2013年11月10日日曜日

今日の想い 659

絶対信仰が備わっていると断言できる食口はいるだろうか。御父母様に対して絶対服従を捧げていると断言できる食口はいるだろうか。絶対愛で私達に対して下さったように絶対愛で一人にでも対している食口はいるだろうか。そうなっていない自分を一方では認めながら、一方ではこの世に対する時に、信仰がある自分、御父様に捧げた自分、愛のある自分とみなし、この世の信仰のない人、自己中心的な人、愛のない人と括ってはいないだろうか。氏族に対するにしろ伝道にしろ、自分には何もない、信仰も愛もない自分だから、貴方が御父様を知って信仰も愛も立てて欲しいとお願いする謙虚さが見えない。実際私達は摂理を担い御父母様の願いに応えるべく歩んできた。歩んできたつもりだった。しかし現状の惨憺たる状態で何の誇るものがあるだろうか。失敗した私達、特に一世は誇って伝道できる何物もなく、失敗した私達に代わって摂理を担当してくれる人を探す、その為に伝道すべきだといってもいいかも知れない。個人の救いに汲々とするばかりで全体の救いの為に身を挺する者が余りにも少なく、結局個人の救いも自己中心的な救いの観念に没している。そうであれば、祝福も、教会員としての自覚も、全て一度返上すべきだろう。戴いた祝福に拘り、名ばかりの教会員で、一体全体に対する何の得があるのだろうか。御母様も特に二世に対して意識をもっておられる。一世が既に年老いているということもあるだろうけれども、失敗し続けた一世に更に摂理を託すのは難しいとの判断があるはずだ。勿論一世に対して何もするなとは言われないだろうけれども、期待はしておられない。本当の意味もわからずに戴いた祝福を、有り難く抱き抱えながら、しかし抱えたままで死んでいく。祝福は祝福としての芽を出し、成長し、花を咲かせて実を実らせてこそ祝福だろう。戴いた祝福を種のまま抱えたままで、それで天国に直行できるわけではない。真珠をもらった豚にすぎないなら、真珠の価値がわかる者に投げ出すことが豚にできる唯一のことだ。祝福を戴いたことの恐ろしさを遠からず悟ることになる。霊界に足を踏み入れれば自ずとそうなる。

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