2014年5月6日火曜日

今日の想い 729

生きてこそのみ旨であって死んでしまったらどうなるものでもない。死生決断は生きてこそのみ旨だからそう言える。死生決断とは死を決意するのではなく、死の決意を越える決意を持って生きるということだろう。生きて死の道を行くのであって、死ぬことで生きる道を見出す殉教とは異なる。生きてこそのみ旨だと、この事を先ずよくよく理解して子供に接するべきだ。地上に生まれてくれたこと自体が親にとって、特に祝福子女の親にとっては感謝してもし尽くせないのであり、子供に接するときには親としてのその想いが最も子供に伝わるべきだ。こう言うと語弊があるのかも知れないが、教会だみ旨だ祝福だと迫る前に、先ず生まれてくれたことへの感謝の想いを伝えることが最低限にして最重要な親の務めだ。そこは絶対に譲っては為らない。そこを蔑ろにして信仰がどうのこうのと言っても返ってサタンが踏み込んでしまう。自分の信仰観が暫定的なのに、その暫定的信仰観でものを言って受け入れられるはずがない。自分の思いや感情を度外視して愛することが、そして親としての犠牲的愛で投入し続けることが、み言葉を語る以上にみ言葉の本質に従っている。私達の堕落性であり勘違いでもあることのひとつに、わかったつもり、正しいつもりで行動しているというのがある。み言葉がわかったつもり、私の理解が正しいつもりであり、子供に対してもやはり、わかっているつもりであり正しく接しているつもりだ。教会に属する私という認識があり、教会の標準的信仰をもっていると認識しても、事と次第によってはその位置が正しく働かない状況が出てくる。ましてや教会自体が揺らいでいる中でその認識がどれほど役に立つだろうか。善悪判断は絶対的なものではない。正しいか間違っているかを子供に押し付けるのではなくて、子供がどうあれ全てを包み込んで愛するべきだ。私の全てを投入して愛するべきだ。親として出来ることはそれしかない。そうして子供に親の愛が届くなら、彼の中に与えた愛を根とする観が芽生えるはずだ。子供が望むなら別だけれども、親として教え諭すことができるのは愛が動機となっているかどうかであり、しかしその愛と信じているものですら堕落性と勘違いが見え隠れする不純な愛の場合が多いのも事実だろう。純度を高めて真の愛の基準に達するためには、とにかく愛するしかない。愛して愛して愛し抜いて、その永続性の中には偽りは住めないだろうし、偽りが真の愛に代わってくる。

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