2014年5月8日木曜日

事故に思う

原因も結果も一通り知れ渡るところに至った今だから、事故について触れることが出来る。全ての事故について言えることだけれども、外的原因と外的結果だけを見てそれで終える(納得する)ことができるかというと難しい。それは事実の一角であり、その外的認識の背後に内的霊的内容の多くの事実が秘められている。とりわけ被害者家族や関係者は感情的に治まらないものを長い時間をかけてこれから解決しなければならないが、彼らの問い詰めていく意志を中心として事故の事実という本質が地上に浸透していく。家族にすれば外的原因をどれだけ説明されても憤りや悲しみは治まるどころか燃え上がり、或いは更に冷たく凝固するだろう。どうしてうちの子供が巻き込まれなければならなかったのか己の心魂の存在する限り問い詰めざるを得ない。内的霊的事実はそういった犠牲を払いながら受け取るものであり、霊能者が簡単に口にできるようなものでもないし、蕩減だと一言で片付けられるものでもない。悲惨な事故が起こり、被害者や家族の心苦しい想いを察する度に、御父様の建てられた祝日が心に思い浮かぶ。それは他でもない愛勝日だ。彼らの感情を根本的に解放してくれるものが、この愛勝日の宣布であり愛勝日のみ言葉だと思っている。愛する家族が打たれ犠牲になれば、憤るし悲しみに暮れるのは当然だ。それが地上の現実と霊界の事実の両方に存在を広げる心魂存在である人間の有りのままの姿だ。心魂活動、特に感情の部分で肉と霊が相矛盾する噛み合わない葛藤を噛み合わさなければ肉と霊が分裂してしまう。その肉と霊の相克を御父様は愛でもって超えられたのであり、よって愛勝日を宣布された。そこには犠牲という私達の概念が見事なまでに愛の喜びの概念として生まれ変わっている。犠牲という忌々しい言葉が祝福の言葉に変わっている。事実御父様は子供の死を感謝されて、その高次元の喜びは人類の救いをその死でもって勝ち得たという喜びであり、それは子供の父としての御父様ではなく人類の父としての御父様であり、その位置に立たれる為には死に逝く子供自身が何のわだかまりも無く御父様の喜びを共に喜ぶ父子一体圏が必要だったはずだ。痛ましい事件をいつ果てるとも知れない時間に委ねるしかなかったものが、御父様の愛勝日によって愛で乗り越えることができることを示された。生きて地上に存在しようが肉体を離れて霊界に存在しようが、父子一体圏、親子一体圏は為し得るはずだ。悲しみ切なさで向かうのではなく、犠牲がどれほど高次の愛と生命を地上にも霊界にももたらしたかを得々と語りかければ昇華した晴れやかな想いが届くはずだ。被害者家族に対して、愛という言葉はわかった風に軽々しく使うものではないけれども、愛の本質である真の愛でこそ乗り越えることが出来る。愛する戦いを勝利した者に対しては、人類全てが、全ての霊人達が頭を下げる。

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