2014年6月30日月曜日
今日の想い 761
距離を置いてしまう食口の中に、一つの言い訳として真の愛がわからないというのがある。絞られるだけ絞られてきたし、さらに骨身を削ってまで活動もしたし半端ない献金もしてきたのに、さらに苦労を要求され続けて、それが真の愛だとは思えないと思っている。真の愛とは何なのかという観点ではなく、単に要求され続けて結局自分の感情を満たしてくれるものではなかったという嫌気感、失望感から真の愛がわからないという言葉を吐いたに過ぎない。要するに他の為に生きるとか、犠牲的精神に立つとか、結局それらは方便で、根底に於いては神様を信じれば、或いは祝福を受け入れれば、真の愛を受けることができ天国という幸福の境地に連れて行ってもらえるはずだという受動的な信仰態度が居座っている。既に、絶対的愛としての真の愛など私の中にはないし、私から真の愛を与えることなどあり得ないという見地に立っている。統一食口は神様と真の父母の証し体だ。私達をして人々は神様を体験するのであり真の父母がどんな御方かを知る。要するに私達は愛される為に存在している前に愛する為に存在している。真の愛を受け取れない、真の愛がわからないと言う以前に愛を与えようとし、為に生きて犠牲を差し出し、相手が復活して生きることを通してこそ真の愛を実感すべきだ。愛は相対関係からしか感じ取れない。親の愛は親になって愛して真の親の愛を知るように、夫婦の愛は夫婦になって夫を愛し妻を愛して真の夫婦の愛を知るように、愛するという能動的愛を意志してこそ真の愛を知るようになる。真の愛はわかろうとするものではなく、与えて理屈抜きに愛してこそ感ずるものであり、感じてさらに与えようとする衝動に、この愛に神様からきた真の愛が宿っているのを実感する。統一食口として切実なのは、真の愛がわからないということではなく、愛するべきなのに愛せないということの方が切実だ。真の愛がわからなくて自分が距離を置いてしまうのは自分を説得することで解決できるかも知れないが、愛さなければ神様が離れていく。私達が御父様の息子であり娘であると断言するなら、御父様が愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れられたように、私達も同じように愛して忘れ、愛して忘れ、さらに愛して忘れてこそそれを証しできる。私達統一食口は愛の開拓者だ。見せて誇れるものはないし必要もないけれども、私が愛の開拓者であることは天宙に自負できる。常に愛の開拓者であってこそ天の父母様に報告祈祷ができ、過ぎ去るこの一瞬にも神様は尋ねてこられる。
今日の想い 760
霊界の死が地上界への誕生であり、地上界の死が霊界への誕生だ。原理は輪廻説を否定する立場を取っているから、霊界で死を迎えて地上存在になるという言い方はおかしいかも知れない。しかしはっきりと霊界から地上に生まれたという言い方を御父様はされたことがある。しかしその記述がみ言葉の何処にあるのか定かではないのだが、、。一般的に理解されている輪廻説を肯定してしまうと、餓鬼になったり畜生になったりと、行いによって人間以下にされるという私を裁く存在を肯定することになり、真の愛の神様であることを否定するか、あるいは善悪二神論を肯定することになる。魂が完成するまで六道を巡り巡っていく宿命的な心魂であるなら、そこに人間の自由性はなく原理で説明される地上での蕩減も責任分担も宿命に圧されてほぼ意味を持たなくなる。私が思うに、輪廻説は霊(精神性と言った方が誤解を産まないかも知れない)の認識のない、霊人体が霊的形すら見ない地上人間を、霊形体以上への成長を願われて心魂の限定的事実をして教育する段階的真理だと思っている。しかしより内外の知を得た者に対する新しい輪廻説が説かれるべきで、それを原理で言うなら協助で説明できると思っている。私達は宿命的なものを抱えて地上に生まれていることは事実だ。男性として生まれたか女性として生まれたかもそうであり、堕落の血統圏から生まれた事実もそうだ。ようするに既に蕩減すべきものや責任分担としての使命的内容を抱えて生まれている。それは血統を通して受け取るものであるけれども、外的血統を通して受け取る蕩減すべきものの他に内的霊的血統を通して受け取る使命的な責任分担がある。協助は先祖の協助で得る蕩減的な協助と、過去の精神開拓者の協助で得る責任分担的な協助がある。イエス様の大きな使命は背後に内的霊的血統としての仏陀の協助と、ゾロアスター教の創始者の協助が二大協助としてある期間活動している。御父様の使命にはイエス様の協助がある期間活動していたことは容易に理解できるし、イエス様の協助を得ていることは二大協助も得ていることになる。御父様が血統という言葉を使われる場合、外的血統ではなく内的霊的血統として使われる場合が多く、それを理解しないと、協助は先祖からと思ったり、協助は蕩減的なものの解決だと思ったり、さらには苦労するのも、思うようにいかないのも、協助を得られないからだという発想になる。事実は御父様の願いに生き摂理を担当する以上、神の願いに生きた精神開拓者の協助を得ているから苦労するのであり思うようにはいかない。外的にはうまくいかないとしても、内的霊的協助を得ることで外的な苦労を消化して余り得る力を得ている。それは霊形体にもならない霊人体が形を持ちたいと、六道を巡り巡って呻吟する心魂とは比べ物にならないステージに立っている。私達は心情に於いて御父様と一つになり、そこから芽生える霊的感性からあらゆる霊的事実を認識できるようになる。教会の外的な現実、御家庭の外的な現実のみをどうこう言う前に私が御父様とどれだけ一つになっているか、御心情を相続しているかが重要であり、一つにもなれず心情も相続されず、よって霊的事実も知らないままの自分をして批判したり判断したりするのは間違っている。
