2013年6月12日水曜日

夜昼、補足(2)

「私は有って或る者」、「「私は有る」という方が、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と出エジプト記3:14にある。これはモーセの質問に答えたヤハウェエロヒムの言葉だが、民にどう伝えるかと問われてこんな説明は馬鹿にしているとしか思えない。しかしこれは論理としての言葉ではなく意志としての言葉であり、神々ではなく一なる神、主なる神だと宣布された言葉だ。人間は主なる神なくしてはアダムエバに分化された人間としての愛の理想は絵空事になる。神々ではなく一なる神だと決意し覚悟するのでなければアダムエバの分化はあり得なかった。意志の神であるとは決意と覚悟の神だということだ。そしてその意志とは愛で主管された地上理想であり、愛の主管とはプラスとマイナスの一体化であり、よってエロヒム人間からヤハウェ人間としてのアダムエバの分化を果たした。勿論分化が為されなければ堕落はあり得なかった。しかし分化がなされなければ地上理想も勿論あり得ない。昼の神様であるヤハウェエロヒムは神自身が堕落した訳ではないが分化することで堕落と関係したのであり、夜の神様であるエロヒム群は堕落とは全く関係がない。御父様の出自は何処だろうかと問う時に、堕落とは全く関係のない立場であると公言された時点は夜の神様に出自を既に見ていると思える。御父様は八段階のそれぞれで完成されたのであり、それは位相を高めて行かれたということであり、夜昼の神様の話が御父様の口から出始めた頃にヤハウェエロヒムの位相からエロヒムの位相へと高められたはずだ。位相が高められるという意味はその御身体に位相の本体が住むことであり、夜の神様の位相に立たれて堕落と全く関係のない遥か高みの神霊が住まわれたということだ。基元節の祝福が堕落とは全く関係のない、戒めのみ言葉以前の立場に於ける祝福だと説明されたと思うが、夜の神様の位相の位置に立たれた御父様の祝福であり、それを思うと余りにも尊い祝福を戴いたという感情と、余りにも恐ろしい祝福を戴いたという感情が湧き溢れる。この記述が的を得ているのかどうかは訪問して下さる方々の判断に委ねるが、どちらにしろ難解な八定式以降のみ言葉理解の助けになればいいと思う。

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