2013年11月25日月曜日

事実に躓くのではなく、事実に問おうとすべきだ。

御父様の行動を堕落的な目で見てああだこうだと言い募る。御父様の価値が量れるというなら、その持ち合わせている価値判断はどこから来たのか。自分の持ち合わせている価値判断が正しいと言うなら、自分を堕落した霊的無知な存在とは認めていないことになる。堕落的な目で見て御父様の行動がどれほど奇異に映り、罪の権化のように映ったとしても、そこには確実に、真実の目で見れば見えるはずの犠牲的精神が生きているはずが、それが見えない。見ようとしない。この地上に、とりわけ人間の行動形態すべてに堕落的要素は染み込んでいる。それは善なるもの、聖なるものだと思われる行動であっても、しかしそれでも堕落的要素は染み込んでいる。人間のあらゆる行動形態、特に罪や悪が絡む欲望という行動形態の類を、どのようにして聖なるもの、善なるものが浸透している行動形態に変えることができるだろうか。性行為を行わずに、手を繋いで深く見つめ合うだけで一体化し、愛の結晶を創造できるなら、それこそが再臨のメシヤとして地上にもたらす仕事だろうか。そうでないことは誰もが解かっているのに、愛の行為という堕落的要素が染み込んだ行動様式を、そのまま何もせずに聖なるもの、善なるものに変えてくれと要求している。メシヤとしてメシヤらしき宣言をすれば、その宣言にメシヤ本人も従うだけでもって事足りると思い込んでいる。声を大にして言うなら憚られるであろう御父様の取られた行動は、敢えて言えば霊的科学反応実験だと言える。血統転換式を導き出すのに、そして絶対性、絶対セックスという概念を導き出すのに、肉体を持たれた地上存在として、身震いしながら罪と悪にその嫌がる肉体を染めながらも創造された、奇跡的と言っても過言ではない救いの方程式を導き出された。よだれを垂らしながら放蕩三昧する堕落人間的行為と所詮同じだと誰かが言うにしても、霊的に見れば全く正反対の犠牲的精神がその行為に生きている。少しでも霊的見地に立てば、明らかに放蕩三昧とは異なることがわかるのに、地上感覚しか持たない、霊的無知を自認しない者達は、御父様の肉的行為そのままをああだこうだと論(あげつら)う。肉体をして導き出さなければならないからこそ、肉体を持たれて地上に再臨されたのであって、救いの完成に肉体による秘儀が必要ないなら肉体をもって再臨される必要はない。

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