2014年8月28日木曜日

今日の想い 781

グループ派でもなく、分派でもなく、御母様を中心とする教会に所属しているから自分は正しく信仰しており、正しい道を歩んでいると信じているようだけれども、果たしてそうだろうか。それは信じているからではなく、正しく信仰しているつもり、み旨を歩んでいるつもりになれる位置が、変わらず教会に所属し続けることだったからではないだろうか。ドラえもん流に言うとツモリナールが教会にあっただけのことで、教会に所属することと御父様が願われた統一教会の本質、本流を歩むこととは違うはずだ。どこに所属しているかという問題以上に、御母様を中心とする教会に所属して当然で、しかしそれで安堵していてはどうしようもないということだ。緊張感からすると、教会を飛び出した立場の者達の方が大きいかも知れない。緊張感が大きければそれだけ真剣にならざるを得ないし、自らに問い続けて密度の濃い時間を送るだろう。その意味では隙がないはずだ。私達の教会が御母様を中心とする教会になるには、もはやグループ派だ分派だと言って対抗意識を持つとか、正義感を持つとか、そんなものは今となってはどうでもいい。それよりは私達が御母様を中心として求心力がどんどんと高まる教会になろうとしているかどうかの方が遥かに重要だ。御母様の関心が何処にあるかを肌で感じることだ。日曜日に教会に行くことで満足していないだろうか。何ページ訓読したということで満足していないだろうか。献金することで満足していないだろうか。祝福を受けて終わったのではなく祝福を受けてからが始まりであるように、ある内的段階で満足するようではその時点で既に成約信仰の形骸化が始まっている。御父母様を慕い侍るとは、至高の頂点をどこまでも昇っていかれ、神様の位相に立たれた御父母様の後を疲れず追い続けることに他ならない。それは堕落性の足枷をもろともせず、それでこの世的幸せという手足を引き千切り犠牲にしようとも、それでも御父様のおられる霊的高みに果敢に昇り詰めていく覚悟だ。その覚悟が本当にあれば、(本当にあればの話だが)少々の方便など問題にならない。小市民的に誰も傷つけない、人のいい食口、丸い角の取れた食口にはなったが、しかし摂理としての願いを果たせなかったらどうだろうか。それでも意味があるだろうか。御父母様はそれでも喜ばれるだろうか。そんなはずはない。この世的人格の話に留めて良しとされるなら、御父様が日本食口に対して常軌を逸した負担を背負わせ続けた時点で崩壊している。この世の人達を騙したとか、私達は騙されたとか、そんな言い方をしているけれども、この世の道理では騙したり騙されたりという言い方ができるとしても、霊的な道理は地上のこの世の道理とは異なる。蕩減すべき自分の位置がわかれば全てを甘受すべき私であり、もし天から騙されるという仕打ちを受けるなら天に大きな貸しをしたと喜ぶ位置が霊的な道理となる。本流である教会に所属しているのみで本質を掴めるのではない。神とサタン、善と悪、霊的価値観と地上の価値観、縦的に立つことと横的に衝突を回避すること、心と体、これらの二極のせめぎ合い(一体化のプロセス?)により本質なるものを掴んできたように、教会とこの世という二極から、より本質的な真の父母を受け入れ、み言葉を受け入れる教会を更に分別してより本質を際立たせるために、敢えて分派が現れ、グループ派が跋扈する対立が立てられているように思える。教会に所属してそれで良しとするのではなく、所属して何を立てるか、本流として分派以上に神様が認めるものを立てられるかが問題だ。私達は本物として残れるかどうかが今本当に試されている。

2014年8月26日火曜日

今日の想い 780

昨日は昨日で問い、今日は今日でまた問う。変わらない現実を変わり続ける一日圏一日圏から問い続けている。今日こそは現実を変え得る霊の閃光が私を貫いて欲しいと、その切実感が今日一日をして私を問いに向かわせる。遠の昔に諦めて当然の私でありながら、今の今まで諦めずに何とか希望を見出そうと問い続けているのは、それはもはや私自身の欲求だとは思わない。み旨に向かう私の基準が霊界での先祖の在り様を決めると言われるように、私のみ旨に対する思いだけはあるから、断念することなく問い続けるのであり、問い続ける衝動の中に血統的な働きを見る。先祖の協助と言えば随分オカルト的な働きを想像するけれども、私の想いの中に、思い入れの中に、私自身の衝動だと認識していたものが、実は血統的に流れるものに組する霊達の総合的な衝動を私自身の衝動と感じているに過ぎない。私の想いが先祖の想いであるし、先祖の血統的に流れてきた想いが私の想いでもある。私は私の衝動を通じて霊と共に生きている。先祖と共に生きている。この認識感覚をいつも、いつの時も忘れることなく抱き続けて、私は血統の代表的な位置でみ旨に対している自覚を強く強く持つべきだ。私が真の父母に出会い、実体み言であられる御父様、聖霊実体であられる御母様から戴いた祝福の血統に繋がれたことは、血統の中に堕落の血が流れてそれ故に地獄圏から抜け出せなかったこと、み旨を標榜し蕩減生活を為すことで地獄圏から天国圏への橋が架けられたこと、霊界での修練会を通してそれを熟知する先祖の霊達にとっては、私という存在は血統の歴史的転換点だということができる。私という存在がどれほど重要で、私と共に歩むことがどれほど重要であるかは先祖達は身に染みてわかっている。船上会議で御父様は、反教会の方向に突進していた責任者に対して、彼の先祖が哀しんでいると言われたのを聞いたことがある。霊的無知故に血統圏にある先祖達の想いが地上で感知できないのは実に残念で、悟性の人間から霊性の人間にならなければ先祖を救うメシヤ的使命を受け取っているとは言えない。どんなにみ言葉を知識として知っているとしても、堕落の自分の都合のいいようにみ言葉を利用してしまうこともあり得る訳で、そうなるとみ言葉で裁かれないとしても心情で裁かれてしまう。私は今日も問い続ける。いや私ではなく私の中で生きている霊達が乾きを訴えるように問い続けている。私は御父母様に繋がっていて真の血統と先祖の血統の仲介の役事を果たしている。み言葉を通して、蕩減生活を通して、み旨を歩むことを通して、愛して為に生きる実践を通して、現実という畑の中に彼らを癒し復活させ地獄圏から開放させる生命の木の養分を与えるべく、使命的責任を背負って地上に存在している。問いは解決しなければならない。解決して霊の解放をしなければならない。今日も霊達が問い続ける。渇きを訴えるように問い続ける霊達への回答は、地上の私が御父母様一体圏の中で差し出さなければならない。岩だらけの現実という畑が耕されることで、現実のいたるところで霊の生命を蘇生させ得る肥えた畑にしなければ、霊達は問い続けるばかりで復活した賛美の歌を天に届けることはない。

