2010年10月31日日曜日

今日の想い 221

人間の身体形状を見るときに、胴部と四肢は宙である宇宙を形状し、頭部は天である霊界を形状している。簡単にいうと消化器系などの器官系は首から下であり骨の外にあるのに対し、脳神経系は首から上で頭蓋骨や頚骨などの骨の内部にある。頭蓋骨は先端の脊椎が膨らまされた状態であり、脳は脊髄と同じように骨の内側にあると言える。骨を境界として外側が外宇宙であり内側が霊界に通じる内宇宙だ。私という小宇宙は外宇宙と内宇宙がある。外宇宙が胴部と四肢なら太陽にみる恒星的な器官があり火星や木星にみる惑星的な器官もある。太陽の周りを惑星が巡回しているように、血液が心臓を中心として各臓器を巡っている。頭部を形成する内宇宙は心魂の活動領域だ。感覚器官を備えて私と言う太陽系以外の情報を得ながら心魂の活動を為している。霊界の在り様が地上世界の在り様に反映される。内宇宙の在り様が外宇宙に反映される。肉体的様々な症状を抱えているということは内宇宙の在り様に問題がある。心魂の活動に問題がある。人間は堕落することで、神様に繋がる経路を絶たれている。経路を絶たれた心魂は糸の切れた凧状態であって堕落した様々な霊に委ねて活動するしかない。私と言う内宇宙は悟ってみると見事なまでに堕落的中心、即ちサタンを私の内宇宙の中心に置いて活動している。時計が時計としての本来の活動をする為には、中心的ギアが正しく位置される必要があるし、第二ギア第三ギアと順にはめていく必要がある。第二ギア第三ギアが逆にはめられても後に続くギアはそれなりにはめていけるかも知れない。しかし最終的に時計としては動かない。人間の本当の中心的ギアの存在に正しく会わなければならないし、絶対信仰、絶対愛、絶対服従のギアを正しくはめていく必要があり、それで初めて心魂の活動は正しいものとなっていく。内宇宙が正しく存在すれば外宇宙である身体も本来的健康を取り戻すはずだ。御父様は太陽に対して地球の自転が逆周りになってきたことを指摘されている。本来の自転に戻す為に、ある時点で八の字を描くように元に戻されなければならない。宇宙の大変革がなされて地球自転の正常化がなされる。その瞬間を間近に迎えているけれど、私達それぞれが御父様に対して正しく自転を正常化させたかどうかを問われている。信仰年数をどれだけ重ねても、御父様に対する認識を根本から変えない限り、私と言う宇宙は正しくギアをはめられない。

泣ける幸せ

涙を溜めるための涙の器が私の中にいっぱいある。切ない想いは切ない器にひと滴(しずく)ずつ溜められる。悔しい想いは悔しい器にひと滴ずつ溜められる。哀しい想いは哀しい器の中に、寂しい想いは寂しい器に溜められる。器がそれぞれの想いで満たされると、溢れて涙となって頬を伝い落ちていく。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。ただ笑って人生を送りたいと普通であれば思うけれど、涙を流す体験の中には、別の幸せがそこに隠されている。涙を流してこそ内面に溢れるものがある。内面に溢れるものを心情という。心情はマイナスイオンの塊だ。内的なマイナスイオンの塊が内的なプラスイオンを強烈に引き付ける。プラスイオンである神様の心情圏が引き寄せられる。涙が流れるところに神様は尋ねざるを得ない。泣ける幸せは神様が尋ねてくださる幸せだ。食口であれば苦労につぐ苦労を何重にも重ねてきた。当然この世の人たち程の蓄えもなければ知恵も力もなく、同じ地上を生きてきたとは思えないほどの他との違いを自分に見ざるをえなくなった異星からの浦島太郎だ。だけどそれでいい。病に冒され明日の生活希望さえ失いかねない生気のない浦島太郎でいい。やがて滅びる堕落的なこの世に何の未練もない。私は新しい時代、新しい世界を生きて羽ばたく蝶になる。この世にしばしの間足を踏み入れた浦島太郎は、新しい生のさなぎの姿だ。ゴミと見間違うほど生気のないさなぎから蝶は出てくる。疲れ果てて何も残っていない私だと自分でさえ思っているけれど、私達の中には祝福を戴いて蘇った生命の木が育っている。私の中の生命の木は流す涙でもはぐくまれ、尋ねてくださる神様の心情圏の愛の光でもはぐくまれる。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。泣ける幸せは新しい私が育つ幸せに繋がる。

