2013年6月30日日曜日
今日の想い 583
み言葉と私がこれ程に距離があるのかと思う。言葉としてこの手に触れて差し出されているのに、読めども読めども、繰り返せども繰り返せども、堅く閉ざしたその胸襟を緩めて開き、素直に迎え入れてくれることはない。幾重にも重ねられたフィルターが邪魔をしていて、実際はみ言葉の方ではなく私の方なのだが、私自身が堕落的垢で幾重にも塗り固められていて、その自己中心的な磁気があらゆる真実を屈折させ、はね返し、霊的生命をダイレクトには受け取れない。睡眠に入る時、地上意識を持ったままだと自己分裂を起こしかねないように、み言葉の真意を受け止める相対圏になければ、み言葉を屈折して受け止め続けると自己破壊をもたらすだろう。あらゆる論理を駆使するにしても所詮時間軸、空間軸に嵌められたままであって、真の愛は平面的愛に留まらず立体的でありさらに多次元的であるはずで、み言葉を地上の論理で捉えることはできない。反対派は反対はすれども神を信じ霊界を信じてはいると言うけれども、地上で地上的に理解して信じているものは地上を脱する時に崩れて流れ去る。真の愛を受け取って真の生命を得た者でしか、死が私という存在を消滅させるのを越えて永遠をもたらすことができる存在基盤はない。御父様が言われたように、離れる食口は永遠という概念に取り組んではいない。しかし教会に形だけ籍を置いて実質離れている食口も多く、それもみ言葉の生命を受ける位置にはなく、祝福家庭として皇族圏に入り霊的勝利圏が影響を及ぼす位置にもない。増補版は、御父様が手を付けるなと言われた八大教材教本を手を付けたことになるのかどうか。韓国語で語られたみ言を日本語に訳したものでしか受け取れないという時点で、既に欠落している部分や誤解している部分があると思えるのに、ましてや増補版をどうのこうの言える立場に自分は全くない。み言葉との距離が大きい私はその判断ができる位置にはないし、それよりどうすればみ言葉が私を迎え入れて霊的生命圏に入ることができるかで精一杯だ。
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