2014年8月25日月曜日

今日の想い 779

ある子女様の個人的な教会活動のサイトを見ながら、少なくとも私は正しいとか間違っているとかの感情を抱くべきではないと思った。もちろんグループ派に関与しておられる御方の話ではない。教会側の説明は公的位置を辞任されたとしか報じておらず、その経緯であるとか、その良し悪しについてどうこう述べたものはない。現状が知れ渡った時のアメリカ教会食口の動揺は確かに大きかったし、その鎮静化を願われて回られた世界会長の心労も大きく、教会は不信の雰囲気が蔓延していた。原理原則の杓子で測ろうとする食口にすれば受け入れられないのが当然であるし、子女様にすればそれなりの判断があったにしても、原理原則というコップの中に生きている食口にすれば祝福の価値を失うほどの大問題であった。原理世界を上限とするのか、原理を越えた心情世界にまで入っていけば許されて良しとされるのか、原理観という観として見る為には、原理を越えた位置に昇れなければ観は立たないのだろう。教会として原理に従う原則を守るのは当然のことだけれども、原則を外れる御子女様と祝福子女に対して、堕落したという感覚を持つのは教条的であり、教条的であれば原理に立つのではなく戒律に縛られ、そこに愛で対することを否定してしまっている。堕落という概念が正しく捉えられていない、堕落の意味を戒律を破るという観念に捕らえられたままでいる。原理原則を外れた(とされる)御子女様に対する私の感情、問題のある(とされる)祝福子女に対する私の感情、それは神様が抱いている心情、御父母様が御子女様や祝福子女に対する心情と同じだと言えるだろうか。それが異なるのは明らかだというのはわかるけれども、では原理原則に立つ私は、願われない間違った感情に左右されない為には原理やみ言葉のどこからどう学んで対すればいいのだろうか。イエス様の時代、イエス様の行動はユダヤの戒律から外れていた。だからユダヤ民族は受け入れることができなかった。代表的クリスチャン達は御父様を受け入れることができなかった。2千年も待ち続けながらも、それでも不信してしまうほどの事実が御父様にあったと見て当然だとは言えないか。雲に乗って現れなかったからと言うような、そんな幼稚な理由ではないはずだ。それでは成約聖徒はどうだろうか。今の教会の混乱が証明しているように、信じていた原理原則に当て嵌まらない事態を御家庭の中に見て不信している。見るだけでなく教会も食口もそれに翻弄されていて、当然のように不信に陥ってしまう。おそらく、私達が信仰すべきものとして捉えていた全ての事柄が、ガラガラと音を立てて崩されるのは或る意味御意に違いない。私達の中の一切が完全に崩されて、原理とみ言葉に対する中途半端な理解が崩されて、そこで始めて本当の祝福の種として受けたものが残り、祝福の芽が吹き出すのだろう。原理だみ言葉だと言いながら、私達は所詮堕落した位置で正しいとか間違っているとか判断しているに過ぎない。原理は間違っていない。しかし正しく捉えていない私の原理観が間違っている。原理を理解しているという私の立っている段階を一つでも二つでも下げて、一歩でも二歩でも後退して、そのように謙虚な位置に突き落とされてでも低い位置に立たなければ御父母様に付いて行くことはできない。偽りの愛であっても、原理の力を越える愛の力が働いたから堕落してしまったように、原理原則を越える愛の力が働く必要があるし、真の愛が真の愛の力として関与する為には原理原則を越えても働くという証しが必要だとは言えないだろうか。愛が原理原則に縛られるのであれば真の愛とは言えない。その子女様は原理原則には縛られてはいない。原理原則の枷を外してしまえば真の家庭から外れて堕落圏に落ちるというなら、御父母様の勝利圏など何の意味があるのかということになる。

2014年8月19日火曜日

今日の想い 778

私は神様に取って絶対的に必要な存在だから存在している。何を中心として?愛を中心として絶対的に必要とされている。要するに愛される為に存在している。しかし愛される為に存在しながら愛されている実感がないとするなら、それは神様の問題だろうか。それとも私の問題だろうか。しかしここでこの逆の問いかけがあって、神様は私に取って絶対的に必要な存在であり、愛を中心として神様が絶対に必要であり、神様を愛する為に私は存在しているなら、実際に神様を愛しているだろうかという問題、そして愛していないなら私の問題なのか他の何か別の問題なのか、と言う逆の問いかけが一方にある。愛は為に生きる愛、真の愛があり、自己中心的愛、偽りの愛がある。この世は偽りの愛に満ち溢れていてそれ故に霊的には息苦しさを感じている。それではそう感じる私自身はどのような愛に満ち溢れているか。為に生きようとする真の愛なのか自己中心的偽りの愛なのか。愛される存在である前に愛する存在として私がいるという観点に立たなければ、どれほど存在の在り様を問うてみても迷宮に迷い込んでしまう。存在の在り様を問う哲学は、ありとあらゆる迷宮をわざわざ創り出して、人類を袋小路に追い込んでしまった。本来の哲学は原因存在に愛と霊の本質を見るところから出発すべきなのに、既存の哲学は逆で結果(存在の在り様)を原因だと決め付けて出発するからそうならざるを得ない。愛されてないと認識する前に愛するべきだ。受動的である前に能動的であるべきだ。愛する過程で愛を受け取る。与えればそれ相応に受け取るべきというバランスシート、要するに損得勘定で生きているけれども、愛に生きれば1与えたものが10にも100にもなって返ってくる。愛の哲学でもあるみ言葉ではそうなっているけれども、しかし私が愛と捉えているものが曲者で、実は巧妙にも愛とは名ばかりの自己中心的な偽りの愛が相当量紛れ込んでいる。真の愛なのか偽りの愛なのか、与えること(投入すること)に専念し与えたものは忘れてしまう、さらに今一つ付け加えると、与えることに於いて簡単に与えられるものであれば本当の意味で与えたことにはならない。痛みとして犠牲を覚えるものでなければ与えたことにはならない。神様の愛は犠牲を供える愛だ。だから真の愛だ。私が神様を愛すると言うなら、犠牲を供えるのでなければ愛したとは言えない。

