2013年6月11日火曜日

昼の神様、夜の神様

昼の私は私という意識、自我意識を備えた私であり、夜の私は私という意識のない無意識の私だ。人間は私という存在を他と区別しているが、区別している私という存在をどれだけ私が知っているかは甚だ疑問だ。感情し、思考し、意志する私が存在することはわかっているけれども、思考はこうあるべきだとしながら感情がそれに反することもあるし、感情は意志への衝動を掻き立てるのに思考が良しとしない場合もある。人間は私という存在を一なる存在と認識しながら、それであって様々な方向性を内包している、敢えて言うと矛盾した存在だ。様々な方向性を内包しているのであれば私は本来一なる存在ではなく、複数存在なのではないか。複数存在の統一的私であって、その一体化に歪みが生じることで異なる方向性を内包する矛盾的存在になったのではないか。私という存在をそう仮定することができる。昼の私は私という意識を持ち一なる存在と認識しているから、私の中に異なる方向性を内包していることを私は堕落していると認識できる。私は一なる存在であるべきだと言う言葉と、私は堕落しているという認識は相通じ合う。もし私は複数存在であると言うなら、私は堕落しているとは言えず、私の或る部分は或る方向性を持ち別の部分は相反する方向性を持っていると言うに留まり堕落しているとは言わない。もちろんそんな存在が存在足り得るかどうかは相当な疑問だが、、。夜の私は私という意識を持たない存在だから一なる存在なのか複数存在なのかはわからない。意識をもって眠りに入ると私という意識が引き千切られて分散していくのを覚えるらしい。それはもはや狂気の世界だ。自我意識をもつ人間が狂気にならないように、眠りに入る時は地上界と霊界との境界の天使が人間を無意識にさせて心魂と霊を体との癒着から解き放って霊界に送る。昼の私と夜の私のこの違いを理解しようとすれば昼の神様、夜の神様への理解の糸口が掴めるはずだ。「神はまた言われた、われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、、、」とあるが、この複数形を神様と天使達と捉えるのが一般的かもしれないが、おそらく自我意識、というより一なる存在であるという神我意識を持つに至るそれ以前の神様の複数的在り様をわれわれという言葉に含めていると思う。聖書の原書はエロヒムとヤハウェエロヒムとをはっきりと分けて表記している。創世記1:26の上記の神はエロヒム、即ち神々であり、このときの神々が造った人と、やがてヤハウェエロヒム(主なる神)から生きた息を吹き込まれて生じた人間とを区別する必要がある。そして余りにも突拍子もなく反感を覚えるかも知れないが、シュタイナーが霊視していることは、この人の創造を両性具有としている。創世記1:27に「神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」とあるが、これを男性人間、女性人間と分けて創造されたという記述ではなく、原書に忠実であると男女一体人間に創造されたということだ。性の分化は創世記第2章の6日目以降の記述であるアダムの肋骨を取ってエバを創ったヤハウェエロヒムの第二段階の人間創造だ。これが主なる神という言葉がここに出てくる理由であり、このヤハウェエロヒム(主なる神)を複数的エロヒム(神々)在り様の夜の神様に対して御父様は昼の神様と認識しておられるはずだ。

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