2013年6月9日日曜日

今日の想い 575

下等動物から高等動物に進化し、高等動物から人間に進化していったと考える進化論者。進化論者の多くは唯物論者でもあって、先ず体ありきで心があると信じきっていて、彼らの中に疑う余地が全くないのであり、性相的なものが形状的な原因であるという事実に立てない。宇宙と人間の根源を物質として捉えている。この体がなくなると自分という存在はなくなるという、恐怖の認識に至らない恐怖に立ってる。前にも言及した霊的無知の無知だ。本人は通常の思考に照らしてみて神を否定し霊界を否定しているように見えるけれども、先ず神と霊界を受け入れられない譲れない感情があって、その感情が進化論、唯物論を正しいとする思考を組み立てている。恐怖の認識に至らない潜在的恐怖がわざわざ偽りを正しいとする思考を組み立てている。神も霊界もないなら、思考に照らしだす理性が何の意味があるのか、わざわざ進化論、唯物論を組み立てる意味はひとつもない。無意識にも理性的理解を要求するのは潜在的恐怖から逃れたい意思表示以外の何物でもない。もし進化の過程で動物的本能から心魂も進化させたのであれば、わざわざ悩み苦しむに至った今の心魂は進化ではなく退化だ。無神論者を伝道するには、先ず恐怖の認識に至らない恐怖の状態に自分がいることを気付かせてあげることができるかどうかだろう。その気配も無いならその人物は未だ終末には至っていない。終末感がないならどれほどみ言葉を語ってもざるに水を流し込むようなものだ。特殊な宗教への偏見を抱いたまま、思考のお遊びの圏内に留まったままでいる。聖書、特に創世記に記されている内容が、科学的思考に当て嵌まらないからと、科学的論理で理解できるように説明を求めるのも無神論者の常だが、科学万能信仰が死を前にして何らの力も発揮できないことを直前にして思い知る。死が近くなると潜在していた恐怖を認識せざるを得なくなる。み言葉を受け入れた私達が注意しなければならないことは、信じている自分に安心してそれ以上求めようとしないことだ。神様を信じ霊界を信じていてもその度合いはピンからキリまである。更に信じることを超える私にならなければならない。信じることから知って実感する者にならなければ、唯物論者と同じように、やはり恐怖の認識に至らない恐怖に立っている。

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