2014年5月19日月曜日
今日の想い 745
統一教会ブログ村の数あるブログの中でも、み言葉を中心としたブログは数えるほどしかない。その一つのお気に入りを上げると、御言MISSINGーLINKだ。み言葉をただ載せるだけの受動型ではなく、み言葉の本質を受け取ろうとする意志を見ることができる能動的なブログだ。先輩家庭なのか後輩なのか、隅々まで目を通してはいないので定かではないが、食口の中にはまだまだ本ものがいると確認できて素直に嬉しい。本然の祝福家庭なのか条件的祝福家庭なのかと問いかけられるとき、心と体が闘っていれば条件的なものだと御父様は言われていて、そうすると誰一人として本然の祝福家庭は存在しないということになるのだろうか。勿論祝福家庭全員に問うてみなければならないし、問われたとしても心と体が闘うというその本当の意味すら解からずに答える者もいるだろうから、問う意味があるのかということにもなる。何度か聖酒を戴き祝福を受けたけれども、未だに心と体が闘っている状態を見れば、条件的なのか本然なのかは何の祝福を受けたかによるのではなく、受ける当人次第だと言うことになるのだろうか。後に「あなた達に与えたのは条件祝福だ」と言われたのは確かだ。ではやがて本然の祝福を受ける時が来て、その祝福を受ければ心と体が闘わない自分になれるのかと、教会祝福、国家祝福、世界祝福、そして天宙祝福と受けてきたけれども、しかしそれらは結局条件祝福であった。私にとってはそうだ。そして基元節で再祝福を受け、これこそが本然の祝福だと思っていた。私はそう信じていた。しかし再祝福を戴いて本然の祝福を受けたはずなのに心と体は闘っている。これをどう理解したらいいのだろうか。私達はこれは条件祝福だと念を押されて受けたわけではない。受けたときは祝福に条件と本然があるなどとは思ってもいなかった。祝福は祝福だと思っていた。おそらくそれは御父様もそうだったはずだ。サタンと神と御父様との間で聖酒を飲んだ者は原罪を許すという納得が為された。許されたことは事実だけれども、しかし人間に堕落性があってそれ故にサタンの主管圏から逃れることができない。よって蕩減を払い堕落性を脱ぐのでなければいつまでもサタンの主管圏内だ。祝福を受けた者が蕩減を払っていれば、或いは蕩減を払った者が祝福を受ければ、そこには条件的祝福などと言う言葉は出てこなかったはずだ。私達が蕩減を払っていないから祝福が条件的なものになってしまったと言うことだろう。その意味では私達がいつまでたっても蕩減を払わないので祝福を貶めていることになる。復帰された当時はいとも簡単に、そして突然に地上天国は為せると思った。しかし年数を経るほどに私達の中に堕落性が相当の部分を占めていることがわかり、蕩減を払うにしても自分自身である堕落性が死物狂いで拒む。決して容易いものではないことは年数を経る毎に益々その思いを強くしていった。条件的祝福にさせたのも私達であるなら、条件的祝福になったものを本然の祝福にさせるのも私達だろう。私達の自由意志と責任分担に於いて本然の祝福を勝ち取るのだろう。基元節、D-DAYを迎えるまでに為すべき指示事項があったはずだ。やったのはせいぜい210代の先祖祝福と総生畜献納くらいだろう。条件も供えることができずに基元節の再祝福だけはちゃっかり受けることができるかとなると、それも多分に条件的なものでしかないのかも知れない。
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