2013年6月24日月曜日

今日の想い 581

この店は誰の店かという所有権が存在する。そして店を経営する経営権が存在する。所有権と経営権のラインをはっきりさせることは所有権を持つオーナーが決めるべきことで、経営権を与っているマネージャーが決めるべきことではないだろう。御父様が聖和される以前にUCIの問題は起こったが、それでもまだ聖和以前であったから御父様のその問題に対する見解ははっきりしていてラインもはっきりしたが、御父様不在となられた今、教会のその他いろんな財産なりビジネスなりの所有権の問題があちこちで発生している。法規や運営上、名義人が誰であるかははっきりさせなければならないので、誰かの名前を使う訳だが、しかしその誰かはペーパーに記されているだけのことであって実質の所有ではない。御父母様の名義にしてしまえば食口誰もが納得する訳だが、しかしそれを御父様は望まれず、責任者や経営者の名前を置かざるをえなかった。御父様御自身が公金に対して明確であられた。恐ろしいとも話された。名義人になっている者は公金に対する恐ろしいという御父様の感覚と認識を持たなければ、下手に名義人に担ぎあげられるべきではないだろう。霊的死活問題、堕落以上の重罪を背負うことになってしまいかねない。この店に関して言えば、出発当時の責任者が名義人になっていたが、ライセンスの確保の問題もあって今は私が名義人だ。経営権を持つ私はペーパー上の名義人であって実質の所有はない。私がどれほどその事を自覚していても、自覚しているその私が信じるに足る、要するに絶対的に信じるに足る者であると思うべきではない。私は変わりうる。それも豹変してしまう。もし家庭としてまとまった金が必要になったとき、愛する誰かの生命に関することが起こった場合、公的なものに手を付けないと言い切れる、絶対的に信じるに足る私ではない。御父様ですら恐ろしいと言われるのに、ましてや堕落の性(さが)を持つ悲しい地上人間だ。そこを認めないと公金が私の命取りになる。霊的生命線は気分で測られ決められるものではない。天国と地獄、御父様が許可し許される圏とサタンが関与する自己中心圏の間には、寸分も狂わず引いてある霊的死活を分けるラインが存在している。それも見えずに公的なものの名義人になるべきではないし、わからない誰かを名義人に担ぎ上げるべきでもない。

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