2010年10月29日金曜日

朝日に想う

朝日の刻々と昇る様子を顔を上げて対面しながら、私が太陽の力を受け取るに相応しい存在になっているだろうかと問うことが出来る。砕けて言えば、お天道様に顔向けできのるかと言うことだ。東のブラインドを開けると道の向こうの木立の上から、ひときわ円周を大きくした太陽は上っていく。学校で刷り込まれた機械的無機質の太陽概念は捨て去って、感情の波が収まった早朝の内面に、直接朝日の印象を取り込んでいく。その印象に触発されるものが私の中から湧いてくる。魂の中に入り込んだ雑多な霊が私の感情を揺さぶり弄びながら、それに翻弄されてせわしい呼吸を繋いで毎日を送っているが、その位置に神霊が関与する実のある霊の呼吸はなされない。受け取る朝日の印象の中でこそ活力ある実のある霊の呼吸がなされる。高く上り始めればそのまぶしさで直視できない太陽も、朝日のうちなら目を大きく見開いて対することができる。まだ起ききっていない身体を朝日に曝せば全ての細胞に光が届けられて、眠気は消えうせ足はしっかりと大地を踏みしめる。当然のように、意識もせずに光届く朝を迎え惰性的生を送っているけれど、太陽が存在してこそ自我意識が備わり、主体と対象の世界が私の中にも外にも広がっている。主体の位置では主体の役割をしっかり担いながら愛を与えて太陽と同じ位置に立ち、対象の位置では存分に愛を受けて太陽の相対に立つ。それでこそ太陽をめぐる地球の一存在としての地上生活を送っている。毎朝できるだけ朝日を浴びて一日の出発をなし、御父様がみ言を語られ人類の太陽となられて真の愛を照らされるように、私も愛を与えるひとつの光源体となることを願われている。

田舎の秋を想いながら

薄綿のような雲がパステルブルーにたなびき、山々の木々はそんな背景を背に黄金色の衣を装っている。太陽も随分南よりの経路を西に辿りながら、視線の角度とそう違いない位置から柔らかな光を宛がえば、黄金色の衣装は更に金色に輝く。神楽の舞子の衣装を木々に着けて舞わせる様に、金糸の刺繍で浮き上がらせた龍が踊っている。風が渡るに合わせて龍はうねり、山々の表を葉の摺り合う音を立てながら這って行く。去年は重ねて降り続く冷たい秋雨に、色付くのを待たずに打たれてあっけなく枯れ落ちてしまった。今年の秋の見事なまでの色付きを視覚を通して取り込めば、去年と今年の明らかな印象の違いを読み取れる。今年は豊年満作だ。光の中に、空気の流れに、神様や高次の霊的存在達の満足感や歓びが満ち溢れている。視線を落して私の周囲を見回せば、病を始め山積みの問題が相変わらずひしめいてはいるけれど、天が喜び祝いの宴がもよおされているならそこに同参させて頂いて、祝いの気持ちを差し出すべきだ。天が喜んでいるのに私が塞ぎこんだままでいるのはよくない。今年は実体み言宣布を韓国、アメリカでされて、天宙のすべての境界線が撤廃され、天地が神様の統治の下に永遠に存続していく。今日の秋晴れのように淀みも霞みもなく、神様がどこまでもどこまでも見渡せる霊界になったということだろうか。あまりにも無知で御父様が語られ宣布される意味も価値も解らず、立ち尽くして口を開けたままの不甲斐ない私であっても、心からの御祝いの気持ちを供え続けることで同じ立場で同参することができる。神様が喜ぶとき私も喜んでこそ堕落圏から抜け出ることが出来る。田舎の秋の、野山の彩の中で、太鼓がこだまし笛の音が響くあの秋祭りの高揚を、今心の中で再現しながら天の歓びに合わせて舞っている。

2010年10月28日木曜日

更に霊界を考える

霊界がわからないと言う。”私が霊界を背負っている”というみ言を指し示し、霊界は背負えるものなのかという疑問を持つ。”私の中にある霊界”という認識もできなければ、ましてや霊界を背負うという意味は更にわからない。地上的な認識方法をそのまま霊界に対する認識に当てはめようとするから辻褄が合わなくなってくる。五感では認識できない世界が存在することは理解できても、非常に漠然としたものであって地上生活ほどの現実感を持って霊界に対している訳ではない。霊界が主体であるけれども依然として現実性の高い地上界に意識の大半を置いている。私達は私を中心として外界と内なる世界を認識している。外界に於いては色や光、音や匂いなどの感覚体験を持つがその背後の世界を窺い知ることは出来ない。内なる世界に於いても限界があり、快不快、喜怒哀楽、情熱や欲望という魂の営みがあることは感じることができるが、その背後に隠された深層に入り込むことは出来ない。外界に於いても内界に於いても、それらの人間知覚の限界を超えた先に霊界はその様相を現す。私達が外界に知覚しているもの全ては未知なる霊界の顕現であり、内的に知覚する魂の営みの全ても霊的存在の顕現だ。私の魂を舞台にして様々な霊がその本質を現している。外界にも内界にも私の知覚の及ぶ限界があればこそ、地上生活をまともに(?)為して行く事ができている。今の現代人に取って準備無しに感覚世界を超えれば、ちょうど薬で自我を麻痺させ、限界領域を無理にでも超えて幻覚の中に意識を泳がす者のように、自己破滅を来たしてしまう。しかし知覚領域に於いて感覚を粗雑なものにしたままでいるのは、外界に顕された霊的存在の叡智に触れることが出来ず、外界に愛や心情を見ることができず受け取ることも出来ない。外界に対して愛を受け取り愛をもって関わりながら、私の内界という小宇宙を愛で満たし愛で脹らませている。それが生の領域を超えた時に、私を中心とする外界と内界は反転して、培った内的なものが周囲に存在し輝くようになる。その意味で、私は生きている間霊界を背負って生きている。