今日の想い 777

共に歩む兄弟は店を地域貢献という観点で捉えている。私達食口が地域に根差し、地域に貢献することで伝道が進むように、利潤追求の店であっても地域の為に生きる姿勢が大切だと捉えている。それは確かに正しい。私達の今までの歩み、特に一世の歩みは、期間内に果たさなければならない摂理として、サタンに奪われず天が取る条件物を供えることを優先してきた。いや専念してきたから地域貢献など眼中になかった。テッペンを取ることに専念し、底辺から信頼を積み上げていくことは事実上疎かになってしまった。そう見れば、ひとり、またひとりと伝道していくように、地域貢献に立ち返ることは正しい。しかし実に地道な展開になってしまう。摂理貢献の兵隊的役割をここまで担ってきたから、地域に受け入れられる人格的内容も実力も基盤もない訳で、この世的には何もない位置からの出発となる。だから地道な基盤作りにエネルギーを注がなければならなくなる。そうこう思案しながらその体制を整える内に、内に燃えていた熱いものが冷えていく。そして引き上げるべき私であるはずが逆に地の事情に引き下げられ、カナン七族に同化されたイスラエル民族のように同化てしまう。ではどうするか。いろんな意見はあるだろうけれども、私はカインの本道を歩む。地域にすり寄るのではなく地域から羨望の目で見られる地位を立てる。地域の人々に貢献する教会的存在ではなく、地域が崇める神殿を立てる。言ってる意味がわからないかも知れないが、人々が既に持っている価値観に則して与えようとするのではなく、人々が持っていない新たな価値の創造をなして彼等を引き上げる。私達には天の父母様が共におられるはずなのに、どうして人々が見上げる価値の一つも創造できないのだろうか。それは御父母様が問題なのだろうか、それとも私達が正しく勝利圏を相続していないからだろうか。私達の中に確実に文化的価値として芽生えるものが秘められているはずだ。霊的感性が低い為に素通りしているけれども、気付いてみればこれがそうなのかと言えるようなものが確実にあるはずだ。外に外に目を向けて追い付け追い越せでは新しい価値創造ではなく、既存の価値観に則している。既存の価値観にひれ伏している。この世は全て、偽りの愛から出発している偽りの愛の実と捉えるべきだ。私達は真の愛から出発するのなら、真の愛を根とする新しい生活、新しい文化を創造しなければならない。この店には新しい文化がある、真の愛に根差した価値創造をこの店に見る、と言わせなければならない。

2014年8月17日日曜日

今日の想い 776

その公的な位置に対しては受け入れるけれども、私的には公的な位置を食いものにしていて受け入れられない。そんな意見は上司だけではなくあちこちから聞こえてくるけれども、私はその感覚に対して違和感がある。噂はどこまでも噂だが、火のないところに煙は立たないという観点に立てば、確かにそれなりの事実があるのかも知れない。そしてそこには自己中心からそうなっている部分もあるのだろう。でもそれを問い詰める権利は御父母様にはあっても個人的には誰にもないだろうし、それをえぐる言葉も持つべきではない。一人の人間を受け入れるとはその人の清濁合わせて受け入れるのだろうし、その一人の人間に対して受け入れる感情と受け入れない感情を同時的に抱えることはできない。受け入れる時は清濁合わせて受け入れるのだし、受け入れない時は清の部分も受け入れない。そして事自分の事に目を向けると、清よりは濁の部分の圧倒的に多い私は追求できる資格は毛頭持ち合わせていない。追求できる人は自分が追及する相手以上に清いという位置にいるはずだ。摂理に貢献する使命の大きい人物は、それ相応の堕落圏の沼に足を突っ込まなければならない、と言うのが私の見解だ。歴史に残る聖賢達も、その裏の顔が必ずあることが彼等を研究すればあぶり出されるはずだ。私達の教会に於いても決して例外では無い。その方に対する使命的責任は大きく期待し要求しておきながら、濁った部分は自分の思う基準を宛がえて批判対象に落とし込むなら、それは霊的生命に於ける泥棒だ。祝福という霊的生命を戴いておきながら、地の私の基準で御父母様と御家庭を裁くのと何ら変わりない。正直を言えば、店を運営していて従業員から批判される事柄もある。問い詰められれば言葉を失う。だからといって従業員が私の位置に立ち、店の責任を背負ってくれる訳ではない。責任のない位置で批判している。ビジネスに関わっているから金銭的なことを言うなら、結果として願われる目標に到達することが重要であって、これは公的これは私的といちいち裁可を仰いでいたら一歩として前進できない。結果を残せるならば、他から見れば私的だと思われることも公的意味合いになる。一店舗任せて一億利益を上げてくれるなら、店の発展の為にと一千万自由裁量として使ってくれても何ら文句は無い。私的な圏の中に公的なものを見出すのか、公的な圏の中で私的なものが許されるのか、この問いが解けなければ清貧に甘んじるしかない。