2014年6月28日土曜日
今日の想い 759
日本民族に流れてきた血の中に、確かに人類に誇れるものもあるだろうけれども、忌み嫌われるものもあるはずだ。今の日本は自由の風が吹き、平等の意識が誰にでも備わっているけれども、少し世代を遡れば陰湿なものが流れていたことを知っている。人格軽視の重く暗い空気が覆っていたのは他民族にあまり見ない特徴的なものだった。村八分もそうであり、上下関係は特に陰湿度を増していた。鬼畜米英とは言ったが日本こそが鬼畜で、命令する方は鬼であり命令される方は畜生だ。それは戦争時の軍隊の体験を聞くまでも無く、日本の教会の中ですら摂理の名の下に活動するには軍隊組織に近いものがあり、陰湿だった部分が全くなかったとは言えない。それでもそれはそれで日本が神側に立ち、さらに母の国として立つためには避けては通れない犠牲だったのかも知れない。サタン側の立場で繰り広げられた経緯を神側の立場でも繰り広げたと言うことだろうか。年寄りは戦争当時の体験をできるだけ避けて、敢えて語ろうとはしない。人格軽視がまかり通り、上官の命令には非人道的であっても従わざるを得なかった。前線で戦った世代は否応無くやらされた非人道的行為が、心魂の奥に癒せない傷となって残っている。慰安婦が強制的に連れてこられたとは言えないとしても、軍の施設に併設された慰安所だけはその畜生的な扱いはなかったはずだと言うのは無理がある。確かに事情があって連れてこられたのであり、軍の直接的関与があったとは言えないまでも、日本人間に於いても畜生的扱いがあったのと同様に、それなりの人格無視の扱いがあり、特に戦時下という日本の陰湿度が増した空気の中で、慰安婦と言われる人々にあり得たであろうことは容易に想像できる。強制的に嫌がる者を連れてきたと言われることについては、それは違うだろうと日本人として異を唱えたいところだが、強制的なものではなかったと言い張るだけでは彼らの霊も心魂も癒されることはない。日本の経済成長は、最初は俄か景気だと思われたものがあれよあれよと時の過ぎるままに高度経済成長と言われるまでになり、国力は一気に増した。み言葉を知っている者であれば、それが摂理的使命を帯びたからこその成長であって、自国の富として囲うことがあってはならなかったことを知っている。しかし抱え込んでしまって隣国への配慮が無かったため、そのバランスを取る為に日本食口に皺寄せがかかったと言ってもいいだろう。日本の中枢の中に、摂理的な時代要求に敏感な者が少しでもいたら、日本食口にここまでの皺寄せは無かったはずだ。日本民族は日本食口に対して莫大な負債を抱えている。その清算は霊界で為されるだろうし、未来の日本において私達の後孫に対してもその清算をすることになる。日本民族が残ることを許されるのであれば、日本国存在の土台となって精誠を尽くした日本食口こそ精神的柱だとして日本人が仰ぐので無ければ、御父様が何度も言われたように日本は太平洋の藻屑となって消えてしまう。
2014年6月23日月曜日
今日の想い 758
仕事を一段落させて帰ってみると、玄関ドアの隅にムクドリの雛がうずくまっている。鉄筋8階建てのアパートにも拘わらずどう迷い込んだのか、逃げ場のない閉め切ったアパートの通路に雛の音が響いている。おそらく誰かがベースメントのドアを開けっ放しにしていたせいだろう。そのドアを入って右突き当りに私の部屋はある。だからそこが雛の落ち着きどころだったのだろう。何とか追い遣ってドアの方へ誘き出そうとしたが、逃げ回りながら私の股を掻い潜って部屋の並びのある逆の通路側へと走り飛んでいく。そのままにして置くしかないと思い、一端は部屋の中へ入った。でもやはり気になる。暫くして、どうしてるかドアを開けてみると、開けたドアの隅にうずくまっていた。その場所がどうも落ち着くらしく、追い遣ったにもかかわらず戻っている。私は意を決してかごに代わる入れ物を手にして捕獲作戦を決行した。雛と言えども結構飛び回る。決して高く早く飛び回るわけではないが、それでもベースメントの通路を数往復した。他の住人が出てきた時どう対応しようか、あるいは黙ってそのまま捕獲に集中するか、そんなことを考えながら、、。そしてやっと捕獲した。捕獲した入れ物の中でばたついている。隙間から逃げないようにしっかりと抱えるように体で覆って、ベランダのドアを開けて逃がしてやった。ベースメントだから飛び立たずともそのまま茂みに隠れられる。一安心してソファーに落ち着いた。妻が、恩返しに来るよと冗談めかして口にした。しかし話はここで終らない。本当に恩返しに来た。いや、また舞い戻って来た。夕方近くなってドアの方でギャ-ギャ-音がする。ひょっとしたらと思ってドアを開けてみると、案の定ドアの隅に雛がいる。