2013年11月14日木曜日

今日の想い 660

ノアが生きた時代も終末だった。イエス様が地上に降臨された時代も終末だった。そして御父様が再臨のメシヤとして活動された今の時代も終末だ。現在形にしたけれども未だ終末時代かも知れないし終末を越えているかも知れない。しかし御父様が既に聖和されたのだから、あるいは勝利されたのだから、あるいは善悪交差点は過ぎたのだから、終末は越えたと言えるのではないだろうか。ノアの終末の時も、イエス様の終末の時も、終末を越えて地上がどうなり、社会がどうなり、私がどうなるかなどわかりはしなかっただろう。私達も地上天国が到来したらこうなるとかああなるとか、様々にイメージを膨らましていたけれども、結局はそんな想像は当たらず、どうなるかなど理解してはいなかった。クリスチャン達が言うように、主イエス様に捧げた者だけが救われて天上へと上がり、黙示録の天変地異によって他の者は滅びてしまう、などと言うことなど無いことはわかっていた。しかし具体的にどうなるかなど誰もわからない。終末を越えてどうなるかなどという心配は地上的な心配であって、地上的な心配に意識が捕らわれている限りますます霊的なものはわからなくなり、終末と言う霊的転換点を見ることはできないだろうし、迎えて越えることはできない。み言葉を受け入れた私達でありながらも、以外とこの世の者達と同じように、近い将来のことを心配し、生活の確保を第一に考えている。実体み言の御父様が生きて私に働いておられるとの実感を得るためには、地上の輪郭を持つ御父様から、霊的な、霊的感性で触れることのできる御父様を私の中に迎えなければならない。私達は信仰の形にとらわれている。これはしてはいけない、あれはしてはいけない、こうすべきだ、ああすべきだ、形にとらわれてその形に嵌らないことを不信仰といい、形に嵌っていれば信仰を保っているようで安堵する。形は形で大切だけれども、形に執着するとそれはもはや愛を第一にしているのではなく条件を第一にしている。子供が祝福を受けないといって悩むのは、愛する立場で悩むのか条件に引っかかることで悩むのか。形や条件が最も権威があり、形や条件で神様を納得させることができるのなら、自由こそが私達の敵だと言うことになる。誰もが一挙手一投足を完全主管される牢獄が天国だということになる。祝福家庭や祝福子女としての形や条件に引っかかり思い悩みながらも、しかしそれを愛で乗り越えようとするときに、私達は善悪交差点を越えて愛の勝利に向かう、私と言う基点で終末を越えて解放時代へと次元を上げていく私になれる。

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