2014年8月16日土曜日

堕落に関する新しいみ言葉

御父様は晩年、毎朝の訓読会で、堕落に対して新たな説明を何度かされた。それは原理講論の堕落論に納得した者に取っては実に不可解なものだった。そのうちに解かりやすい形で説明されるだろうと思っていたが、しかし御父様は忽然と逝かれてしまい、多くの者はそれらの説明をどう理解していいのかわからず棚上げされたままだ。解釈、というより理解と言ったほうがいと思うが、それは私達に任されたことになる。この堕落に関する謎解きのような御父様の説明は、夜の神様、昼の神様という概念へ向かう私達の理解の方向性が先ず正しくないと、随分的外れな解釈になったり、陳腐なものになったり、あるいは原理を否定してしまうようなものになってしまいかねない。聖書も、旧約が象徴的み言葉であり、新約が形象的み言葉であり、成約が実体的み言葉だと理解しているように、その3数(3×3=9数)を越えて位が上がると次元を超えた位置に相応しい、次元を上げたみ言葉が現れていいはずで、それが本体論と関係があるのではないか、と私は思っている。間接主管圏を原理結果主管圏というのは、神様は原理の主管者であり原理で結果を主管されるからそういうのであって、それと比べて直接主管圏は神様は心情の神様であり、神様と一体となった人間も心情の神様の位置に立ち心情で原理をも主管することになる。原理の道理から次元を上げた心情の道理が通じるから直接主管圏となる。原理からみた原理で説明する堕落はより横的平面的であるのに対し、心情からみた心情で説明する堕落はより縦的であり立体的になる。原理世界ではルーシェルの存在が天使長という霊的存在としか説明できないが、心情圏に立つ心情世界でルーシェルを説明するなら、夜の神様の弟でありアダムの叔父ということになる。原理では神様(昼の神様)、天使長、アダムという関係性の中でエバが存在しているが、心情世界では夜の神様、その弟(ルーシェル)、夜の神様の息子(あだむ)という関係性の中で昼の神様(エバ)が存在している。エバの創造は昼の神様の体の創造でありエバの完成は昼の神様の完成となる。私という存在も夜の私と昼の私がいるが、もし堕落がなければ昼の私は昼の神様と繋がっているが、堕落という事実があるので昼の私は堕落のエバと繋がっている。しかし無意識圏である夜の私は夜の神様と繋がっており、それ故に夜の神様が送られた御父様に出会える通路を、夜の神様が夜の私という無意識圏に用意された。夜の神様、昼の神様と言われるなら神様が複数存在しているように思われるが、原理世界ではハナニム(統一体)でも神界(心情世界という言葉を使うと混乱し易いので)では複数の神様、と言うより複数的な様相になる。昼の私が自分を一人として認識しているが、無意識圏の夜の私は統一体である昼の私の枷を外されて分裂するように、、。ルーシェルを弟と表現するには夜の神様と同じ位相にあるもう一柱の神となるし、原理世界では他の天使長であるミカエル、ガブリエルも神界では同じ位相の別の神となる。しかしそれらが原理結果主管圏に於ける原理の説明は統一神としてのハナニムとなる。長子権、父母権、王権は三大祝福である個性完成、子女繁殖、万物主管と関係性があるのが伺えるが、長子権は父なる神様の子に譲る人間としての権威であり、父母権は神人一体圏の昼の神様の権威であり、王権は昼の神様に対する夜の神様の権威とするなら理解できるように思う。よって王権という言葉は直接主管圏に入って神界という心情中心世界の頂点を意識しなければ出てこない言葉だ。天地人真の父母の天、地、人も、その三権と関わりのある言葉とは言えないだろうか。

2014年8月15日金曜日

今日の想い 775

難しい。事は単純ではない。責任者と話してそう再確認した。おそらく、私の思う複雑さがますます私の行動を狭めている、そう思ったはずだ。しかしそれでも私は、私が確信するに従ってものを言い、事を進めていく以外ないだろう。自分はそのように訓練されてきた。それは日本で訓練されてきたからと言うのではなく、ここアメリカでも訓練されたというその両面から物事を見ることができる。それが良いとか悪いとかではなく、私はその位置でものを言うことができる。だからビジネスの意味合いも異なるし、お金の意味合いも異なる。一生懸命やって失敗すればそれは仕方がないと言われ、それはそれで割り切らないとと言われるが、失敗するのは絶対許されないという思いが私の中にある。その思いが何処から来るかというと、日本がどうやって精誠を捧げ、摂理を支えてきたかを知っているという、その思いの上での感情だ。だから私には軽々と、一生懸命やって失敗するなら仕方ない、などとは口が裂けても言えない。私の責任者は口にできるとしても、私は口にできない。私のように石橋を叩いてでも渡るか渡らないか思案するような人間はビジネス人間とは言えないのかも知れない。しかし、私はビジネス人間である前に、御父母様を慕い侍る一食口だ。御父様の心情を大切にしたい。御父様の心情を大切にするには、御父様を実体的に支えてきた日本の精誠を無視することはできない。周りからそのやり方を非難しようとも、支えてきたのは日本の精誠に拠っている。周りがとやかく言える立場にない。私に運営を任されているこの店も、日本の精誠の汗と涙が資金となって存在を可能にしているし、その想いを汲まない私であれば位置に立つ資格などない。いつも口にしているように、私は御父母様に裁かれる前に日本の食口に裁かれる。だから私のお金に対する重みは、日本食口の精誠の重みと等しくあるべきだと思っている。だから他の誰かが失敗しようとも、私が失敗するのは絶対に許されない。

