夕方からと言い訳し、更に陽は翳り始め、やっと腰を上げて訪ね始めても、断りの攻勢に覚悟も簡単に踏み付けられて萎えてしまう。そうしてボウズのまま回収される。万物復帰の日々、何度そんなことがあっただろうか。あの日々の敗北感が、事ある毎に無表情な顔を覗かせて、私に纏わりついてきた。私の歩んできた動機の中には、決して明るいものだけではない、この敗北感から逃れたいという暗い動機が意志の多くの部分を占めていた。この歳になって鏡の中の自分をマジマジと見る。溜息が出る。映っている私にかつての若かりし頃の精鋭は微塵もない。目の輝きは失せていて、老いに任せて崩れていくもの、欠け落ちていくものしか見当たらない。数十年生き長らえて食べ続け、感覚が要求するものも味わい続け、それらを自身の肉とし自身の心魂としながらも、注ぎ入れ投入し続けながら私は何を残して来たのだろうか。何か誇れるものを培ってきたのだろうか。内面の中にも、周りを見回しても、何もない。報告祈祷として差し出すものが何もない。食べるだけ食べ、感覚要求も満たしながら、結局は私は私の存在維持の為だけに生きてきたということだ。今でも食べ続け、今でも感覚を満たそうとしている。存在への渇望に振り回されてどうすることもできない。妻の力ない動きが、病に疲れた暗い表情が、私の映し鏡のように共にあるだけだ。心を掴めない抜け殻の娘が、時折顔を見せるだけだ。御父様はどこに行かれたのだろう。私の御父様はどこに行かれたのだろう。幾星霜も離れた天国におられるなら、堕落の地の底でうずくまっている孤独な私を、もはや訪ねられることはないのだろうか。最近また、思い出したくも無い昔のことも度々思い出され、悲壮感、敗北感に溺れそうだ。
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