2013年11月4日月曜日

この秋に想う 

長雨で数日間風雨に晒され、木々には枯葉が目立って、今年のこの辺りの秋は紅葉になり切らずに終わるのだろうか、と思っていた。しかしその後晴天が続き、日中の間の残暑と夜中から明け方にかけての冷え込みが葉の色付きに拍車をかけたようで、昨夜の強い風で枝にしがみ付いていた枯葉が飛ばされ、明けた今朝の景色は実に鮮やかそのものだった。青い空を背景に様々な色合いの赤や黄色、茶や緑色が、陽の光を受けて輝いている。DCを囲い込んで循環しているハイウェイを走り、高い位置に差し掛かる度に、柔らかな起伏が広がる一面の紅葉絨毯が見下ろせる。前を見て運転に集中すべきなのが口惜しい限りだ。この色合い溢れる光が自然の実りだ。冬を越えて春夏秋と育んできた地上の実りだ。人間にとっての収穫祭は食物にのみ関わっているのかも知れないが、霊的存在達にとっての収穫祭は地上の光の収穫祭であり、地上の愛の収穫祭だ。御父様の聖和から一周年、地上の被造物達は嘆き悲しむ喪の期間を既に越えて、冬に思考しながら霊的な御父様を認識し、その霊的御父様に焦点を合わせて春を迎え夏に育み、そうして実りの秋に光であり真の愛の御父様への精一杯の美の御返しを捧げている。その点では被造物の方が人間よりも余程摂理的に前進している。立ち遅れている私達は被造物達ほども霊的な御父様を認識してはいない。一周年を越えるのに、地上の御父様という輪郭に未だに拘ったまま、内的霊的な見出し方、迎え方、接し方がわかっていない。御父様の勝利圏は御題目ではなく現実だ。しかしその意味もわからず勝利圏の相続をわかったように口にするけれども、それならただの御題目だ。概念もイメージも伴わない御題目だ。内的霊的な現実を見通せる私達でこそ、摂理を本質的に担うことができるのであって、或る一宗教の教主が亡くなったのと同じような認識だけを聖和に見るなら、私達は永遠に宗教の次元を越えることはできない。宗教の次元を越えることができなければ霊的御父様を見出し、霊的御父様が私に働いておられる実感などない。秋の青い空に輝きを放つ紅葉のように、私は御父様の真の愛を受けて色付き輝く存在になっているだろうか。それとも昨夜の強風に煽られて、散って地の塵と変わり果てた、蹲る枯葉の一枚にすぎないのだろうか。

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