確かに先ほど逃がしてやった同じ雛だ。ベランダから外に出したのに、どうして締め切ったアパートの中に、それも建物内の全く同じ場所に戻ったのかわからない。雛に帰巣本能があってドアの隅を巣だと思っているのだろうか。早速先ほどの入れ物を手にして再度の捕獲にかかろうとした。その時、雛は飛び立って開けたドアから部屋の中に入り込んでしまった。一瞬遮ろうとしたけれど遅かった。良いことをしたとばかりに持ち上げてくれた妻が、今度は私を非難した。菌を持っているから早く見つけて出してくれと責めた。その態度には関わらず、物で溢れている部屋の何処に隠れているのか、四つん這いになり視線を床と平行にしながら隅から隅まで探した。テレビの台と壁に挟まるようにうずくまって動かないでいるのを、やっとのことで見つけた。流石に今度はしくじれないと、小さな隙間にも入る入れ物を見つけて狙いを定めると素早く確保した。しかし狙いどころが悪かったか雛の首が入りきれず首を押さえ付けて絞めるような格好になってしまった。何とか押し込んで幸い傷は負わさなかったが、不手際に心が痛んだ。今度は帰ってくるなとばかりに、わざわざ茂みの近くまで持っていって放してやった。その後、夜床につくまで、ドアの隅に蹲っていた姿や、首を押さえてしまって苦しそうな様子を忘れることができなくて、私の胸を締め付けた。またドアの隅に帰ってこないか、元気に飛び立てるのか、小さい頃、熱を出し大病を患ってベッドに蹲っていた息子の姿と重なって、この感情を一体どうしたものか扱いあぐねていた。
2014年6月22日日曜日
今日の想い 757
天国は家庭がその基台にある。確かにその通りだ。その思いがあるから今の自分の家庭状況が優先的な現実問題としてある。人情に立てば当然で、夫婦円満でありたいし、子供には信仰を持って欲しいし祝福も受けて欲しい。理想的な祝福家庭でありたい。しかし現実は過酷だ。自分の思う理想の通りに事は運ばない。天国とは程遠いところに自分の現実、家庭の現実がある。夫婦円満になれる道を模索したい。子供が信仰が立ち祝福を受けてくれるように躍起になってしまう。それは最優先事項で、祝福理想家庭としてそれなりの基準にならない限り、摂理だと言われても、あるいは摂理だと思っても、そこに完全投入できなくなる。それはそれなりに理解できる。人情として理解できるが果たして御父母様は理解されるだろうか。家庭の問題があるなら、食口が摂理に対して完全投入できないのは仕方ないと思っておられるだろうか。御父母様の御家庭には更に大きな現実の問題があることは食口の誰もが知っている。引っ掛かっているその問題が解決されなければ摂理には向き合えない、御母様はそのように思って摂理に対して一歩引かれているだろうか。御父様もそうだったけれども御母様も全く逆で、御家庭の問題の認識すらないと思えるほど摂理に対して完全投入しておられる。おそらく祝福家庭である私達の試練はここにある。家庭の事を最優先して摂理に対して献身的に向き合えないという問題だ。家庭の問題は放って置けと言われたことは勿論ない。だからそれはそれで抱えながら、御父母様の願われる摂理への責任も抱える。だから私達は、問題を解決して欲しいと祈るのではなく、問題は私が解決しますからそんなことは心配しないで下さいと祈るのが筋だろう。ある分派の教えによって夫婦の問題が解決したとか、子供達が見違えるように変わったとか、中には健康さえも取り戻したと言うのもある。それでみ旨に前向きになれるのであれば受け入れて当然だと、これこそ神様の計らいだと思うのかも知れない。統一食口の正道は御父母様がそうであられるように犠牲の道をどこまでもいくのが正道だ。個人でも家庭でも、歴史時代を越えて、御父母様と共に新しい歴史の創造に加わるならサタンの誘惑を切って捨てなければならない。その試練は統一食口としての或る覚悟が要求される。死生決断だ。私がボロボロになろうとも、私の家庭が犠牲になるとしても、それでも笑って摂理の願いに邁進する。その決意と覚悟だ。
2014年6月20日金曜日
天使長が外的だという意味
「神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造された。」「天使と人間が創造された順序を見ても、外的な天使長が先で、内的な人間が後であった。」(第五章メシヤ再降臨準備時代、第一節より)原理にはっきりとそのように書いてある。天使長は外的であり人間は内的だと、、。天使長は霊的存在であり肉眼では見えない存在だ。その霊的存在を外的だと言う場合、人間の肉身に対して外的だというのではないはずで人間の何に対して外的だと言っているのだろうか。私達は霊界と霊の存在に対して余りにも穿った見方をしている。はっきり言って私達は霊的無知であるから、無形実体世界である霊界や霊人体を説明されても、あるいは霊的堕落に始まる霊的な事柄を説明されても、取り敢えずは想像として理解する以外ない。しかし霊的知を復帰しながら想像から霊的感性による理解にかえていくようになる。私という存在を概観すれば、生きた肉体が存在しており、肉体の他に知情意の活動を為す生きた心魂が存在しているのはわかっている。しかし心魂はそのまま霊とはならない。御父様が「魂と霊を混同している。魂と霊は違う。」