2014年5月27日火曜日

歴史時代を越える

私達の希望は何であり、その希望を何処に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしだろうか。豊かな暮らしを未来に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしが私達の希望と言える切実なものだろうか。おそらく統一食口であればその希望は付属的なもので、もっと本質的な希望を持っているに違いない。では子女が祝福を受けることだろうか。そして家庭を出発し祝福三世を見ることだろうか。あるいは氏族がみ言葉を受け入れ祝福を受けてくれることだろうか。しかしそれにしてもそれらの希望は未来に置かれていることは間違いないだろう。希望は未来に置くものだという固定観念が人間の中に既に備わっているからだ。それでは希望を過去に置くという概念はあり得るだろうか。そんな言葉の遊びに付き合えないと一蹴される前に言うべきことは、これははっきりと語られた御父様のみ言葉だということだ。「今まで歴史は未来を見つめてきました。それは希望が未来にあるという意味です。しかし統一教会の希望は未来にあるのではなく過去にあります。ここでの過去は歴史的過去を超越したものであり、現実を代表したものです。過去の結実であり、現在の中心であり、未来の出発基点です。全体を統合した中心です。ですから歴史を超越しているというのです。」この世の中は希望を未来に置いているが、統一教会は希望は過去に置いているというこの意味するところが理解できるだろうか。御父様は歴史時代という言葉を使われるが、現実にはこんな言葉はない。現実をこえた言葉として使われている。歴史時代が終わったと言うこととこのみ言葉は関連しており、歴史時代の範疇にあれば希望は未来に置いているが、歴史時代が終わった歴史を超越した位置では希望は過去にある。歴史時代の過去と歴史を超越した位置で言う過去とは異なり、み言葉にあるように現実を代表した過去となる。益々混乱することしきりだけれども、別の過去があると言うことは歴史的時間軸以外の時間軸が存在していると言うことであり、アダムとエバを始祖とする歴史的時間軸ではなく真の父母を始祖とする歴史的時間軸を超越した時間軸があって、統一食口は全く新しい超越歴史としての歴史の創造加担者であり、超越歴史の先祖だということだ。今までの歴史時代の希望は真の父母を迎えることだった。時代という言葉を機械的時の流れの区割りと認識するから解けない訳で、時代=天の使命を受けた時代霊だと認識しなければならないし、真の父母を迎えたことで一つの時代霊の使命が完遂された、即ち復帰摂理の為の歴史時代が終わったということだ。新たな超越歴史は天宙の中心である真の父母にどう侍っていくかという再創造ならぬ新たな創造摂理の出発となる。よって私達統一食口の希望は豊かな生活でも形だけの祝福理想でもなく、どこまでもどこまでも御父母様を慕い侍る私、強く広く深く御父母様に慕い侍る私になれる希望を切実に抱いてこそ、未来に希望を持とうとする歴史時代の堕落的私を超越できる。

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