2014年8月13日水曜日

御聖和二周年を迎えて

聖和二周年の意味とは何だろうか。追悼、節目、確認、悔い改め、決意、一体化、、、三万人が集うワールドセンターの様子をスクリーンで見ながら、三万人の一人一人がそんな様々な思いをそこに持ち込んでいるのを見る。さらに私のようにネットを通じて繋がっている何万という食口達からも、様々な思いが持ち込まれている。一同がセンター中央に集中して、そこから放たれるメッセージを受け取り、それぞれの思いにどう刺激を与えられ、どういう内的衝動を起こさせるのか。私達は目の前に壊すべき壁が阻んでいるのを感じているはずだ。この壁を壊さない限り摂理的前進はできない。この二年を越えて前進する為の重要な節目はこの壁に阻まれている。この壁は余りにも大きくて、ある者にはここが終着点のように見えて引き返そうとしている。ある者には壁の向こうが見通せず壊すことに臆病になって足踏みしている。ではこの壁を壊して前進する者が果たしているのだろうか。サタンに執拗に目くらましされて、あるいは別の関心事に誘惑されて、壁を壊すのはおろか壁に向き合おうともしない者達も多い。御母様はこの群れをどう一つにされ、どう鼓舞されようとしておられるのだろうか。御母様はこの巨大な壁の礎石の基をどう外すか知っておられるのだろうか。エリコ城の陥落をヨシュア、カレブに率いられた群れが為したように、私達が陥落すべきエリコ城こそ、この巨大に見える壁をその一部としている。エリコ城の周囲を七回回って一斉に大声を上げ、一気に陥落させたように、私達の鬨の声とは何で、何が私達のその行動を促すのだろうか。明らかに世界崩壊に向かっている。しかし、あらゆる危機感を誰もが感じている一方で、不思議と経済体制の崩壊も社会体制の崩壊もこれといった引き金となるものを見ない。いや、見ているのだろうがどういう訳か何とか持ち応えている。兎に角、二周年を越えた。基元節も直ぐ二周年を越える。サタンは七数を越えられなかったが私達は七数を越えなければならない。2020年までの七年路程勝利に向けて、象徴的に越えるのがこの聖和二周年だろう。霊的に何も見えないような、何もわからないような、自然消滅するかのような、そんな混沌状態であっても、それでも霧は所々で薄くなりかけ僅かでも見通せる。霧が晴れればエリコ城は明確にその姿を現す。私達が陥落させるべきサタンの城郭の全貌が見渡せる。そして私達は一体となって鬨の声を上げ、エリコ城の陥落を目の当たりにする。モーセがカナンの地を目前にして、ヨルダン川を渡ることを許されなかったように、御父様も実体の地上天国を目前にして聖和された。それは神様と一体となっておられる御父様御自身の意志だと私は思っている。基元節を迎える数年前、御父様が泣かれて逝かなければならないことを言及されたのを覚えているだろうか。それも一度の事ではなかったと思う。御父様のそんな御姿を面前で表されるのは過去になかったことだった。御父様が旅立たれた後の事を、御母様とアベルカインの子女達に託さなければならないことを解かっておられて吐露された御姿だったはずだ。今振り返るとそのように思える。私達はこれから、世界的エリコ城の全貌を視野に置き、サタン主権世界を陥落させる。その出発摂理の二年目、長成期完成級を象徴的に越える聖和二周年だ。

2014年8月11日月曜日

今日の想い 774

言葉には言霊が宿っている。言霊は原因的であるのに対して言葉は結果的だ。み言葉には文明に神霊が宿っている。本質である神霊を見ようとせず、結果であるみ言葉の輪郭、表面的言葉だけをなぞっても神霊は受け取れない。神霊を受け取れないばかりか、み言葉の言葉に神霊ではない別の霊を吹き込んでしまい、み言葉を別様に理解して、悪霊の黒魔術としてみ言葉を悪用してしまう場合すら考えられる。受け取り方、使い方を間違えるとみ言葉の言葉は恐ろしい。分派は方向性としてそのように操られている。何気なく口にしている言葉を観察してみると、私特有の言葉の使い回しがあり、常に口をついて出る言葉があり、言葉を使うことに怠惰な自分がある。それら全てが堕落的だとは言えないまでも、多くが堕落性からそのようになっていると思える。一日の生活の中で使う言葉の殆どを、私の堕落性から発する言葉で溢れさせている。そんな使い回された言葉の洪水の中に生活しながら、気分的に信仰的言葉を撒いたとしても、都合の悪いときに神様を呼び求めても、それは堕落性から発する言葉の洪水にかき消されて当然だろう。連綿と繋がれてきた堕落の血統の流れから見ると、御父母様との接点を持った私という位置はかけがえのないものなのだろうけれども、しかし私自身の中で生活実感としてみ言葉で生み返られたという認識はない。霊的なことではなく、生きる現実の生活実感として、生み返られ、堕落圏を脱して神様の心情圏、心情世界に生活しているという感覚は薄い。それは明らかに私が本然の世界を求めているふりをしているだけで、実のところ堕落圏にしがみ付き、堕落世界に執着しているということだ。神様に出会いたいなら神様を求めるしかなく、愛の家庭を作りたいなら愛するしかなく、心情世界に住みたいなら心情溢れる私になる以外ない。ようするに心情を注ぐに応じて注いだ何倍も受け取る、それは私の輪郭を越えて溢れて受け取るから心情圏、心情世界へと拡大するのであって、与えて忘れるその真空状態に、何倍にも増して与えられるという愛の法則がそこにある。どことなく冷たい隙間風が入る、そんな家庭にどうしてなってしまったのだろうと思うけれども、私ではない何か他のせいにし、私の先祖の罪が重いからだと言い訳し、そう自分を納得させて、与えること、愛すること、心情を注ぐことをしなかった。言葉に言霊が宿るように、家庭の中には多くの霊が宿って家庭の空気、雰囲気をつくっている。会社も社会もその延長線上にあってそれ相応の霊が宿っている。私は自分がどれほど器の小さい者であるかはよくわかっているけれども、器が問題なのではなく、私が拠り代(よりしろ)となって、神霊が、聖霊が、私が愛するのを通して愛するのであり、私が心情を注ぐのを通して心情を注ぐ。そうしながら私の器も大きくなっていく。