と話されたとおりだ。肉体があって心があるというのが唯物論者の認識であり、心魂があって肉体があるというのが唯心論者の認識であり、霊があって心魂があって肉体があるというのが宗教者の認識であり、み言葉の観点に立つと肉体には肉心があり霊人体(霊体)には生心があって、本来は神が臨在される生心に肉心が呼応して肉体を動かすのであり、生心と肉心をまとめて心魂とするなら心魂があって霊体があり肉体があるという認識になる。宗教者の認識によるなら天使長は人間に対して外的にはならない。しかしみ言葉の観点に立つなら、神臨在される人間の生心に霊体は主管されるので、霊的存在の天使長は生心を中心として活動する人間に対しては外的ということになる。しかし堕落人間は本然の人間としての霊性が開発されず生心の認識が不足であるために、霊的存在の天使長に、より内的主体的な立場を譲ってしまっている。主管性転倒が起こっていてその主管性の復帰の歴史が今日まで続いてきたのであり、私の心魂をして天使長に対する主管性の復帰を見なければならない。生心という概念が把握されて初めて、完成段階に至った人間は外的対象的存在である天使長に対して内的主体的だという論理が立つ。人間は本来、地上界に対しても霊界に対しても主体的位置に立つように創造された。
今日の想い 756
み言葉に対する百の論理や百の解釈よりも、神様を想う一筋の涙の方が遥かに尊い。み言葉を訓読して涙の御心情を尋ねる意志を覚えないとするなら、それはいつも言っているように、み言葉の本質ではなく鞘の部分をなどっているに過ぎない。み言葉の本質は心情だろう。言い方を変えれば涙だろう。涙は理屈では流れない。確かに減少感からくる涙もあれば悔し涙もある。それ自体は自己を愛する涙かもしれない。しかしそうであったとしても、そういう涙も理屈では流れない。自己を愛する涙であっても涙は涙で美しい。それは神様御自身が涙を流し続けてこられたからだ。あまりにも泣かれて、あまりにも涙を流し続けてこられたから、神様は涙そのものになられてしまった。だから誰でも涙を流せば、その涙自体が神様だ。自己を愛する涙だろうが、他を愛する涙だろうが、そんな区別もつかないほどに神様は涙そのものになられた。もし統一食口以上に涙を流してきた者がいるなら、神様は食口と共におられる以上にその方と共にある。涙を流してきた方に対しては、私達は素直に頭を下げるべきだ。道端にでも涙を流している者がいるなら、心情を語る食口であるなら素通りすべきではない。電柱を抱きしめてまで涙を流されてきた御父様であり、襦袢がぐっしょり濡れるほど一晩中涙を流されてきた御父様であり、その御父様を慕い侍る息子であり娘であるなら、あらゆる生活の場面に御父様の涙を感じて、共鳴するように涙を流す者となって当然だ。夫婦の間に涙はあるだろうか。親子の間に涙はあるだろうか。食口達に会えば涙が流れるだろうか。もしそうではない私であるなら、私の中には冷たい血が流れている。冷たい無機質の血が流れている。私が涙を流すとき、私の中には暖かい血が流れているのを感じる。生命溢れる躍動の血流だ。訓読しながら涙を流し続ける姉妹がいる。み言葉の理屈は何もわかっていなくても、彼女はみ言葉の本質を受け取っている。み言葉の本質は心情だ。そして神様の涙だ。
今日の想い 755
地上で平面的にのみ移動するように、ただ流れる毎日を送るだけでは地上生活は内的にも平面に留まってしまう。この平面的な地上生活で何を積み重ねれば縦的な神様に届くのか。それを積み重ねることで縦的に昇り縦的な神様に近付ける何かとは何だろうか。人間は地上では翼を持っていない。翼を持たない肉体の意味は、汗と涙による何かを積み上げることで塔は内的に築かれ、天に近付くことができるように思う。かつてレンガを積み重ねて塔を築き上げ、天に昇って神に近付こう(意識の次元を上げよう)とした者がいる。バベルの塔のニムロデだ。意識の次元を上げて辿り着く世界は本来心情世界であるはずが、堕落した人間達が一つになってレンガを積み上げるという、サタンを中心として一体化することで神の完全不在の意識世界が為されようとした。それで主は下り、堕落人間が一つになれないように言語の混乱を引き起こさせた。そうしてお互いの意思疎通が為せないことで一つになれず、サタンを中心とする意識世界の創造は果たせなかった。人間の霊人体が住む霊界環境とは何だろうか。愛で呼吸し愛の四方性や愛の上下位置が決定されて霊界の時空が現れる。愛の上下関係、すなわち父子の愛の柱を立てない限り、住む霊界の家としての霊界天幕(環境)は現れない。人間は精誠の塔を築く以外に意識の次元を上げることはできない。霊的には柱が立たず霊的存在空間が現れない。もし私達が、全体的には地上天国実現、個体的には神人一体理想を、翼の羽ばたきで到達するかのように、或いはレンガを積み重ねること(例えば日にちを送るだけとか、お金を捧げ続けることだけとか)で到達するかのように思っているなら、それは大きな間違いだ。私達には確実に供え届けるべき何か、地上的に積み上げるのではなく与え続けて内的に積み上げるべき何かがあるはずだ。それこそが精誠だ。それは地上だけのことを考えるなら、形にならない虚しいものに映るかも知れないが、霊的には確実に精誠の塔として築き上げられるはずだ。精誠の柱が立つはずだ。心情は心情でしか誘発されない。霊界が愛で満ちる心情世界であるなら、地上生活でどれほど精誠の宝の山を積み上げるかで霊界環境は変わってくるはずだ。心情を込めた精誠こそが天の計らいを誘発する。