2010年10月24日日曜日

紅葉の時期に

春の気分として、芽が出て成長する様の中に生命と精神が混然一体となっているのを感じる。それに比べて秋の気分は葉が色付いて枯れ落ちるように、枯れ落ちた地上存在を後にして分離した精神が高みに昇り生命要素は解き放たれるという、精神と生命の分離だ。春に一体となっていた正の位置から、秋の精神と生命の分離を経て、新たな合成一体の種子を作り出す。正分合の作用を為しながら分離されていく精神と生命が、次のステージを生きる種子に刻印していく。春の気分の青年期を経て年を経るに従い、次第に人間の関心は外的肉的生命的なものから内的霊的精神的なものへ比重を移していく。そうしてやがて自らの生命要素を完全に解き放って己の精神は高みに昇華する。色付く紅葉の中に、風に誘われるままに生命の基である枝から己を切り離し舞い落ちる枯葉の中に、青年期を遠に過ぎた私自身が映り出されている。壮年期の私がそこに映り出されており、老年期の私がそこに映り出されている。それを見て物悲しい感情で魂は染まるのか、或いは精神の実りを色付きとして受け取り、静かな晴れやかさで魂を満たすのか、それはひとりひとりの人生をどれだけ誠実に、精誠を込めて、真剣に取り組んできたかによるだろう。この歳にして未だにこの世的なものへの執着を持て余し、分不相応な必要以上のこの世的扱われ方を欲する私には、明日にでも散り落ちるだろうに見事に色付いて己が生き様を燃え尽くした晴れやかさが心に眩しすぎる。季節それぞれの自然の姿を、その内的な意味するところも知らずに年月を重ねてきた恥かしさを、この歳になってやっと気付き始めている。秋が深まりその中に佇むと、燃え立つ紅葉は精神の昇華の色だと認識できる。

2010年10月23日土曜日

今日の想い 220

人間は五感から受け取る印象の中に埋もれながら自分自身を見出せないまま生きている。外界から受け取る情報の全てを遮断すべく五感の触手を消し去られた時、それでも残るものは私は私であるという感覚だ。私は私であるという感覚はあるけれども、その私は一体何なのかを知らないし尋ねようとはしない。五感から受け取る印象を魂に反射させながら、その活動を私だと認識するに留まり、その奥に尋ねて行くことはしない。外的に或いは内的に、何らかの形で人生が特異なものとなり、意識を感覚世界に留めることに疑問を覚えて意識の光を別の世界に向けた者、即ち宗教的に目覚めた者が私の存在を突き止めようとする。私が神様に直結する私という存在であることを、どれだけ認識しているだろうかと私に問わなければならない。伝道され、み言を聞き、御父様を再臨のメシヤであり真の父母だと認め、み旨に歩んでいる私だという認識はあるかのように思える。しかしそれは極めて曖昧なものだと言えないだろうか。日々の現実以上の現実性を供えたみ言であり、真の父母との関係であり、み旨であるのかと問うならばどうだろうか。私の中にみ言的言葉は響いているけれど生活実感以上に響いているかといえば首を傾げざるを得ないだろう。内面に意識の光を更に照らしながら、私と神様との接点をより太いものとし、より強いものとする。私と神様を繋ぐ神経としてみ言を体恤しながらみ旨を歩む中で筋力を付けていかなければならない。私が神様を認識出来ると言うことが、神様が私を認識しているということだろう。五臓六腑や四肢、感覚器官が神経中枢に繋がってこそ完成人間体と言えるように、全人類が繋がってこそ神様の実体として完成されるはずだ。私が神様の身体の一細胞であり一部分であるなら、私は神様の身体のどの部分を築く役目を担っているのだろうか。