2014年8月10日日曜日

蛇は先ず知的に誘惑してくる

へびは女に言った、「あなたがたは、決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。  創世記第三章から
アダムとエバは、未完成なのに善悪知るの木の実から取って食べて堕落した。原理では未完成である間接主管圏、完成すると直接主管圏と簡潔に言い表していて、解かったつもりでいるけれども、その言葉の概念をどこまで理解しているかは極めて限定的だということ、或いは本来の概念とは全く異なる理解の方向性に向いているかも知れないということ、この二点を常に踏まえて咀嚼していかなければ、必ず狡猾な蛇が私に言い寄ってくる。様々な分派がある。様々な解釈がある。分派があり解釈が異なるということは、み言葉の概念は一つであるにも関わらず、その概念を捉えることができないので、概念に代わる解釈へと、熟れない実を早まって食べるべく飛びついてしまう。いろんな解釈は全て蛇の知の誘惑だ。中には一笑に付してしまうものもあって、どうしてこんな稚拙なものに飛びつくのだろうと不思議に思うが、中には随分狡猾なものもあって、蛇としては随分大物だと思えるものもある。食口であればみ言葉がわからないと思えるのが普通であって、敢えてわかろうと焦る必要は無い。み言葉の理解不理解、概念に近付けるか否かは思考によるものではなく、本人がどのステージに立っているかに拠っている。原理は自分の中で論理性を備えて理解していると思えても、特に八定式以降の御父様のみ言葉は非常に難解で、論理性で捉えようとする私の思考を越えている。越えているものを無理やり理解しようと焦って、誰かの解釈に飛びついてしまうと、知的な意味でアダムエバと同じ過ちを犯すことになる。理解できるステージにステップアップすれば理解できるようになる。勿論焦って解釈に飛びつくから問題になるのであって、み言葉への飽くなき追及心は失ってはならない。私はみ言葉もわかってはいないけれども、置かれている事情圏、環境圏の意味も、どう勝利すべきかもわかっていない。今わからないならわからないのが私のみ旨だと腹に落として、敢えて焦りを見せて問い詰めることは御意(みこころ)ではないと思っている。喩や比喩で語られておられるみ言葉だと認識して、その裏の意味を探るべく理解のベクトルをあらぬ方向に向けているけれども、御父様は私達に謎解きを願われてみ言葉を差し出されている訳ではない。イルミナティと同列に語ること自体、御父様を貶めている。ここまで記せば何のことを言っているのかわかると思うが、ルーシェルは知情意の心魂存在である人間を知的に誘惑し(賢くなるには好ましく)、情的(感覚的)に誘惑し(目には美しく)、衝動で誘惑している(食べるに良く)。情的なものや行動は知の扉を開かなければ開けようとしないのが現代人の特徴だが、唯物論で誘惑し唯物思想が席巻しているように、知に対する貞操観念が薄く、論理的なものに弱いのも現代人の特徴だ。

素直に、情けないままを祈ってみる。

アボニム、、。私は背負っている蕩減内容に潰されそうです。妻は生命の絶えるまでずっと、生かさず殺さずの狭間から抜け出せないのでしょうか。本人が願っているはずもないものを、実は奥底で願っているということなのでしょうか。だからこの生死の狭間で息をひそめて、病人としての日課をこなし続けることから抜け出せないのでしょうか。私と一体圏にある妻の苦痛は私の苦痛です。妻は私の健康を羨ましがるけれども、痛みを分かち合えないなら一方の私の健康など返って恨めしいとさえ思えます。夫婦として背負うべきものだと覚悟を決めて生きているつもりですが、天の父母様から無視され続けているようで、ますます遠ざかっているようで、いつまで孤独な愛の減少感を抱き続けられるかわかりません。天の父母様は確実におられるはずなのに、真の父母様は確実に勝利されたのに、私の家庭を訪ねて下さる神様ではなく、御父母様の勝利とはかけ離れた場所に蹲ったままです。私の条件がない、妻の条件がない、おそらくそうなのでしょう。そう認めて忍耐していく以外ないのでしょう。そうなると妻と私の解放はこの地上を去る時にしか訪れないのでしょうか。病院通いと、私達のみ旨と、どのような関わりがあるのでしょうか。私は時として自分が爆発しそうで恐ろしくなります。その頻度は益々増しています。僅かの癒しでも見えるなら、敢えて求めて自暴自虐になって飛び込みそうです。原理の歯止めを飛び越えそうです。そうでもして振り向いて欲しいと泣き叫びそうです。今日も時間は流れます。今の私にとっての時間の流れは、地上を去る解放のその日への道筋以外の意味はありません。妻はそれでも僅かの希望を支えにして生きているようです。幼少の頃、生きるのも苦しい、死ぬのも苦しい、それなのにどうして生まれてきたのだろうかと悩み続けました。そしてみ言葉を聞きました。全てが解決するかのようでした。そして今、再び問い続けています。夫婦で問い続けています。今もって解決していないのです。み言葉を理解しているつもりだったのですが、何も解決していないのです。結局は私の事情を越え、家庭の事情を越えて、より全体の私を用意することはできないようです。私はますます自体自覚の中に没頭しています。良心的に生きることはできても、良心革命を為して、天に直接通じる良心に侍って生きることができないのです。妻は砂漠にいるかのようにペットボトルを何度も口にします。砂地に水を蒔くようにです。彼女の内面も砂漠です。表情にも言葉にも、かつての潤いは感じられません。取りつかれたように健康本を見入っています。せめて私だけはと思ったけれども、砂漠化は思ったよりも強く押し寄せて家庭を侵食しています。エバは誘惑を受けた時、本当に神様に問い尋ねれば堕落は免れたのでしょうか。問えば神様は答えて下さったのでしょうか。私が問うても黙して語られないのはどうしてでしょうか。問うても私には条件がないから尋ねる意味すらないのでしょうか。それならそう答えて下さるべきではないのでしょうか。私と妻は徹底的に、天使長と同じ位置で、孤独と愛の減少感に堪えなければならないのでしょうか。孤独はさらに孤立化を呈し、減少感というより見事に枯渇しています。真の愛の泉は、偽りの愛の泉が完全に枯渇して初めて湧き始めるものなのでしょうか。そうであるならもう少しの辛抱なのかもわかりません。偽りの愛が完全に枯れ、偽りの生命が完全に枯れれば、、。そういう完全否定を通過するのでなければ、救いだとか、癒しだとか、希望だとか、そんな言葉など思ってみるのさえも罪なのかも知れません。正直疲れています。妻に希望的言葉をかけてやりたいけれど、そんな言葉がかえって空しく響くようで溜息にしかなりません。明日はまた往復二時間かけて治療に向かいます。何度も何度も病院への道を往復しました。お互いの間に一言の言葉もなく往復してきました。確かにそうだったと気付いて、明日は御父母様を想って歌でも口ずさんでみようかと思います。そんな取るに足りない些細なことでも、今の私達にとっては大きな精誠だと思います。息をしているのさえも不思議なくらい落ち込んでいるのですから、、。始めて御父母様の御前でひとりご挨拶させて頂いたとき、御父様は横を向いたままでした。部屋を辞退するまでそのままの姿勢を崩されませんでした。今の今でもそうです。私の中の御父様はその姿勢を崩されて私に顔を向けてはくださいません。それでも私は渾身の力で叫びます。チャンプモニム、サランヘヨ。