2014年6月19日木曜日
分派を考える
その時その時に霊的に使命を帯びた者が登場してきた。それは摂理推進の役割を担って現れ、最初は善神として働くわけだが、使命が終わって尚その位置に居続ける為に悪神となってしまう。悪神の業が多くなるにつれて逸脱していく訳で、その用いられた位置が大きく影響を与えていればいるほど後々その副作用も大きくなってしまう。だから当人は或る期間内の限定的摂理人物であり、限定的使命者であることを悟らなければならず、使命が終ったにも拘わらずその位置に居続けるものだから悲惨な運命を辿るようになる。分派だと言われるようになった時点ではとっくに使命は終わっている。様々な分派の元となった者達にもともと悪神の業が働いたとは思わない。天使長がみ言葉をよくよく理解していてアダムとエバの保護や教育を任されていたように、彼等もそれなりにみ言葉を理解していて摂理を進める為に用いられた部分がある。しかし理解は限定的であり、用いられた位置を失うまいとしてその限定的理解に相対する段階的な霊(彼等にとっては聖霊)が役事して一念発起する。天使長も同じだ。アダムとエバに対して教育する位置から逆に主管される位置になるということを知っていたので、その位置に固執した。天使長がエバに神のように賢くなれるからと言って誘惑したように、分派も食口に対してみ言葉を利用して教会に対する異を唱えるべく知恵を授け、食口の不満や減少感にかこつけて教会から愛される以上に接して愛して囲う。それが偽りの愛だとは気付かない。ここアメリカにも分派の波が押し寄せている。UCIが最も影響を与えているがその他の分派も少なからず波風を立てている。ウエスタンメンバーは良くも悪くも自分の信仰が確立していて、清平ですら最初から懐疑的だからUCI以外の分派に耳を貸すことはないけれども、日本食口は別だ。食口特有の誰に対しても好い人が災いして分派にも耳を貸し、次第に入り込んでいく。宣教師として日本女性食口が渡米して活動したが、在米食口は彼女等に住まいを提供し彼女等と活動し、そんな関わりで気心知れるようになる。宣教師の中には分派活動の影響を受けていた者も少なからずいて、彼女等を通して在米食口に浸透していくという流れだ。こんな話を耳にする度にどうしてあの兄弟が、、と首を傾げるのだが、新しい歴史の出発であり、創造当初の混沌期であって何が起こっても不思議ではないのかも知れない。
2014年6月17日火曜日
今日の想い 754
み言葉を知らない人達は自分の現実を事実だと思い込んで生きている。現実は移ろうものでありながらも移ろう現実の中に生きているから、移ろうことに委ねてしまっている。しかし現実が遮断される時が来る。死を迎える時、現実は遮断される。現実が遮断されて大慌てする。現実が消え入ると自分も消えて無になるものと信じていたが、どういう訳か自分の核だけが残っている。核だけが残りながら核として存在する事実を否定して、消え入る現実だけを生きてきた事を悟る。み言葉を知る私達は知っているだけで事実を確保したことになるだろうか。自分の核が霊人体を成長させる真の愛と真の生命を相続していると言えるだろうか。御父様は「み言葉に対する伝統」という言葉をみ言葉の中に示しておられるけれども、み言葉を中心として一体となるべく、み言葉を中心として自分を育てていくことができる私にならなければならない。事実は絶対的なみ言葉が基準であって、み言葉とひとつになろうとしない限りは事実は現実の中に埋もれたまま流れてしまってすくい出すことはできない。私達がみ言葉を学んで知っているとしても、それは学んだ基準で信じる為の足場にはなるが完全なものではない。み言葉を知らない人達が現実を事実だと思い込んでいるように、み言葉を学んだ私の基準とみ言葉の完全な基準を混同してはならない。み言葉を読んで読んでまた読んで、実践して実践してさらに実践して、その上でみ言葉をより学んでいく、み言葉に対する飽くなき追求、渇きを覚える自分を自覚できなければ、み言葉と一体となるというみ言葉に対する伝統を私の中に打ち立てられない。み言葉はみ言葉、私は私だと言う風にかけ離れたままでは真の愛も受け取れず、真の生命も相続できない。移ろいゆく頼りない現実があり、現実に翻弄される私もまた移ろいゆき頼りない。地上を生きるとは現実を生きることだが、現実に埋もれて生きることが現実に生きることとはならない。事実を把握しながら現実に生きることもありうる。現実の背後にある事実を知り、現実と事実によって真実を知る。
2014年6月15日日曜日
今日の想い 753
