2014年5月6日火曜日
食道(食の道)を考える
食べると言うことが一つの儀式だと述べたことがある。人は食べて肉の糧にする訳だけれども、霊と肉が人間に於いて一体となって関わっている以上食べることも霊と関連があると食口であれば思うはずだが、関係ないどころか食べることは宗教儀式だと私は既に勘付いている。全く当たり前で触れる必要もないことのようだが敢えて触れておくと、人間は起きている(覚醒している)時に食べ、寝ている(無意識)時には食べない。一端食物が喉元を過ぎれば、覚醒意志の必要のない眠る世界である無意識領域の意志に委ねる事になるが、喉元を過ぎるまでは起きた状態で自らの意志が必要で、さらに食べると言う意志を持たせる動機がどうなのかまで問わなければならないだろうし、この動機が霊的なものと直結している。動機がただ腹を満たすだけ、あるいは味覚的欲望を満たすだけだと言うなら、動物とさして変わらない肉的に生きる感覚人間であり、霊的な人間であることへの大部分を蔑ろにしていることになる。上体を起こした時に食べ、横になっている時には食べないというのも、マナーのように思えるけれども霊的な関わりがあって、そこに横的に食べるか縦的に食べるかという動機を問われている。御父様は食堂の食口と、レストラン部の兄弟達をそう呼ばれたけれども、食堂が食道になって、どう食べるかで霊的感性を発達させ、どう食べるかで霊の位相を高め霊的体験をするまでに至るとするなら、レストラン部として御父母様の願いの中心的部分に応え、統一的食事文化の基礎を築くことができるとまで思っている。今一つ別の側面から食べると言うことを考えると、「取って食べる」という言い方がある。「食べる」事と「取って食べる」事は同じ食べると表現するように関連性があるはずだ。「取って食べる」とは性的関係を結ぶことだけれども、口で食べるのは肉に直接的影響を及ぼす訳だが、性的に食べれば霊に直接的影響が及ぶ。食べればいいと言うものではなく、良く食べなければならないし、良く食べることを訓練しなければならないのは肉的に食べるのも性的に食べるのにも言えることだ。そして肉的と性的は相通ずるものが必ずあるはずで、その関連性を紐解いて行けば霊的に堕落したものを肉的な象徴として理解できるようになり、如何に霊的に成長していくかもそれを通して理解できるようになるはずだ。食道がただの医食同源に留まることなく、霊的なものにまで触れて入りこむまでになれば真の食道と言えるのではないだろうか。
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