2014年8月7日木曜日

今日の想い 773

統一教会は既に次元を上げようとしている。世界平和家庭連合へと位相を上げようとし、天宙平和連合のもとにある。統一教会という名前を改名しただけで何も変わっていないと内心思っている者達が多くいるが、(それは外部だけではなく内部にも大勢いて、殆どの兄弟がそこに留まったままだ。)改名したが内容は変わっていないと言うのではなく、次元を上げて位相を変えようとしているということだ。しかしその意味が未だにわかっていない。グループ派は、御父様が統一教会という宗教を卒業したと話されたのに、未だに食口は統一教会の名前は変わっても同じ意識のままで宗教圏から解放されていないと、そして責任者も旧来と同じように食口に宗教的枷を嵌めていて変わらないと、彼らの言動からしておそらくそう思っているに違いない。彼等にすれば自分達こそ宗教圏を卒業して本流として流れている世界平和家庭連合だと信じている。しかし本当にそうだろうか。地上に残られた御母様を中心とする私達が宗教圏に取り残された者達であって、宗教圏を卒業できない者達なのだろうか。ここで思い込みを緩めて問わなければならないことは、天一国とは何だろうかということだ。そして、一方で統一教会が行くべき全体目的である世界平和家庭連合があるのであり、その全体目的と天一国との関係性とは何かということだ。統一教会が行くべき全体目的とあって、そこに世界と冠している以上、宗教圏であった統一教会は宗教と科学が一つになって世界的位相に立つ必要がある。要するに正式名称が世界基督教統一神霊協会とあるように、代表的宗教である基督教を中心にして宗教圏をひとつに、特に旧約新約成約を一つにしてきたのが統一教会だった。一つになった宗教圏を代表して立ち、全てを二分してきた宗教と科学を一つにして世界的位相に立つことが全体目的ということになる。それで家庭(祝福家庭)、氏族(氏族メシヤ)、国家(天一)、世界(世界平和家庭連合)、天宙(天宙平和連合)という展開ラインができる。そしてそれぞれの位相が立つ為に南北統一、宗教科学の統一、アベルUNとカインUNの統一という相似形が展開される。統一教会が世界平和家庭連合に名前を変更した途端にその位相になれるわけではない。それは行くべき全体目的であり宗教を捨てろと言うのとは訳が違うはずだが、グループ派の言動と行動を見る限りでは、御父様が心魂を注いで育ててこられた統一教会を無視し破壊しようとしているようにしか思えない。御父様のみ言葉に、宗教圏を越えろという話はあっても、宗教を捨てろという話は聞いたことがない。

2014年8月5日火曜日

今日の想い 772

「アダムとエバは神様の万代の一人息子と一人娘でした。万代の一人息子と一人娘であった神様の息子、娘を滅ぼしたのは、愛の器官である生殖器でした。永遠不変の愛の器官であり、永遠不変の神様の心情の主流を受け継いで、永生不滅の福地基盤を形成することを破壊したのが堕落です。」 天聖経 第二節人間の堕落より
アダムとエバが神様の息子娘であるからアダムとエバは兄妹だ。アダムとエバが兄妹であったということと、イエス様が妻として迎えるべきは腹違いの兄妹である洗礼ヨハネの妹だったと御父様が言われたこととは関連があるはずだ。そうなると再臨主としてイエス様の使命を受け継がれた御父様と御母様の関係にも関連があって当然だろう。御母様が胎中から聖別されて生まれてきたと明言されたのはその通りの意味だろうと思う。近親相姦という関係性は堕落している親だから言えることであって、アダムエバも、イエス様と妹が為されたであろう子羊の婚宴も、堕落していない神様を中心としているから近親相姦ではなく近親結婚だ。今日では同性愛が大きな問題となっているが、そうならざるを得ないのは近親相姦によってそうなってしまったと言われている。ようするに本人自身の問題というより血統的な問題として、近親相姦という種を蒔いた結果としての表れだ。アダムエバ自身がフリーセックスであり近親相姦だ。エバはルーシェルと関係を持ち兄であるアダムとも関係を持ったからだ。もし堕落しなければ神様の心情は創造の心情だけであったが、堕落した為に復帰の心情が創造の心情を凌駕している。喜びではなく悲しみと涙から始まる神様の復帰の心情こそが先ず私達が尋ねなければならない心情であり、御父様の私達の訓練は敢えて自分の首を絞めるかのような、この世から否定され疎外されて当然のような歩みだったのは、復帰の心情を私達に植え付ける為であったと言えるかも知れない。アダムとエバは神様の心情を推し量ることができずに堕落した。私達がアダムとエバを越える為には、神様の復帰の心情を推し量らざるを得ない状況に追い込まれてこそ、越えることができなかった長成期完成級を越えることができるのであり、さらに創造の心情を受け取れる高みにまで入っていくことができる。御父様が私達に相続されようとしたことはどこまでも心情であり、み言葉の本質も心情であり、心情に根差したものしか残らないし流れ去っていく。結局は私自身も心情に根差していなければ去らざるを得ないという心情審判を受けることになる。同性愛という、近親相姦の種をまいた結果が、これからますます生活圏に入ってくる。彼等を異質と捉えて関心を持つことも近付くこともなかったが、それは心情に裏打ちされた態度でも行動でもないだろう。意外と、頭脳明晰で相手の心の機微に鋭い彼らは、摂理を推し進める大きな力になるやも知れない。彼らには彼らしか理解できない神様の復帰の心情があるはずだ。