これが統一教会の事実かと思って愕然とする食口がいる。しかしそれは善悪判断する私、即ち堕落の位置から見るものであって事実でも何でもなく現実に過ぎない。現実を知ってうろたえても仕方がない。現実を知るとは受動的な私に留まり、それが神から来るものであれサタンから来るものであれ今の私の善悪基準で計ってしまい、往々にして倫理道徳の衣をまとうサタン的感情と論理に委ねてしまう。復帰された私の意志を働かせて究明してこそ事実に近付くのであり、私はその事実を求めていくなら現実を知って右往左往することにはならない。私達統一食口はもう一度はっきりと確認すべきだ。私は救われたいのかどうなのかと言う事を、、。生命をかけるほどの救いを求めてこの道に来たのかと言うことを、、。結局は霊的救いの重要性を肌で感じた者でしかこの道を進めない。御父様が過去にどうされたこうされたと言うのは過去の現実であって、現実を事実と混同すれば神とサタンの区別はつかなくなる。現実は見て判断している今の自分そのものであり、事実は復帰され救われた私自身が事実と認識できる。御母様がどうだ御子女様がどうだと言うのも現実に過ぎない。現実は時代と共にその背後にある事実を明らかにされ、現実の意味が変わり嫌悪していた感情も変わる。復帰され救われた未来の私の判断に委ねる現実があって、その現実に翻弄されてはならない。特に性的関係性に対する興味と関心には、性に対する拭えない堕落的感情が付着していて嫌悪感をどうしても覚えてしまいやすい。事実の認識に近付くまでは敢えて遠ざけてしまうと言うのも手で、そのように歩んでも来たが、血統転換の本質に迫れば迫るほど避けては通れないし、正しく追及していけば堕落的感情を寄せ付けない神様の心情の中心で為される秘儀体験が血統転換の本質であることを自覚させられる。こういう説明が正しいのかも理解できるのかも現時点ではわからないが、血統転換の秘儀に関する私達の認識は未だに現実以上の事実ではなくて、事実を認識させる為には教会と言えども時間を要するだろう。しかし御父様の骨髄の中に入れるかどうかの分かれ目はこの秘儀を受け入れられるかどうかにあることは確かだ。私達は針の穴を通り抜ける駱駝になれるのかどうか、、。
2014年6月9日月曜日
今日の想い 752 (夜昼の私)
眠りに着けば意識は次第に遠ざかり、知らないうちに昼の私は消え失せてしまう。二度と昼の私に帰れないかも知れないのに、それでも何の不安も無く消え失せてしまう。これほどに自己に執着し、生きることに執着する人間でありながら、眠りといういたって簡単に執着の意識の及ばない夜の深淵に委ねてしまう。昼の私と昼の私の間に夜を挟み、夜を挟んで途切れ途切れの意識存在でありながらも、それでも昼の私はずっと繋がっていると信じている。時間の流れに沿って刻印され続ける記憶がそうさせる。きのう何をしたか、何を食べたかさえ思い出せずに、断片的記憶の尻尾を探しているにもかかわらず、それでも昼の私の継続を信じている。人は夜の深淵を知らない。覗き見ることさえできないから夜の深淵の存在など信じないし認めない。昼の私が意識の主体になっているからだ。昼の私を中心に全てが回っている。実は昼の私からは想像もつかない夜の私が存在している。夜の私は無意識の意識という夜の深淵を生きる。無意識の意識が昼の私を通して自覚しようとし、無意識の意識の結果を意識として生きている。朝に人は、昨日と同じ自分を生きていると当たり前のように目覚めるが、昨日とは異なる意識を今日生きることができることを知らない。人は昼の私の主体である神様の存在を認めても、夜の私も知らないし夜の私の主体的存在である夜の深淵の神様など想像もつかない。御父様は昼の神様、夜の神様というお話をされた。創造原理は帰納法的に導いて、神様がどのような御方であられるかを提示している。それは創造対象の位置から光を照らして見届けられる神様であり、一面的だとは言わないまでも全体ではない。ましてや神様自体から発せられた提示ではない。そこで本体論だ。御父様は神様と完全一体となられた位置で、夜昼の神様と本体論を提示された。夜の私が無意識の意識という夜の深淵を生き、無意識の意識は昼の私を通して夜の私の存在を自覚しようとするように、夜の神様も昼の神様を通して存在を自覚しようとされる。地上生は知らない自分を探しながら発見する旅だとも言えるけれども、それは夜の私の深みに出会い、出会ったなら更に深みに出会う旅だとも言える。創造理想というのは昼の神様の最終的目的ではあるけれども、創造理想を完全に果たした後に次なる理想が何かは持っておられない。昼の神様を通して出会った夜の神様が、神界の深淵から取り出される次なる理想が提示される。人類歴史期間を遥かに遡る宇宙史を霊視しても、昼の神様の継続的宇宙進化史が昼の意識として流れているけれども、その緩慢な流れの中で定期的に瞬時に大変化する出来事を見る。そしてその出来事の前段階として夜の無意識の意識という宇宙の深淵、宇宙の眠りがある。宇宙も眠りと目覚め、夜と昼を繰り返してきた。
2014年6月8日日曜日
今日の想い 751
