2014年5月28日水曜日

歴史時代を越える (2)

普通の人間は未来に希望を置くけれども、本ものの統一食口は御父母様に希望を見る。御父母様こそ希望の実体であられ、よって御父母様に如何に侍り一体となるかが私の希望となる。その論理はわかるとしても現実の私は漠然とではあるが、ああしたいこうしたい、ああなりたいこうなりたいというそれなりの希望を未来に置いて生活している。もちろんその希望が私のみ旨にプラスになるはずだと信じての希望であり、そこに堕落的な動機はないと思っている。しかしそれは歴史時代の宗教が必要な時代の在り様であって、歴史時代を超越した新しい歴史創造の在り様ではないだろう。事実、み旨にプラスになる漠然とした希望を未来に置いて歩むことと、私の希望を御父母様に見て御父母様にどこまでも侍り一体となる歩みとは根本的に異なる、と言うか次元が全く異なる話ではないかと思える。明日こうなりたいとか、将来的にこうでありたいとか、それを全く否定しろという話ではなく、御父母様に侍って一体となりたいという希望を先ず立てること、それでこそ現実の未来に置く希望が成立するし、現実の希望が御父母様に侍り一体となる希望の表現として表出する。もし真の父母が現れなかったら、為に生きるだとか犠牲精神で与えつくすだとかの言葉と希望という言葉は相容れない。真の父母が存在しない歴史時代はそうなる。イエス様の死は確かに人類に犠牲精神を喚起したけれども、どれだけ犠牲的生を歩んだとしても真の父母の子女になるという天の血統圏に入ることが出来、神様との一体理想を成し遂げることは何代を経たとしても至らない。それは、イエス様は真の父母になれずに歴史時代は延長されたままになったと言うことだ。歴史時代はその使命を全うして引退し、歴史時代を超越した歴史の創造が始まったという事実。そして希望の実体である真の父母を戴いているという事実。それが御父母様を慕い侍る私と共にあるという現実。未だふらふらしている私であるとしても、私の片足は確実にその事実と現実に足を踏み入れ、この世的希望を超えた希望を捉えている。み言葉を受け入れ、真の父母に侍る統一食口であるけれども、子供こそが希望だと、それは御父様が血統の重要性を語られ、三代圏を語られ、よって子供の祝福が問題であり、この世的な結婚や肉的に不倫な関係を持たないかと神経をすり減らす。しかし御父様はこうも話される。「復帰の第一基準は神様の息子や娘になるだけでなく、子女の位置を経て、夫婦の関係を結び、真の父母となって新しい血族を立てることです。これが人間の創造目的であり、人類歴史の新しい出発基準になります。ですから国や民族、氏族が問題ではありません。また、息子、娘が問題ではありません。」ここで血族を立てると言われながら息子娘が問題ではないと言われるのはどうしてだろうか。明らかに肉的な血族を意味する言葉ではないとは思えないだろうか。私達は霊的な事を信じる一方で余りにも肉的なことに拘っている。もし子供が何らかの問題を起こしたなら、起こしたことよりそれであぶり出される父母としての態度の方が問題だろう。祝福を肉的教条的に捉えていて、子供を裁き自分を裁き、それが祝福自体をも裁いていることになりはしないだろうか。肉的に捉えれば御子女様達さえも問題があると言うことになる。しかし御父母様は真の父母として何の揺らぎもない。祝福家庭として子供に対する親の重荷を下ろせと言っているのではなく、真の父母に侍り一体となり更なる重荷を負え、より全体の位置に立つ父母としての犠牲の祭壇を供えろと言うことだ。子女が祝福を受けてくれて祝福三世を抱かせてくれて、それで三代圏の達成だと喜ぶのであれば、家庭の父母は立つのかも知れないが家庭の父母を犠牲とする氏族父母、さらに国家父母、世界父母が立つ為には誰がどうやって犠牲の祭壇を供えるのだろうか。御父母様の相対圏に立つべき統一食口としては、自分の家庭に留まってしまうのは短絡的であり自己中心的でもあるように思える。

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