2013年6月11日火曜日

夜昼、補足

もし昼の私のみならず、夜の私も意識を持つとしたら、夜の私の在り様を把握でき夜の神様を理解できるかも知れない。先のブログのように説明してしまうと論理に偏ってしまい、どうしても一なる神様ではなく複数の神様が存在するように思えてくる。しかし地上の様相と霊界の様相が全く異なっているように、天宙を創造した神界の在り様を地上的思考で測り知れるものではないことだけははっきりしておく必要がある。私はあくまで一なる私であり、霊界では私は広がっていって多数の私が存在すると説明しても、それは地上的見地から霊界を観察して言えることであり、実際意識を持って霊界に踏み込んでいって地上と同じような感覚で個と複数を区別できるかは疑ってかかるべきだ。家庭をもち子供が出来ると私という存在は一変する。親になる以前の私という存在と親になった私という存在は次元が異なっている。親は子供の中に自分を見出して生きるから親となる。私を否定されても子供が肯定され受け入れられるならそちらを取る。子供は親に取って第二の私になる。そして第二の私のほうが第一の私よりは重要だ。この時点で私は既に霊的に見れば個の存在ではない。妻の存在はどうだろうか、孫の存在はどうだろうか、と問う時に第三の私、第四の私が存在し得る。だからと言って私という存在が一なる存在には変わりは無い。それは次元を一気に高みに届けて心情界をして納得できる内容であり、心情界では私は一個の存在であると共に複数存在だ。よって先のブログの説明が矛盾することは無い。御父様の不可解な矛盾するかのようなみ言葉も、地上的概念一辺倒で読み解こうとするから無理があるのであり、外的には次元の高みをして、内的には心情の深みをして、読み解く必要がある。気の遠くなるような人類歴史をもってしても理解不可能だった内容を差し出されて、一昼夜で理解できるなどと傲慢にも思わない方がいいが、諦めてしまえば差し出された宝を投げ捨ててしまうのと同じだろう。神様の無形実体内で神様自体が成長し展開してきた内容を、アダムとエバという有形実体をして展開される。いわゆる四大心情圏の構想理想は神様自体内で既に内的に為されている。内的に自体内で子女の愛が為され、兄弟の愛が為され、夫婦の愛が為され、そして父母の愛が為されている。それはどういう風に理解したらいいのか。自体内で親を持ち、兄弟を持ち、妻を持ち或いは夫を持ち、そして子女を持つとはどういうことか。それは堕落とは関係のなかった夜の神様が為されたことであり、その次元の高みに昇りつめ、心情の深みにまで分け入るには今の私の基準では余りにもおぼつかない。

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