愛とはなにか、、。御父様は愛についていろんな説明をしておられるけれども、その中にこういうのがある。それは「愛とは潤滑作用をしてくれるもの」というものであって、真の神様のみ言葉の中にあるのだが、感覚人間にとってなるほどと思える説明だ。車にとっての潤滑作用をしてくれるものは潤滑油であるように、夫婦が一つになる愛の行為に潤滑油に相応する液が必要であることは誰も否定しない。否定しないどころか一気に肉的愛の感覚的イマジネーションが想起される。夫婦お互いが生殖器を求めれば潤滑液が発生するのであり、その液をもって運動(授受作用)させる潤滑作用が為されていく。そうなると愛の行為に於いての愛の本質は潤滑液の中にあると言えるのかも知れない。本来、本然的人間は、自体自覚に立つのではなく他体自覚に立つのであるから、為に生きたい、他の為に犠牲になりたいという衝動が働いて当然のはずだ。そして為に生きるとは為に生きてひとつになることでもあり、為に生きる衝動と一つになりたいという衝動は同じものであるように思える。それを明確に意味するみ言葉が思い当たらないので仮定でしかないが、愛の行為が偽りの愛から出発したから問題なのであって、愛の行為の外的表現自体は堕落であっても本然の愛の行為であっても同じ表現を取るはずであるから、その行為に為に生きる理念が生きていて当然だろう。回りくどい言い方になったが何を言いたいかと言うと、私達が為に生きるのは神様を中心として為に生きる対象と一つになることであろうし、その意味ではより内的な愛の行為、霊的な愛の行為であると思える。よって為に生きる犠牲的精神には、潤滑油、或いは潤滑液といえる、愛の本質としての潤滑作用をしてくれる分泌液をそこに見ることになる。私達は為に生きると御題目のように唱えたとしても、他体自覚を目覚めさせて為に生きる存在になれるのではなく、何らかの分泌される愛の本質を見ようとしなければならない。それでこそいろんな次元のいろんな一体化で千変万化の愛に酔える存在になれるのではないだろうか。愛の行為でひとつになるという外的一体化の在り様を通して、その本質である内的一体化としての愛の行為と愛の潤滑液を霊的に見通すことができる。愛が観念に留まるものではなく、内的生活の生活実感として、為に生きる愛の本質を分泌することができる私になれれば、心と体の戦いに終止符を打てるのかもしれない。私の中で内的に想起される愛の潤滑液は、汗であり涙であり、そして血を流すに値する心情であり、それらを供えて(分泌させて)精誠を捧げることだ。
2014年6月6日金曜日
歴史時代を超える (4)
歴史時代を越えた新しい歴史、御父母様を起源とする新しい歴史はサタンの侵入圏外であるし、それが蕩減の必要のない、すなわち蕩減は復帰の為であって復帰の完成の上に立てられる新しい歴史には蕩減は必要がない。この歴史時代を越えた新しい歴史、御父母様を起源とするサタン侵入圏外としての新しい歴史、という概念(言葉)が御父母様によって創造されたのであり、概念は新しい歴史世界に実体化されていく。私達は概念の創造ではない、概念を新しい歴史世界へと実体化していく御父母様の協賛者であり概念(言葉)の実体化に動く手足だ。サタンがどれほど知恵があり神様の創造理想という概念(言葉)を把握してこの世の君、すなわち歴史時代の神となれたとしても、この新しい歴史は完成実体であられる真の父母という実体から出発するのでサタンは侵入できない。私達は改めてサタンの正体をはっきり知り、サタンとの完全離別を宣言しない限り、跡形もなく消え去ってしまう歴史時代から足を抜けずに囚われたままで歴史時代もろとも消え失せてしまう。私達はサタンの正体を本当に見抜いているだろうか。罪を犯さない、堕落しない、その感覚と感覚からくる意志判断は善しとしても、それはあくまで私の個体に関して戒めるものであって、個体としての私の感覚と意志の及ばない者に対して判断するものではないはずだ。善悪知るの木はその表現通り、その木の実を取って食べたから善悪を知るようになったのであり、食べる前から善悪判断がエバにあったのであれば堕落はしない。善悪判断が自分の中にあるということと、戒めを与えられているということとは別物だと理解すべきだ。もちろん私達は善悪判断を持っている。しかしそれは堕落によってもたらされたものであり、或いは復帰されて来た相対的なものでもあるけれども、それにしてもその善悪判断を新しい歴史にそのまま持ち込むことはできない。私達が把握している一線を越えるという堕落の感覚的認識と、御父様が出された絶対性の概念とは異なるものだと理解すべきだ。歴史時代に復帰摂理を牽引してきた宗教は道徳倫理を立ててきたけれども、しかしそれは本然の世界に通用する絶対的なものではない。あくまで相対的なものだ。絶対的なものは別にあってそれを絶対性の概念で表されたと私は理解する。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に立てられる絶対性だ。それは感覚的なものではなく超感覚領域の霊的な言葉であり、エバが霊的に堕落したことは肉的に堕落したことによって霊的堕落が証明されるように、霊的に絶対性が立てられたことは肉的にも堕落性が解消して創造本性が芽生えることによって絶対性が証明される。歴史時代の実は真の父母を地上に迎えたことでその使命を完結した。新しい後天の歴史は真の愛の結実を個人に見て、家庭に見て、国にみて世界に見て、結実の様々な様相が百花繚乱の如く真の愛の文化として咲き乱れる歴史だ。
2014年6月4日水曜日
歴史時代を越える (3)
