2014年5月21日水曜日

今日の想い 746

絶対信仰と盲目的信仰を混同していて、納得できないにもかかわらず、兎に角行け、やれ、と言われるのにどこまでも従うのは盲目的であって、絶対信仰とは言えない。その真意が後になってわかり、やらなければその時後悔するだろうから、と言うのが基本姿勢であったのは確かだけれども、その姿勢を私は貫けるとしても、孫子の代まで継承できるなど到底ありえない。堕落を知的側面からみると無知故のことであって、結局わからなければいつまでもサタンの罠に掛り易い、と言うかサタンの罠に掛り続けることになる。確かに若かりし頃は盲目的だったし、当時は食口誰もが霊的知の啓発は為されていなくて、お化けでも見れるのが霊的だと真面目に思っていて、信仰生命は中心者に預ける格好になっていた。それが当時では摂理的でもあったしそれで良かった。しかし盲目的信仰を貫けば絶対信仰になるのではなく、御父様が絶対信仰という概念を示されたのは良心に於いてと言うことであり、生殖器に対してと言われたこともあって、訳わからずとも中心者に従えという意味ではない。もちろん組織の一人して動くことが否定されるのではないが、上意下達一辺倒だったものから下意上達でわからないことは問い、意見もし、進言もできる組織にならなければ、組織は絶対信仰だと言いながらも盲目的信仰の土壌になってしまう。御父様は、わからなければ祈ってみろとは仰ったが、わからなくても歩めという盲目的姿勢は願っておられない。しかしながら今の現状はというと、私も含めて盲目的信仰の部分が殆どだろう。盲目的信仰で信仰の結果を見ようとするのは道理に合わないが、しかし絶対信仰の意味を問うことはできるはずで、そうしながら本来の信仰を取り戻し、信仰の動機(原因)が自分にあって始めて信仰の結果を自分の中に期待できる。ようするに霊的無知を解決して本来の信仰を獲得した分だけ信仰の結果は期待できるだろう。信仰はもともと能動的なものであるのに、盲目的という受動的なものに留まったままでは、自分の蕩減であり私が復活し私の天国だと言えるような実感的なものとはならない。祝福だってそうだ。祝福を受けて原罪は赦されたけれども、結局私のどこが変わり、子供も原罪のない二世なのにどこが違うのだろうと言うことにはならない。盲目的信仰は復帰基台摂理的であり、み旨を歩むにしても戒律的であり象徴的だ。しかしクリスチャン達は信仰素養があり、それは復帰摂理的であるし、み旨を歩むにしても形象的で成約時代に相応しい実体的み旨へと向かいやすい。クリスチャン達が不信した状況になったのは主の路程を聞けばわかるが、それにしてもキリスト教信者ではない私とクリスチャンとでは、個人的には何ら変わりは無いはずだと思っていたが、今までの私の信仰内容を俯瞰的に見れるようになると確かに大きな違いがあると思える。

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