2014年5月13日火曜日
今日の想い 731
「恩賜が多い神様の愛の圏内に入れば入るほど、頭を上げることのできない罪人です。」 御父様が私達に証して下さった神様は、喜ばれる栄光の神様ではなく、苦痛と悲しみと恨の神様だというこの事実を、私達はどれほど踏まえて歩んでいるだろうか。私の喜びの為ではなく、私の平安と幸せの為ではなく、私の栄光の為ではない、苦痛と悲しみと恨の神様を解放して差し上げようとする立場に立ってこそ、私は神様の対象圏に立つことができる。天の父母様と声を上げることのできる息子娘だと私も断言でき、神様も息子娘として抱いて下さる。自分のみ旨を歩む動機が、己の為、己の幸せの為なのか、それとも神様の幸せの為なのかは、同じみ旨を歩んでいるように思えても全く異なる。言い表せないほどの苦痛や悲しみを味わうとしても、私が味わうことで、神様の苦痛や悲しみを少しでも和らげることができるなら、この苦痛や悲しみを受ける立場がありがたいと思えなければならない。さらに神様の息子娘であるならば、一つの悲しみを味わう場であっても、一方でその何倍もの喜びを味わわれる神様の宝座を用意する私を準備し、逆にひとつの喜びを味わう場であったなら、一方でその何倍もの悲しみを味わう場に向かおうとする私を準備しなければならない。そんな私の在り様が生活化し、心魂の在り様が習慣化するなら、確実に神様は私の中に臨在して下さるはずだ。上記したみ言葉は、通常の論理を宛がうと矛盾している。蕩減が払われて罪の度合いが減れば減るほど受け取る恵みの度合いが多くて当然であるのに、であれば恩賜が多ければ蕩減が払われた結果であり、すなわち罪は減っていると考えるのが妥当だ。しかし私達は通常の論理と、み言葉の論理(と言えるのかどうか)は異なることを当たり前のように知っている。通常の論理は地上的平面的であるのに対して、み言葉の論理は霊的、すなわち心情的であり立体的だ。杓子定規では測れない多次元の論理に、知らずうちに生きている私達だと言うことだ。知らないうちに私達は霊的高みに生きている。しかし今共に歩んできた食口でさえも、霊的高みに生きる者と、地上の堕落圏に縛り付けられた者とが目に見えて分けられている。責任者の誰それが着服しているとか、特定の責任者だけが教会を牛耳っているとか、はたまた御母様の役不足まで口にして、勿論そんな平面的低次元に下りてこられ合わせられる御母様ではないが、彼等は一体何を学んできたのか、結局は穿った目を捨てられないまま教条主義的なフィルターを通して、み言葉の鞘だけを受け取って武器にしている。彼らに取って具体的感覚的な罪を犯さなければ、罪人であるという意識など本当はひとつもない。
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