歴史時代は終わった。すなわち蕩減復帰時代は終わった。基元節を越えて新しい歴史の幕開けとなり、新しい歴史の創造過程を出発している。歴史時代は偽りの父母、堕落したアダムとエバから出発した。新しい歴史は真の父母、御父母様を起源として出発している。真の御父母様が共に地上におられる状況があって、真の御父様が聖和され真の御母様だけが地上におられる状況が今であり、さらに真の御父母様共に霊界におられ地上におられない状況が将来的にある。はからずも(?)基元節は真の御母様だけが地上に残られた状況で迎えた。私達は新しい歴史の創造過程を残られた御母様と共に為している。宇宙の創造過程は火の時代があり、空気の時代があり、水の時代があり、そして土の時代があって、人間が土くれで創られた。火の時代は土星の時代であり、空気の時代は太陽の時代、水の時代は月の時代、そして土の時代である地球時代を人類は生きている。宇宙の創造過程がそうであったように、新しい歴史過程も火の時代、空気の時代、水の時代を経て土の時代を迎えるだろう。人間の創造は土(元素)に水(形態)様相を加えられ、更に空気(心魂)様相を加えられ、そして最後に熱(霊であり自我)様相を吹き込まれた。重生という私の創造は熱(土星)の本性でもあられる神様と一体となられた御父様(太陽)が御母様(月)を通過して私という自我存在(地球)を産み出す。私達は確かに御父様を慕い侍ってきたけれども御母様はどうだろうか。重生する過程をみ言葉の中に紐解けば、御父様の骨髄の中に入り御父様の種となり、種は御母様を通過して産出されなければ重生として産み直されることはない。御父様の骨髄に入り種となるには時空を越えた愛と心情でしか為されない。同じように御母様を通過するのもやはり時空を越えた愛と心情でしか為されないのであって、私達は御母様を慕い侍ることで御母様の中に入り御母様の産道を通過できる。食口誰もが御父母様を慕い侍ってきたけれども、おそらくそれは御父様を中心にしていたはずだ。今度は地上に残られた御母様を御父様以上に慕い侍ることで重生が完結するはずだ。私が御父様の種であるなら、御聖和された御父様にしがみつくのではなく種は御母様の胎内に着床し養分を受け取り育ち、そして御母様の産道を通過してこそ種はその価値を実体化する。歴史時代のままの現実に生きている者が殆どだけれども、歴史時代を超越して新しい歴史を生きているという現実に生きる為には、御母様を御父様と同じほどに、いやそれ以上に慕い侍る私の希望を抱えてこそ新しい歴史の現実は到来する。
2014年6月3日火曜日
今日の想い 750
万民が御父母様に侍ることができるように、その体制づくりが必要であることを述べた。しかし我々の願われる基準をして万民が侍ることができるようになるには時間を要する。み言葉が入って御父母様を受け入れれば、次元を一気に駆け上って侍る位置に立ちやすいのはそうだが、個性が尊ばれる時代背景にある万民は、終末がいつ訪れるのかも様々であり、こちらから終末を持って行って押し売りできる状況にはない。そうなると裾野を目一杯広げて何らかの御父母様に繋がる因縁圏に取り込むことが最善だろうし、それにはビジネスという生活密着のところから因縁圏を造って繋げることが必要だろう。よってビジネス摂理は広義での伝道、伝道の為の伝道基台摂理と言ってもいいかも知れない。レストラン摂理は魚を扱う海洋水産摂理の一環であり、それと同時に献金摂理にも加担できるという認識が担当者の中にあるはずだが、御父様のレストラン摂理としての願いの中に、要人への接待も含めて伝道の為の基台摂理的願いが込められていたことも認識する必要がある。よってビジネス展開がこの世的なものに、すなわち利益の追求に第一義的な動機を置くのではなく、万民が御父母様に繋がる因縁圏の拡大に動機を置けば儲け主義に堕することは無く、天の運勢圏の中で発展していくはずだ。既に何回も触れていることだが、レストラン教会と銘打って出発したからには、ここに真の父母からくる真の愛があることを無意識的にも感じ取らせることができるものを準備すべきだ。レストランはサービス業であって、物が売りの主体ではなくサービスという人のもてなしが売りのビジネスだ。もてなしは愛でもてなすのであり、その意味では繋がった客は物の関係ではなく愛の関係で繋がっている。もちろん怪しい愛の関係だとサタンが主管してしまうが、ここには他とは異なる知らなかった愛があると思える店創り、何かしらの畏敬の思いに駆られる店創りができれば霊的協助を得て展開できるはずだ。今までレストランビジネスに携わってきて、ビジネス摂理として御父母様の願いに応える在り方を模索し続けてきたが、私の精誠足りず、未だ精誠の器を満たして溢れ出る結果を見るには至っていない。御母様がいつまで地上におられるかはわからないと仰るように、私達も若くは無い年で、いつまで現役でレストランビジネスに関わられるかはわからない。二世や若い世代に引き継ごうと焦っても見るが思うようにはいかない。100近くもあった店が欠けていって、数少ない店が風前の灯の如く営業している実情に対して、希望を見出せと言う方がおかしいだろう。しかし諦めてしまえばそこで全てが終わる。おそらく摂理的願いがあるという御父様の霊も立ち去ってしまうだろう。レストラン創りは次元を落とし裾野を広げての教会創りであり神殿創りだ。多くの客がレストラン詣でをしながら御父母様への因縁圏に入っていく。そこまでの見通しは立っているものの、そこから地の形にしていく為の触媒内容が未だ見つからない。それが見つかることで霊的な宝の鉱脈が実体化した宝の鉱脈になる。
登録:
投稿 (Atom)