2014年5月9日金曜日

今日の想い 730

「女性は男性に出会わなければならず、男性は女性に出会わなければならない。」このフレーズはいろんなみ言葉の中に見出されるけれども、軽く素通りしてしまいがちだがよくよく問うて見るべき内容がある。「出会って一つになり、そこから子女が生まれてこそ、平面に神様が着陸される」訳だが、出会おうにも周りに男性も女性も溢れているのであり、女性は男性を、男性は女性を数多存在するそれらの中から選ぶのではなく出会うとはどういうことだろうか。祝福家庭であれば自分で相対を選ぶのではなく御父様によって私の相対に出会わされたという認識が当然あって、だからこのフレーズに何の違和感も覚えないのだが、二世に取ってはどうなのかという祝福の直接の問題がある。選ぶとなると本来の相対には出会えないとすると、どうしたら出会えるのだろうか。二世祝福も親が決めるとしても親ですら選ぶのであり、それが子供に取って出会ったことになるのだろうか。御母様は御父様にとって最初の相対圏に立った御方ではないことは誰もが知っている。そうすると最初の、あるいは二番目に立たれた相対は本来出会うべき御方ではなく御母様こそが唯一出会うべき御方だと断定してしまうと、御父様ですら出会いによるのではなく選択してしまい間違われたのだと言うことになる。しかし正しく出会わなかったのではなく御父様の相対としての使命を全うできずに次なる摂理を用意されたのであり、再臨のメシヤとして真の父母となるべく第一優先的使命があり、最初から紆余曲折なく勝利される御母様に出会うのに何の問題もないなら実に簡単な復帰摂理だと言うことになる。アダムとエバが真の父母になれなかった現実、気の遠くなる歴史を費やして準備しながら、それでも結婚すべきイエス様が結果的に相対を迎えることが出来なかった現実、それは正しく出会うことの難しさを歴史が証明している。御父様が勝利される御母様に出会えたのは奇跡的であるし、私達が祝福を受けて相対に出会えたと言えることは奇跡に近い内容がある。出会うとは既に特定された相対が既に存在していてそれを見つけるのではなく、ましてや選択するのでもなく、出会ったと言える相対になる意志と相対にする意志が私の中に縦的位置から発せられ夫婦一体圏となれば出会えたと断言できる。アダムに取ってはいつエバに出会うかという自由、或いは出会わないという自由もあったけれども、エバ以外と出会う自由はなく、既にエバに出会うことは決められていた。しかしエバに取っては少なくともアダムとルーシェル、さらに他の天使とも出会う自由もあり、いつ出会うかという自由もあった。アダムは時ならぬ時の行為という堕落の可能性はあって、事実それで堕落したのだが、エバのように誰を取るかという選択の自由はなかった。よってエバこそが横的な選択という自由意志を手にしていた。しかしエバが選択ではなく出会うためには縦的な天の意志が関わるべきであり、横的な自由意志に任せてしまうと出会うのではなく選択となる。エバは縦的な意志より横的な意志を優先したために堕落へと突き進んだ。親が子供の相対を決めるとしても親の横的な意志が入り込む選択であってはならず、縦的な天の意志が関わる出会いでなければならない。御父様が聖和される以前から、親による祝福マッチングは許可されているけれども、御父様が地上におられない今、選択ではなく出会うマッチングとなるためにはどうしたら縦的な意志が働くことが出来、正しく出会うことが出来る器を地上に用意できるかが私達に問われている。

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