2013年11月7日木曜日

今日の想い 657

妻も私も同じ日本人だし、同じ広島県人だし、周りから見れば似た者夫婦なのかも知れない。見えない習性や習慣的な発想は同じ環境で生活しているわけだから同じだとは思う。しかし習性という表面を剥がし、心魂の深みへと向かうにつれて違いは大きくなり、お互いの間の内的霊的距離が増し遠くに霞んで見えるような存在感になることがある。妻にはいつも、外的に捉えることだけに専念し過ぎていると口を酸っぱくして言っているのだが、彼女は私の言わんとすることがわからない。外的なことを説明するのは簡単だけれども、内的霊的なことを外的な言葉で説明しようとすれば難しく、私のそのうまく表現できない歯がゆさが、彼女にとっては自分が責められ否定されているように思われるらしく、次第に表情は厳しくなり聞く耳持たずになってしまう。妻との距離を、み言葉理解の違いによるものなのか、信仰観の違いによるものなのか、内外の育った環境の違いによるものか、それともただ男と女の違いによるものなのか、おそらく全ての要因がお互いの間の溝を作り距離を隔てているのだろう。誤解されてはこまるが、夫婦円満だしお互いがいつも一緒にいたいと思っている。しかしそれと霊的な事柄とは別問題で、霊界に二人して赴いたとき二人で一つという霊の一致、霊の合一が為せるのかと問われると私は疑問がある。妻はこの世で一緒だという感覚もあの世で一緒だという感覚も同じものだと思っていて、そこに問いを投げかける私に不信感を持っているが、私にすれば彼女は事物を外的な事としてしか捉えていない。物も事物も現象も、環境も経験も記憶も、それを霊的に捉えることに意志を投入していない。霊的に見て聞いて捉えることを学ばなければ霊の認識は下りない。霊の認識が下りないのに一つの片割れである霊的な夫、今一つの片割れである霊的な自分、そしてそれが合わさる霊の合一という認識も捉えられない。夫婦仲良く睦まじく、それがそのまま霊界でも夫婦一体となると思っているが、この世にも仲良く一生を添い遂げる夫婦は山ほどいる。しかし霊界に赴くとそれぞれ別の霊界に住んでいる。それはお互いが一つになろうとするその中心点が、心魂の表面的なものに留まり、心魂の深みの奥の霊的なものを中心としてはいなかったことによる。一緒にいる理由が、優しいからとか、感性が同じだからとか、安らぐとか、そんなものは霊的なものとは言えない。絵に描いたような円満な夫婦より、喧嘩や口論が耐えない、相手の醜いものしか見えない、そんな出発点の状態から次第次第にお互いが不可欠な存在になれるとしたら、それは本物に近い、すなわち霊の一致に近いものがその夫婦にはあると私は見る。或る子女様の再婚の話が話題に上るが、絶望的な夫婦状態から夫婦一体まで、もし辿ることができたなら、戦っている祝福家庭にとってどれほど希望的存在になられただろうか。そう思うのが一般的信仰であり普通の感情かも知れないが、次のように言ったとするとどうだろうか。絶対性に反するような行動をされながら、しかし実の娘であられ、御父様の血統圏にあることをサタンも誰も否定はしない。御父様は勝利されてサタンを屈服され、それは絶対的勝利圏であり、であれば血統圏にある、即ち御父様と一体圏にある娘の行動を条件に取ってサタンが讒訴することは在り得ない。讒訴するとすれば勝利された御父様であり、しかし御父様は勝利圏で抱擁する以外ない。実の娘だからだ。もし許しの道が開かれるなら、私達のうちの祝福がこわれた者も、そして再婚者も、許しの道が開かれる。その意味は天上地上だけではなく地下の救いの摂理をも子女様をして担われたことになる。それは正道に外れた者達の希望的存在になられることになる。聖人と殺人鬼も祝福された御父様だという意味を深く問うて見るべきだ。御母様はこの件に関して何も口を開かれていないので、先走ることで混乱の種になると非難されるかも知れないが、罪のないものが攻撃の石をぶつけるのならまだしも、蕩減も払わない罪人が、一方的に戴いた祝福でありながら祝福の基準をどうこう言う資格もないのに石を投げつけている者達がいる。その現状を見て言いたいことは、もし叡智が解決するものとして道を開かれるなら、そこに矛盾はないはずだ。間違いを犯した多くの祝福家庭は、救いの道が閉ざされたままだ。しかし彼らの救いの摂理を子女様をして差し出された、と言う言葉が言えるようになるなら大きな恩恵ではないだろうか。戦いの多い祝福カップルは、乗り越えてくれる期待を天から受けている。それだけ天の信頼がある。しかし乗り越えられなかったとして裁かれるなら、真の愛を疑わなければならないだろう。

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