2014年5月15日木曜日

イメージとしてのアダムとエバからより本質のアダムとエバへ

エバが堕落する時、アダムは何も知らずに蚊帳の外の存在だったのだろうか。森の中を走り回り、被造万物にだけ関心を持ち、エバには目もくれなかったのだろうか。始祖でありながら何とも幼いと言うか呆けた存在のように思えるのは私だけではないだろう。エバが他の存在に向かったのは当然だとさえ思えてくる。さらにエバが堕落してアダムを誘惑したとき、いとも簡単に落ちてしまっているようで、アダムの幼さと馬鹿さ加減が更に増してくる。実は創世記には堕落以前の様子が記されているけれども、私達に取ってはアダムとエバが想像できる人間アダムとエバとして存在していて、先ずそのイメージありきで堕落の様子を原理的に理解するようになってしまったから上記のような素朴な疑問が湧いてしまう。創世記によれば、先ず人が造られて戒めを与えられ、それから女が人から造られたこと。二番目として善悪を知る木は食べるに良く目には美しかったが、エバが造られる前に既にいろんな食べるに良く目には美しい木が存在していたこと。三番目として人は全ての存在の命名主であったという事と、一連の堕落の間は女とだけ記されていたエバをエバ(人類の母)と命名したのも人だということ。この3点を読み解きながら本質に迫って行きたい。最初のどうして女を造る前に戒めが与えられたのかを考えると、原理によれば善悪を知る木は完成したエバを例えて言った言葉とあり、それは生命の木が完成したアダムであるからという理由以外の理由は述べられてはいないが、アダムはエバを通して生命の木として完成すべきであり、それからエバはアダムを通して善悪を知る木として完成すべきであったはずだ。勿論それはアダムとエバが人間的に交わるのではなく、神様によって出会い、出会ってから一体となる必要があったと思う。前にも記したように縦的に出会うのであって横的に選ぶのではない。女を造る前に戒めが与えられたのは、霊的存在がエバと命名される女を造る以前に既に存在していて、人はいろんな霊的存在との関係性から地上概念を創造したように思える。それが園のどの木から取って食べてもよいと言う記述だ。全ての存在の命名主であったとはそういう意味で、既に存在していて名前を付けただけと言うのをわざわざ聖書に、それも創世記に記す必要があるのかという疑問だ。さらに取って食べていい他の木は物質的に食べる果実で、善悪を知る木だけを特別な意味での取って食べる果実と言うのもどうも合点がいかない。私は創世記の全ての事柄は霊的に捉える言葉であり、一つとして物質的に捉えるべきではないと思っている。女がエバとして地上存在になったのもアダムが関係性をもったから完全な地上存在になり、よってアダムはエバ(人類の母)と命名した。前にも記したが、聖書には天地創造される第六段階で、「神は自分のかたちに人を創造され、すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」とあるが、原書には男女に創造された、すなわち二性同一体として創造されたとある。人から取った肋骨でひとりの女を造って連れてこられたのは、第七日に休まれた以降のことだ。そして創世記第4章の書き出しには、「人はその妻エバを知った。」とわざわざ記してある。それは取って食べることと知ることを分けていると言うことであり、それは取って食べることは一体化を意味し、知ることは生殖行為を意味しており、肉的堕落は霊的堕落した女との一体化の結果と見てとれる。これらの考察は決して根拠のないものだとは思っていないが、私の独断と偏見には違いないとしても、森の中を裸で走り回るアダムとエバのイメージよりはまだこの世の知者を振り向かせるものがあると思っている。

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