2014年8月3日日曜日

今日の想い 771 ( 神様と人間の生殖器 )

「絶対信仰、絶対愛、絶対服従は生殖器についていう言葉です。堕落とは、神様と人間の生殖器が一つになれなかったことです。合徳(和合)できなかったのです。それを絶対信仰しなければなりません。私の家庭の歴史の柱であり、私の一族の歴史の柱であり、私の血統の歴史の柱だというのです。」天聖経、第二節人間の堕落から
堕落は天使長とエバの生殖器がひとつになったからであり、神様と人間の生殖器がひとつになれなかったことによっている。神様がアダムの体を着てエバの生殖器とひとつになるべきだった。このみ言葉の絶対信仰しなければならないという言葉の前後が脈絡のない言葉のように思われるが、神様と人間の生殖器が一つになる、合徳するとは、歴史の柱とすることが縦的な生殖器の合徳(神様と人間の合徳とまでは断言できない)を意味していることがわかる。それを絶対信仰しろと言われている。生殖器は横的に使用するに於いて家庭の歴史であるとか一族の歴史であるとかさらには血統を踏まえた縦的なものを立てろと言われている。神様と人間の生殖器がひとつになることを理解するには、そこに感覚的なものを持ち込もうとすると既に横的地上的にしか理解しようとはしていない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は神様に対して、或いは神様と一体となられておられる御父母様に対しての私達の在り様として語られたみ言葉だという理解がある。それが生々しい生殖器についていう言葉となると、どうしてもそこに性という感覚的なものが先ず観念としてあるから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従が迷宮に迷い込むようだが、生殖器の縦的な在り様は血統の歴史の柱だという生殖器の本質を知り、生殖器の概念が変わらなければ上のみ言葉を理解することはできない。御父様が生殖器の御話をされる度に、これは笑うような話ではないと何度も注意された。それは照れ笑いしている私達を見て注意されたのだが、私達の生殖器の観念が照れ笑いさせている。感覚的生殖器からイメージするものだけを内面に持っていて気恥ずかしさをを覚えている。御父様の生殖器の概念と私達の観念は根本的に異なっている。個性完成、人間の創造目的の完成とは神人一体化であり合徳であり、み言葉を尋ねていくとそれは人間が神様の生殖器そのものになることではないかとさえ思えてくる。

2014年8月2日土曜日

今日の想い 770

御父様の道は復帰の道を尋ね求められた道であり、私達の道は御父様が既に明らかにされた原理に従って歩んでいく道だ。しかし原理の道(復帰原理の道)に従うという意志がなければ従えないのが人間であり、アダムとエバが堕落したのは結局は神様の心情を無視して堕落したのであって、そうなると原理の道に従うと意志させるものは神様の心情を尋ねるところにあるはずだ。私達は原理の道を明確に差し出されながら、必死でその道を歩ませまいとする強力な力が私の血の中に流れている。何千年、何万年に亘って滔々と流れてきた堕落の血統をそう簡単に絶やせるものではない。根腐れするのにも期間がかかり、その間痛みや苦痛に耐えしのぶ覚悟が必要になってくる。それは私の代で終えられるものかも知れないし、何代にも及ぶものかも知れない。今の私の、この年になりながらも祝福家庭として願われている状況にないことを見れば、何代にも続く覚悟を迫られているのだろう。妻の病の問題も、子供達がみ言葉に繋がらない問題も、そのことによって受ける痛みや心痛を抱え続けなければならないという覚悟と、しかしその一方で、その痛みや心痛ゆえに神様の心情を尋ねざるを得ないという内なる力が働いているのも事実だ。祝福家庭として様々な問題を抱えながら、一方で堕落の血統の実としての苦い味を味わい、一方で祝福の血統を根付かせる為に御父母様の心情を尋ねていく。現状の悲惨さを嘆いても、やり切れぬ思いを誰に讒訴できるわけでもなく、自分で抱えきれなくなってしまえば爆発せざるを得ない。地上地獄というけれども、爆発してしまえば地獄の様相を私に体現し家庭に体現してしまう。心と体の相克を、夫婦の相克、天地の相克、神様とサタンの相克を、私の中に抱えていつ爆発するとも知れない状況にある。この戦いを終わらせなければ私の安息圏は訪れない。安息圏は一方におもねることではなく、アベルカインの原則に従ってより神側の存在を主体にしながら対象をひとつにしなければ訪れるものではない。原理の道がこうも難しいものだと、今更ながら思い知らされるけれども、その難しい原理の道を探し出された御父様の復帰の道は想像を絶するものだったはずだ。私の拙い頭は必死で原理を理解しようとフル回転しているけれども、御父様が復帰の道をたずねられた結果として探し出された原理の道を、無知な私が敢えて検証する必要は毛頭ないのであって、私は御父様の御心情を尋ねながら原理の道を歩めばいい。