2013年6月21日金曜日

今日の想い 580

これからの献金への意識、献身への意識を問われているのであって、過去の事実は私がどう捉えて内面に取り込んでいくかが本当の事実で、もし騙されていたと結論付けるなら内面に恨みを抱え込むだろうし、私の精誠として差し出したと結論付けるなら愛には愛をもって報われるだろう。献金の重みはその額の重みではなくて、そこに投入された精誠の重みを量るのでなければ意味がない。自分がどれだけその献金に精誠を投入したかは本人が理解しているのであって、他の者の献金を讃美はできてもそこにどれだけの精誠が込められたかは想像だけであってわかるものではない。ましてや額の大小で精誠が量られるものでもない。借金までもしてというけれど、敢えて言えば借金することがこんなに簡単なものだと、利子を付けて返さなければならない責任を軽んじて借金したのであれば、額はそろったとしても精誠が込められたかどうかは本人がよくよく問う必要がある。精誠として捧げたのであれば必ず心情を受け取る。金の集め方、金の動かし方、金の使い方、そこに人の手が加わっているのであり、それは欲が関係し想いが関係し勿論恨みも関係する。実に生々しい生きものであって、どう扱うかで善にも悪にもなるし美しくもなり汚れてきたなくもなる。もし騙されたと結論付けるような風潮が蔓延し始めると集められた献金は隠れていた恨みの牙を剥いて暴れまわるだろう。献金と捉えて集められたお金は様々に使われた。不動産も購入され、ビジネスも立ちあげられ、もちろん大会の費用や渉外の費用にも多くを宛てられた。全てが実って形あるものとして残っているかと言うと、多くは流れて行ったように見える。しかしお金が流れて行けば投入した精誠も流れていくのだろうか。そうであれば精誠を込める意味はなくなる。精誠を差出すことで心情を受け取ることを信じない、いや心情を受け取っていないならそれは精誠ではなかったと結論付けることになる。生涯を持って捧げる精誠であるのに、人生の道半ばで騙されたと結論付けるなら、私の生涯の全てを無駄なものとして掃き捨てる立場に立ってしまう。今のような、あることないこと全てが降りかかってくる今だからこそ、精誠が精誠として生きてくる。僅かな精誠であっても莫大な精誠として数えられる。

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