2013年6月13日木曜日

今日の想い 577

ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟にこんな部分がある。ヒョードルが酔いしれているとき妻の訃報に接し、彼は妻から開放されたことを喜ぶと共に、同時に開放してくれた妻を思って泣いた。人間というものは悪人でさえも無邪気で単純なもので、我々自身にしてもやはり同じことだと作者は言う。御父様が聖和された報せを受けたとき、私達はどうだっただろうか。いや私自身はどうだっただろうか。本当に御父様のことだけを想って涙したと言えるだろうか。少なくとも三度の食事はちゃんと摂っただろうし、飯が喉を通らないほど悲しみにくれた訳ではない。一方では悲しんでいるけれども、その一方ではやはり食事もちゃんと摂って生活は生活で滞りなく流れた。X-DAYのその時は後追いで死ぬかも知れないとまで思っていた私は、ずうずうしくも食べて寝て生活している自分を豹変する不思議な生き物のように思えたが、しかしそれが現実だった。為に生きる真の愛の教えを学びながら、しかし未だ完成されない堕落性溢れる人間であって、家庭の為という想いはあっても、それ以上の全体の為となると思い入れが極度に薄れてくる。御父様は摂理、また摂理で私達を引っ張り、息つく暇もないほど追いまくられてきた感が強く、ひょっとしたらこれで息がつけると安堵の胸を下ろした部分も幾らかはあったのではないだろうか。確かに私は御父様が聖和された報せを受けて、祭壇の前に座りひとしきり涙を流した。しかしその涙の中に胸を撫で下ろす感情を挟む隙間がなかったかと尋ねられると否定できない自分がいる。どれほど悲しく、どれほど苦しく、それが最愛の家族のことであっても、人間は自分の中の隠れた部分に、惨忍な自己中心的部分を無邪気にも持っている。無邪気にも、と記したが事の重大さの背後には往々にして無邪気な感情や行為が隠れている。思慮のない唐突な感情であり思慮の無い唐突な行為だ。堕落の過程で一端愛に火が燃え上がると戒めの言葉など無力だ。火がつく前の戒めであり、エバがどれだけ思慮深く戒めに対したかはよくわからないが、愛の減少感がルーシェルの動機だったのに対し、エバの動機は神のように目が開けることを望んだことだが、それが思慮深いものというより唐突で衝動的な無邪気さのように思えてならない。

0 件のコメント: