2013年6月26日水曜日

今日の想い 582

神様王権即位式のみ言葉で、御父様は或る先生の名前を上げられて公金の問題に触れられた。裁かれた言葉ではなく飽くまで触れられたに過ぎないが、天一国の憲法の一つとして公金問題は重要視されなければならないという言葉と共に、即位式のみ言葉という公的な言葉、歴史に残る言葉の中にその問題として名前を上げられたのであり、上げられた本人にすれば居た堪れないだろう。もし私が皆の知れ渡る御父様の公的お話の中で、同じように悪なる意味で名前を上げられれば逆上するかも知れない。それを思うとその先生の心境が想像を絶するに余りあることはその通りだ。死んでも死にきれず、生きるにも全否定されたような立場で生きるには、それからの態度や行動を取らざるを得なかったとも思える。しかしその難しい状況に追い詰めてしまうことを御父様は予測されなかったのだろうか。私は必ず予測されたはずだと思っている。それでも敢えて名前を上げられた。名前を上げて結局追い詰める形になった。そして皆が知れ渡る問題に発展して今に至っている。心情血統圏のみならず実体血統圏に入れられることの重大さ恐ろしさがそこにある。御父様の実体的な血統と因縁を結ぶことは至上の栄光であるけれども、その栄光に与ればそれ相応の犠牲を払わねばならないということだ。身辺をとことん整理して、心情も細部に至るまで分別されて、栄光とのバランスをとらなければならない。私達は暴かれた罪を裁きの目で見ているけれども、本当はそんな余裕等ない。御父様と同じ血統圏にあるものとして、御父様と共に天国にあると喜ぶだけの私ではなく、必ずその栄光の高みにバランスを取らせる犠牲を差し出さなければならないのが道理だろう。神様はルーシェルをとことん貶めたはずで、ルーシェルにすればその愛の減少感から追い詰められてその行動を取らざるを得なかったという言い分がある。その言い分がサタンの一大帝国を築き上げた。同じようにナンバー2の位置におられたその先生も天使長の位置で貶められた。貶められることを御父様と私は一体存在だと扱われている故にそうされると、それを敢えて歓びとする者にならなければならない。本当の精誠は感情を蹂躙される位置を甘受しながら心情を受け取る。神様はルーシェルをどう思われていただろうか。御父様はその先生をどう思われていただろうか。御父様はその先生がどういう態度を取られたとしても死なずに生きてくれたことを頷かれたはずだ。その一大事件の一幕を通過することで喚起されるものがある。私達が目覚めるものがある。ルーシェルが神様の元に帰った時、どれだけ神様が喜ばれただろうか。その先生が御父様の元に帰る時、どれだけ喜ばれるだろうか。私達が本当に悔い改めるなら、その時を待って必ず帰って来られるだろう。

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