2014年5月17日土曜日

今日の想い 733

「人の噂は屁のようなもんじゃ。人を活かしもせんが殺しもせん。世の人は我のことを何とでも言え。我なすことは我のみぞ知る。」(坂本竜馬) 前半は司馬遼太郎が付け加えた言葉だが、後半の言葉は竜馬本人が書き残している。妻が急に若いときに読んだ竜馬の本を読みたいと言いだし、早速取り寄せて読んでいる。その中の一フレーズをメモしていて、私に言い渡したのがこの言葉だ。人は人の目を気にする。人が私をどう思うかを気にする。特に個の意識より集団意識が多くの意識分野を占める日本人はそうだ。私も日本人であって人一倍人の目を気にして行動している。集団意識の占める割合が多ければ多いほど自己中心的なものから遠ざかっていくかと言うと、事実はそんな単純なものではない。集団意識の中により複雑な形で自己中心的なものが入り込んでいて、意識上は他の為に生きていると認識しながら、意識下の領域で我のみを溺愛する自己中心がメラメラと燃えていたりする。日本のアベルカインは間違っていると指摘されたことがあるが、それはアベルのカインに対する在り方、中心者の兄弟に対する在り方の問題だと思っているけれども、アベルに対する在り方、中心者に対する在り方の問題でもありそちらの問題の方が大きい。兄弟は中心者が絶対権力を持ち何を指示されても逆らえないと内心深く思っている。しかし実は逆らうことを善しとしない私の意識が、ありもしない絶対権力を中心者に持たせている。中心者を御父様の代身として立て、その中心者に対して従順屈服するのは当たり前だと思っているが、それは心霊基準が低い間は頷けるとしても心霊が成長し高まるにつれて従順屈服する対象は次元を上げていくべきだ。逆らえないという否定的感情が芽生えている時点で本来はアベル的存在の位相は変わるべきだ。親子はいつまでも親子で親である私は変わらないと思っているけれども、子供が成長するに従い親も変わるべきで、さらに老いては子に従うと言うように逆転もするし、親にとっては親を卒業できる喜びこそ親の本当の喜びだ。教会生活によって青春を奪われたとか、虐げられたとか、今になって矛先を向けているけれども自分が成長できずに表面的に言いなりになっていただけのことだ。そういう者達は内面の奥深くに隠していた自己中心的堕落性が噴き出している現実を悟らなければならない。御父母様は日本食口の苦労を事ある毎に慰労して下さったし、その苦労を精誠の供え物として受け取られ誇りにもされた。しかしその一方で更に大きな要求もされ追求も半端なかった。苦労する者には更なる苦労を課せられ、それは御父様が私達日本の食口を愛しておられるからだと言いくるめられて殉じてきた。その実りを今本当に外的環境にも内面にも見ることができるだろうか。今こそ教会体質の在り様を一度清算して次に進まなければならない時に来ている。ここまで来てさらに盲目のまま突進してどうなるのかと真摯に考えなければならない。未だ私達全体にやらされ感があるとするなら、それはせいぜい僕の基準に留まったままだろう。環境創造も当人が受動的である限り創造の主人には決してなれない。御父様の半端ない要求の本当の願うところは私達の位相が高まり、次元を上げていくことだったはずだ。私達が私達の自由意志をして次なる位相に目覚めるべきだった。子女の自由意志と責任分担に加担できない親が親を飛び越える程の成長を願う叫び、我が子を千尋の谷へ突き落してでも成長を願う想い、私達はそれを、桁外れの実績を追求される御父様の目の奥に見るべきだった。霊界に行かれた御父様の地上にいる私達に対する意味は、汎神ならぬ汎御父様だと私は思っている。天正宮に訪ねなければならなかった御父様が聖和されて私達一人一人の中におられ、心の奥を訪ねれば御父様が居られ語りかけてくださる。だから私の心の奥を訪ねることで、我なすことは我のみぞ知ると言うことになる。

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